中国・東アジア

明・靖難の役と永楽帝以降の治世<1398~土木の変まで>【中国史】

歴ブロ

明の初代皇帝・洪武帝は新たにを建国し、皇帝に権力を集中させる形の国家を樹立。光武帝の26人の男子が生まれていますが、彼らを国内の重要拠点で諸王に封じ明の守りの要としています。

特に守りを重視したのが、モンゴル系をはじめとする異民族のいる北方面。

諸王の多くは実権を持ちませんでしたが、対モンゴルの備えをするには実権なしでは上手く回せません。北平(現・北京)など9か所を任された諸王には軍事権などが与えられました。

が、洪武帝が亡くなり新たに16歳の孫・建文帝が即位すると、側近の意見に耳を傾けて諸王たちの権限を削減させる方向に向かいます。当然、諸王たちは大反対。反乱を招くこととなります。

この反乱が【靖難の役(せいなんのえき)です。

今回は靖難の役で何が変わったのか、その後の明はどうなったのか?をまとめていきます。

 

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クーデターによる世祖・永楽帝の即位と黄金期の到来

洪武帝家系図

明朝建国後に皇太子に立てられたのが朱標。光武帝の長男です。が、享年38歳で急死。皇帝はその死を悼み懿文太子の諡号を送っています。皇太孫として立てられたのが懿文帝の長男・朱允炆でした。洪武帝が亡くなると、遺言の通りに皇太孫が建文帝として即位。

この後、諸王の権限を削減したことで靖難の役が起こったのはお話しした通りです。

 

永楽帝の即位

この時に挙兵したのが燕王・朱梯。彼の挙兵が成功したのは、

  • 北平一帯という対モンゴルの最前線に送られた諸王で屈強な軍が揃っていたこと
  • 禁軍は父の代での圧政で忠誠心が低く、数の上で有利なものの強くなかったこと

などが挙げられます。さらに洪武帝は過去の王朝の失敗から宦官の政治関与を冷遇していたため、燕王に内通する者もいたようです。

こうした要因が重なって3年で反乱は幕を閉じ、1402年に朱梯は永楽帝として即位したのでした。

が、儒教国で皇帝に反乱を起こして皇位を継承なんて許されるわけがありません。経緯が経緯だけに明代では建文帝は皇位についていないことになっています。

 

黄金期の到来

永楽帝の性格は、父に似て猜疑心が強く残虐性を持つ性格でした。が、政治的には正反対。

洪武帝は皇帝の権力をとにかく強くするため内政に力を注いできましたが、永楽帝の関心は完全に外に向いています。

外交政策

モンゴルへは5度ほど侵攻、遼東と呼ばれる中国東北部~シベリア沿海州の経営にも乗り出しました。更に、チベット支配やベトナムの領土編入、ティムール朝との接触や朝鮮半島への影響力強化、日本で足利義満が『日本国王源道義』として朝貢したのも永楽帝の治世下で行われています。

中でも世界史的に最も知られているのが、宦官の鄭和という人物による「西洋下り」です。

15世紀半ばから始まったヨーロッパの大航海時代よりも先立ち、平和的な就航と通商を目的としていました。インド、アラビア、アフリカ東岸にまで及ぶほど非常に長い航行距離となりました。

南京から北京への遷都

1421年になると都を南京から北京に遷しています。

というのも洪武帝の頃の明の中心は江南。首都を応天府(南京)としていました。その跡を継いだ歴史に隠されてしまった甥の建文帝も同様です。永楽帝は、その建文帝から「皇位を簒奪して皇帝になった」ということで世論から厳しい批判を受けています。

そこで建文帝の支持者が多い応天府(南京)ではなく、自身の基盤・北平に「北方の遊牧国家を警戒するため」という理由をつけて遷都したのでした。ちなみに北京の別名は燕京。燕王だった永楽帝の本拠地に当たります。

北平にあった前王朝・元の旧城よりやや南方に新宮を造営。この造営した新宮こそが故宮(紫禁城)の祖型となりました。

内政の変化

洪武帝の頃はとにかく政治に宦官を関わらせないようにしていましたが、永楽帝が即位するキッカケになった【靖難の役】を支えた者の中には洪武帝と建文帝が抑え込んだ宦官たちが結構います。

そうした背景から永楽帝は宦官を重用し始めました。

更に、永楽帝は内閣を設けて複数の殿閣大学士に関与させるようになります。元々は単なる相談役でしかなかった大学士が、実質的な宰相の役割を果たすように。

明の政治のしくみ

明治以降の日本の行政府が【内閣】と呼ばれるようになったのは、明の時代の内閣大学士が由来です。

 

永楽帝後の治世

永楽帝は5度目のモンゴル遠征の帰り道で幕営で死亡。跡を継いだのは仁宗・洪熙帝でした。が、病気のために8ヶ月で急死。第5代は洪熙帝の息子の宣徳帝です。叔父の反乱を鎮圧し皇帝としての足元固めをする一方で、永楽帝の治世下での膨張政策の後始末をつけることにしています。

また、科挙出身の優秀な官僚がようやく育ち始めたのがこの頃。ようやく漢人による歴代王朝のような治世を目指せるようになりました。

そのため、父の代(と言っても8ヶ月のみですが)と合わせて【仁宣の治】と呼ばれる黄金時代を迎えています。

一方で、永楽帝が生前「東廠(とうしょう)」と呼ばれる諜報機関を設けて政敵の情報収集をするなどして巧みに宦官をコントロールしていたのに対し、徐々に宦官が政治に携りはじめるようになったのもこの辺りの時期からです。

 

土木の変(1449年)

洪武帝によって1388年に一度は滅ぼされた北元が、明で起こった靖難の役の混乱期に勢力を回復。永楽帝の代で5度攻め込んだものの滅ぼすまでには至らない中で起こったのが土木の変と呼ばれる事件です。

在位10年で宣徳帝が亡くなると、わずか9歳の英宗正統帝が即位。

前代までの政治的安定があったため国内の不安はありませんでしたが、北方からエセン・ハンが率いるモンゴル系民族のオイラト軍が大々的に侵攻してきます(この頃には正統帝も20代前半)

遊牧民でビタミンを摂取しにくい環境で暮らしていますから、お茶で植物性の栄養を補給したく明との交易を望んでいたのです。モンゴル側は馬を提供する「茶馬貿易」を希望しますが、鎖国政策で頑なに首を縦に振りません。こうしてモンゴルが明に侵攻したと言われています。

 

英宗の教育係であった宦官・王振の勧めもあって親征したものの、王振は戦死し英宗は敵軍の捕虜となってしまう大失態となりました。

明では、この混乱を乗り切ろうと軍の高官が中心となって擁立した英宗の弟・景泰帝が即位し、北京だけはとにかく死守。オイラト軍は退けられ、和議を結ぶと明側は譲歩して内蒙古での取引を認めています。

が、北からいつ攻め込まれるか分からない。国家財政を北辺防備につぎ込まなくてはならなくなりました。

明は朝貢国とのやり取りを縮小せざるを得なくなり、永楽帝の治世下で三十数カ国まで増えていた朝貢国は15世紀末にもなると日本・朝鮮・琉球など6カ国にまで減少しています。

※寺田隆信著 中公新書『物語 中国の歴史 文明史的序説』(2013)より

 

ちなみに助けられて明に戻った英宗は弟の景泰帝と皇太子問題を巡って微妙な関係に。景泰帝の病をきっかけにクーデターを起こすと英宗が再び皇位につきました。

ということで、景泰帝の治世下では内部対立に目が行きがちになってしまい対外政策が疎かに。完全に守勢に転じて北方の万里の長城を改修してモンゴルの侵攻に備える消極策を取る羽目になりました。

ちなみに、最終的な皇位継承は英宗の系統に戻っています。

 

こうして社会的な変化が起こりつつある中、明ではニート皇帝が誕生。衰退が加速していくのですが、長くなりそうなので次回の世界史の記事で紹介しようと思います。

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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