ニート皇帝・万暦帝の治世と明の衰退<1449~1644年>【中国史】
前回はクーデターにより即位した永楽帝とその系譜の皇帝たちが黄金時代を築くも、そのクーデターの間に北方でモンゴル勢力が再拡大し、明がピンチになり始めたところまでお話ししました。
そうした社会情勢の中で、ヨーロッパでは大航海時代に突入。中国でも産業が発展し、貨幣経済が農村部にも入り込んだのです。こうした大きな変化は新たな社会矛盾を生み出し、明を衰退させる方向へと向かわせます。
その上、そんな社会情勢の中で出てきたのが引きこもりのニート皇帝。明にとって物凄いダメージの大きい皇帝が誕生していました。
今回は、そんな明の衰退についてまとめます。
海禁政策の緩和
社会情勢の変化と共に、貧窮に陥った者の中には故郷を捨て、都会に出たり海外流出したりして華僑の始まりとなった者、流民となって反乱を起こす者、東シナ海全域では海賊集団となった者も現われるようになります。いわゆる後期倭寇です。
前期は日本人が多くいましたが、後期倭寇で明や朝鮮出身者が多くなっていたのは、そうした社会背景がありました。
彼らの目的は略奪行為もですが、どちらかと言うと私貿易・密貿易を行うこと。
だったのですが、明の方も外国との関係を全く無視できない情勢となってきたため『土木の変』以降の海禁政策を緩める動きが1567年に決定的となりました。民間貿易が認められ、私貿易を行っていた後期倭寇の脅威が終焉を迎えることになりました。
社会の変化
ヨーロッパの大航海時代突入を機に国際商業が活発化すると、中国国内にも商工業の発達の波が押し寄せました。
洪武帝の時代に奨励された綿花栽培は、15~16世紀頃になると長江下流域のいわゆる江南デルタ地帯と呼ばれる地域で飛躍的に作られるようになっています。今でいう上海特別市の一帯に当たります。
宋代以降「蘇湖熟すれば天下足る」と言われたように中国最大の穀倉地帯だった江南デルタ地帯では、重い税や小作料負担から始めた副業から始まり綿花栽培が盛んになっていました。また、同様の理由で蘇州や杭州でも絹織物の生産が発展していきます。
※地殻変動の影響で土地の水はけがよくなりすぎ、稲作ができなくなった説もあり。その稲作ができなくなった場所が上海特別区周辺と言われている(『世界史と繋げて学ぶ中国全史』(2019年)岡本隆司著 東洋経済新報社より)。
海外交易が盛んになり綿製品や絹織物が海外へ輸出されると、各地でますます生産が盛んになります。織物以外にも四川や福建では茶の栽培、景徳鎮の陶磁器など、諸地域に根差した産業も発展。国際商品として世界各地へ輸出されたのでした。
一方で国内を賄うだけの穀物が江南で作れなくなったため、今度は現在の湖南省・湖北省を中心とした長江中流域が新たな穀倉地帯として躍り出て「湖広熟すれば天下足る」と言われるまで成長しました。
ただし「湖広熟すれば天下足る」の場合は、あくまで分業・物産の移動が前提であって「蘇湖熟すれば~」の時代とは意味合いが変わってきていたようです。
張居正による体制の改善
その後、1572年には幼い10歳の皇帝・万暦帝が即位。宰相に当たる内閣大学士の張居正主導による諸改革が行われます。その実力は北宋時代の王安石と比較される程でした。
この頃には北虜南倭の脅威は去っていましたが、長年続いた北虜南倭への財政出動による痛みや政治腐敗による賄賂・汚職で内部がボロボロだったためです。
張居正は約10年に渡って、その地位に留まりながら内政の充実と周辺諸民族との関係を安定化させました。例えば国内では一条鞭法の施行。税のごまかしを暴いて納めさせることで財政の安定化を図ったのです。
が、革命には痛みがつきもの。政敵を蹴落としたり言論を抑圧するなどの際にかなり無茶を重ねたため、彼の死後の世論に押され張居正本人の遺体や家族に過酷な罰が加えられたと言われています。
この件との関連は分かりませんが、張居正以降国のために責任を持とうとする大臣は出てこなかったようです。
引きこもりのニート皇帝の誕生
張居正はまだ幼い万暦帝を理想の皇帝に育て上げるために教育もかなり厳しく行っていたのですが、万暦帝は口うるさい張居正が亡くなると贅沢三昧の堕落生活。逆効果の結果となりました。
万暦帝の親政期間は張居正を失ってから38年にも及びますが、その間、政務は放棄され、浪費ばかりの引きこもり生活を送っていたのです。25年も朝廷に顔を出さず大臣にも会わずの新記録を打ち立てたとも言われています。
この時代は寧夏でモンゴル出身の将軍ボハイによる反乱や豊臣秀吉による文禄・慶長の役、播州の土官・楊応龍の反乱などが立て続けに起こっていた時代。当然ながら国庫を使って対応せねばなりませんでした。
中でも朝鮮に対する支援のために遼東駐屯の精鋭部隊を対日本に投入。この地域の防衛体制の隙をついて女真族の台頭に繋がっていくことになります。
明の衰退
ニート皇帝もとい万暦帝の治世下では中央、地方共にガタが出るようになっていました。中央では張居正が頑張って国内の安定化を図っていた一方で反対派が陰で勢力を伸ばしています。地方も地方で社会変化に伴って矛盾が生じ、不満が出るようになっていました。
明末期に地方で起こっていたこととは?
五代十国の時代から長江下流域(江南)で行われれていた農業の基本的な担い手は主に佃戸(でんこ)と呼ばれる小作農です。
大土地所有者もいますが、基本的に人口密度の高い江南では狭い土地しか工作できない者達が多くいました。その上で地主の収奪を受けていたということで生活は苦しいものだったそう。
15~16世紀にかけて産業や商業が発達して貨幣経済が農村部にまで入り込むと、銀を手に出来ない農民たちは商人や高利貸したちの支配を受けるようになりました。時に土地を手放す者達も出てきます。商人が地主となったり地主となったのです。
元が農民ではなく経済の都市部に住むような人たち(城居地主)も出始め、土地を手放したような農民たちはどんどん窮迫。
ついに農民達は地主に対し小作料の減免を要求して立ち上がる抗租運動を起こしました。
その最大規模の反乱は鄧茂七の乱(1448~49年)で土木の変の前年には起こっていましたが、鄧茂七の乱の後にも江南を中心に清初期まで各地で抗租運動が発生しています。
中央で起こっていた事とは?
地方で農民たちが立ち上がる中、朝廷内部では
- 万暦帝の後継者を巡る争い
- 増税問題で宦官と結んで政界を握ろうとする一派 vs. 顧憲成をはじめとする反対勢力
などの対立が起こり始めます。
顧憲成は元々張居正の独裁政治を反対していた一派です。
が、張居正が直接関係していたわけではなく、張居正の死後ダメ皇帝となった万暦帝の親政や内閣を批判し、対立した末に追放され故郷へ戻った後に事は起きました。
北宋末~南宋初に存在し一度は廃止されていた東林書院と呼ばれる私学校を復興させ、知識人を養成すると政府批判を繰り広げました。こうした知識人たちのグループは東林派と呼ばれています。
この東林派に批判されたグループが宦官と結託。両者は激烈な論争が繰り広げられ、とうとう政争にまで発展したのです。万暦年間末期には東林派の重要人物は逮捕され獄死あるいは追放となり東林書院も閉鎖されることとなりました。
遼東での女真族の台頭
明が内部で混乱している頃のこと。
明の冊封体制下に女真族(明では「女直」と呼ぶ)は建州女直(遼東の山岳地帯に居住した女真族の集団)が5部、海西女直(開元・吉林の辺りに居住)4部、野人女直(建州・海西以外の東方部に居住)の4部、計13部に分かれて、苛烈な競争を繰り広げていました。
元々、対モンゴルの為に女真族を利用しようという明の方針があり、各地の女真族の部族長に官職を授ける一方で、飛びぬけた力を持つ部族を出さないようにしていたのです。
そんな中で建州女直の一部、スクスフ部と呼ばれる部族に、1559年、愛新覚羅一族からヌルハチという人物が誕生しました。生母と死別し苦労して貧しい中で育ちますが、21歳の頃にようやく成功。十分な衣食や騎馬を手に入れられるように。
ところが、1583年に父と祖父が明の軍人によって殺害されるとヌルハチが挙兵します。その過程で建州5部の統一どころか女真族を統一させました。ちょうど文禄・慶長の役(1592/1593年)で遼東が手薄になっていた頃の話です。
ヌルハチは1616年に後金を建国。「七大恨」を掲げて明との対立を明らかにし、挙兵しています。
※女真族が12世紀前半~13世紀前半に華北を支配した国・金と区別して後金と呼ばれる
- 第一、明朝は、理由もなくわが父と祖父を殺害した。
- 第二、明朝は、お互いに国境を越えないという女真との誓いを破った。
- 第三、明朝は、越境者を処刑したことの報復として、使者を殺して威嚇した。
- 第四、明朝は、われらとイェヘ(葉赫)の婚姻を妨げ、女をモンゴルに与えた。
- 第五、明朝は、耕した土地の収穫を認めずに、軍をもって追いやった。
- 第六、明朝は、イェヘ(葉赫)を信じて、われらを侮った。
- 第七、明朝は、天の意に従わず、イェヘ(葉赫)を助けた。
※イェへは海西女直に属するイェへ部の首長を輩出した氏族。
最期の皇帝・崇禎帝(1627~1644年)
万暦帝が亡くなり、次を担った皇帝派英邁と評判でありながらも即位1か月で崩御(暗殺と見られている)。その息子の天啓帝が即位するも宦官・魏忠賢が専横するようになると、政務の裏で大工仕事をするようになります。
その天啓帝も7年で崩御。弟の崇禎帝が即位しました。
この頃には後金の勢力も拡大し、どうにもならない状況に。即位してすぐ魏忠賢を排除し名臣と名高い徐光啓を登用、財政再建に務めましたが、対ヌルハチのために新たな税を設けなければならず、国内では飢饉が相次ぐと各地で反乱が起こり始めます。
内部が分裂状態になった中で崇禎帝は猜疑心に駆られます。誅殺や罷免が幾度もあり、重臣たちの士気低下を招きました。
その中で最も大きな農民反乱が李自成の乱が起こります。
1644年、最終的に李自成らに北京を占領された崇禎帝は側室と娘たちを殺害。皇后の自害を見届けた後、自身も自殺。ここに明は滅びることとなりました。最後まで残った臣は宦官の王承恩ただ一人だったと言われています。
李自成は自ら皇帝を名乗りましたが、北方からヌルハチからホンタイジに代替わりし国号を改めていた清が万里の長城を越え、北京に迫ってきます。
農民反乱から皇帝になった李自成が対応できるわけもなく、清軍に追い詰められた李自成は自死。こうして中国は新たに清王朝の時代に突入していくこととなったのです。