宋による統治を見てみよう【960~1276年】
唐のような大きな国が混乱し、紆余曲折の末に宋が誕生。最終的に宋となった地域では統一する前の段階でいくつもの国が攻防を繰り返していました(五代十国時代)。そうした事実は周辺諸国にも当然影響を与えており、東アジアの諸政権は一斉に交代する時期に突入することに。
今回は具体的に宋の社会について見ていき、次の記事で他のアジア地域の諸政権の交代劇についてまとめていこうと思います。
宋の統一と統治の基本姿勢
趙匡胤が太祖(在位960~976年)として皇帝に即位し宋を建国すると、その後十余年の間に地方政権を平定。弟の太宗(在位976~997年)の代では最後まで残っていた十国の呉越(南部の地方政権)と北漢(北部の地方政権)を滅亡させて中国を統一させました。
その宋の時代に支配者階層となっていったのが新興地主層です。
彼らは五代十国時代には既に台頭しはじめ、新たに形勢戸と称されるように。形勢戸は佃戸(小作人)を使用し、収穫の半分を地代として納入させることで非常に裕福な存在でした。
さらに形勢戸は官僚の供給基盤であり、官僚を輩出した家は官戸と呼ばれていきます。その後の形勢戸は士大夫と呼ばれる階級の母体となりました。
こうして士大夫は儒学や教養を身につけた知識人、官僚、かつ地主という支配者階層となっていったのです。
一方、唐の末期から力を持つようになり五代十国では国を興した藩鎮勢力。武力を背景とした専制的な政治が行われて国の興亡が繰り返されたため、宋代には軍事・行政権を持つ藩鎮を解体することにしました。
精兵たちは皇帝直属の禁軍(親衛隊)に吸収するだけでなく、中央としてネックになっていた行政権や財産権も回収。州県の長官は中央から文官を派遣する形の統治方法に落ち着いています。
とにかく武断政治を何とか抑えたかったので軍事行政や作戦計画を司る枢密院の長官にも文官を任命しました。
この宋代の徹底した文治主義の要となった文官の登用法が科挙。科挙は高級官僚になるために受ける試験制度で隋の時代に生まれ、唐の則天武后の時代に本格的に導入されています。
宋の統治の問題点とは?
武官を徹底的に政治の場から排除し、文官による統治を行った宋。武官がいないと当然困るのが戦争になった時の対応です。対外的な軍事力の低下を招いてしまいます。
ここで思い出してほしいのが、五代十国時代に華北を治めたい後晋という国がとっても強い北方の国・遼(契丹)に協力してもらうために差し出した燕雲十六州。
北方の遊牧民族を抑えるために作られた万里の長城の内側にある地域です。
折角の守りの要が役に立たない上に軍事力が低下していたことで北方遊牧民族からの圧迫に対して消極策をとらざるをえませんでした。
遼に対しては1004年には澶淵の盟を結んで毎年絹20万匹(一匹=布地4丈、約12.29m)、銀10万両(=一両37.3g)を送る約束をしています。お金で解決しようとしたわけです。
加えて遼の王室との婚姻関係を結んで両国は宋を兄とする兄弟関係を築きました。
また、万里の長城の西方に存在したタングート(党項)族が建てた西夏とは慶暦の和約を結び、遼と同じように莫大な歳賜を贈ることで国境を守っています。
ここでも宋は上下関係を定めました。西夏に臣下の礼を取らせて建前上の面目を保ちながら対等の立場で約束事を決めたのです。
こうした対応ですから当然ながら国家財政は追い込まれることになったのですが、そもそもここまで多額の歳賜を贈ることが出来たのは宋が経済的に豊かであったから。
次はなぜ宋が経済的に恵まれていたのかを説明してみましょう。
宋代の社会経済
北方に異民族がいて圧迫が加えられていた状態の宋。というわけで目が向いたのは海の向こう側でした。というわけで交易が盛んに行われていきます。
この人の移動が上手く働いて
- 農業面での発展が著しく、占城稲(せんじょうとう、チャンパー米)と呼ばれる干ばつに強く瘦せ地でも早く育つ稲がベトナムから伝来。中国南部だけで全人口を養える程になった
- 過去既にできていた非公認の市(=草市)の規模が大きくなり、地方の小都市・鎮に発展
- 商人は行、手工業者は作と呼ばれる同業組合を結成
といった変化が表れ、経済面では正のループに突入。
現在にも残る『銀行』という言葉が中国にあった金・銀の流通を扱う商人組合『銀行』が由来という説があります。
『金行』じゃないのは当時「銀の方の流通が多かったから」だとか。
が、そんなお金持ち国家となった宋であっても莫大な歳賜を毎年贈るとなると厳しい状況に追いやられました。そこに文治主義による統治で官吏と彼らによる組織の肥大化も加わると、国家が危機的状況にまで追い込まれてしまいます。
こうして政治の抜本的な改革に迫られた宋は第6代皇帝神宗(在位1067~85年)の代に王安石を宰相に登用し、富国強兵策に務めました。
- 富国策
- 青苗法:植え付け時に貧農に低金利で穀物や資金を貸し付け、収穫時に返済させる
- 均輸法:各地の特産物を輸送、不足地で売却。物価安定と商品の円滑な流通を目指した
- 農田水利法:水路・河川の改修、新しい土地の造成
- 募役法:負担の大きい無償の労働提供をやめて農民から免疫銭を徴収、希望者を雇用
- 市易法:中小商人への低金利貸付
- 方田均税法:全国の耕地を再測量。各戸しょゆうの耕地面積に肥痩も調査。生産力により5等に分けて地税を公平化した
- 強兵策
- 保甲法:農民は農閑期に訓練。戦時に備えただけでなく平時は治安維持に努めさせた
- 保馬法:軍馬不足解消のため、農民に官馬を飼育させた。平時は農耕用、戦時は徴発
これには中小自作農や中小商工業者の生活を安定させて生産力を増加させる他、国家財政の安定化と軍事力の強化をはかるという目的がありました。
ところが、強硬改革はいつの時代も保守派の反発を招きます。司馬光(1019~86年)ら保守派の官僚たちから反発を受け、政治は混乱してしまいます。
更に王安石が引退し神宗が没すると、新法党と旧法党との党争が勃発。宋の国力を弱めることとなりました。
宋の南遷
一方、宋の北方...契丹族により建国された遼の圧政下で支配されていたツングース系の女真族が急速に力をつけるようになりました。1115年には遼から自立して金(~1234年)を建国しています。
この動きを好機と見た宋は燕雲十六州奪還の図ります。新興国の金と同盟を結び、遼を挟撃。1125年に遼は滅亡しました。
が、戦費の支払い等で背信行為を重ねた結果、大軍で南下。宋は上皇徽宗(きそう)と皇帝欽宗をはじめ重臣らも捕らえられ宋も滅亡したのでした【靖康の変】。
ただし、皇帝・欽宗の弟の趙構は江南に逃れて帝位につき、新たな国を建国しました。首都はこれまでの開封から臨安(現在の杭州)にうつっています。
ということで同じ宋でも華北を支配していた時期の宋を北宋、欽宗が亡命したてた国を南宋と呼んで区別しています。
建国後の南宋の政治方針の焦点はもっぱら『対金』について。政権内部では秦檜ら和平派と徹底抗戦を掲げる岳飛ら主戦派に分かれました。
結局、和平派が勝利し紹興の和約を結んで金に対して多額の歳貢(毎年銀25万両、絹25万匹)を贈る結果となりました。北宋の時とは異なり、歳貢を贈る上に金に対して臣下の礼を取らなけらばならないという屈辱的な内容でした。
こうして大散関と淮河(淮水)を結ぶ線を国境として華北一帯を完全に放棄することで決着がついたのです。