中国・東アジア

14世紀頃の東アジアの動向を見てみよう【日本/朝鮮半島/中国】

歴ブロ

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元がモンゴル高原へ引っ込んだ後に中国を治めたのはという国でした。

明を建国した朱元璋は飢えをしのぐのがやっとの貧しい農民の出です。そこから混乱の時代を統率力を発揮して江南を手に入れています。彼は成り上がっただけに非凡で能力的には物凄かったのですが、生涯コンプレックスを抱いていたようで度々粛清を行っています。

そんな朱元璋が作った明がどうやってできたのか、さらに明の周りの国では何が起こっていたのかをまとめてみます。

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紅巾の乱が起こり明が成立した背景とは??

元王朝は交易が盛んで広大なネットワークを有していましたが、これが逆に足かせとなって疫病(ペスト)が大流行。ちょうど14世紀頃に入ると小氷期による寒冷化が進み栄養不足の者達が多数いたことも疫病の流行に拍車をかけました。

さらに宮廷が交鈔(紙幣)の発行を濫発させた結果、インフレが起き経済が大混乱。この経済政策の失敗に加えて、元王朝は専売制度を強化していました。その中には歴代王朝がやってきた塩の専売も含まれています。

そんな混乱期に黄河で大氾濫が起こってしまいました。氾濫が起きた場所の近くには塩の一大産地がありました。

加えて、元の時代には江南の食糧が大運河を通じて北方に送られていたこともあり、食糧不足が懸念される状態となっていました。かなりの人数を投じて黄河の改修工事を行っていきます。この改修工事は非常にキツかったため、この工事をきっかけに白蓮教徒紅巾党が反乱を起こしたのでし。

これが紅巾の乱と言われる反乱です。

朱元璋は、そんな紅巾の乱の一武将として頭角を現していきました。儒学の素養を持つ知識人の協力を得て江南の穀倉地帯を手に入れます。中国でもひときわ豊かな土地となっていた江南の経済力を持って周辺地域を攻略。

1368年には金陵(のちの南京)を都と定めて皇帝位につき、元号を洪武と定めて自分が皇帝の間は年号を変えない「一世一元」の制度を定めました。

同年、元の首都・大都(北京)を落とすと元はモンゴル高原に戻り以後「北元」と呼ばれるようになり、明は全国統一を成し遂げています。

14世紀頃の日本の情勢

鎌倉時代中期、執権・北条時宗の時期に二度の蒙古襲来を受けてから

の不満が高じるようになりました。

この不満の結果、後醍醐天皇らによる倒幕運動が成功し京都に室町幕府が成立しています。

また、日本では元寇前から朝廷が両統迭立(二つの皇統が順番に帝位についた)となっていましたが、室町幕府成立に伴って完全に分裂。南北朝時代に突入していました。

南北朝は第三代将軍・足利義満(在位:1369-1395年)の代で一旦南北朝合体を成し遂げますが、義満が交渉で結んだ約束事を重視しなかったことから後南朝として独自の朝廷を開き細々と対北朝の戦いを続けていきました。

こうした倒幕に関わる争乱に加えて南北朝による度々起こっていた争乱で統制が利かず、主に西日本の海賊集団が朝鮮半島南岸や中国の江南沿岸まで赴いて略奪をするようになります。これがいわゆる(前期)倭寇と呼ばれるものです。

倭寇は明や朝鮮に嫌がられる存在となっていきました。

14世紀頃の朝鮮半島情勢

中国では明が、日本では室町幕府が開かれた頃、に服属していた高麗があった朝鮮半島でも動きがありました。

モンゴル高原に逃れた北元と結んで明を挟撃しようという計画が持ち上がったのです。

ところが、これに疑問を呈したのが李成桂。倭寇の撃退などで名を高めていた人物で鴨緑江(現北朝鮮と中国の国境となっている川)まで軍を進めましたが、最後まで明と戦うのを悩んだ末に反転し、首都の開城(現在の北朝鮮南部の都市ケソン)に入って国王を廃し王子を擁立して政権を握ります(1388年)

政権奪取後、都を漢城(漢陽、現在のソウル)に遷し、親元政策から親明政策へ変更。他にも高麗時代の王侯貴族の土地の没収と等級に応じて官僚や兵士に土地を分配する科田法を採用し改革を実行していきました。

1392年部下の勧めで太祖となり、国号を朝鮮と改めます。李成桂の名前から李氏朝鮮(李朝)と呼び、1910年まで存続する長期王朝が出来上がりました。

こうして東アジアでは14世紀末までに新たな政治秩序が出来始めて行ったのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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