鎌倉殿の13人

鎌倉時代の御恩と奉公の関係をわかりやすく解説

鎌倉幕府の基盤とて機能し続けたのが武士の主従関係を構成したのが【御恩と奉公】。この関係は決して上からの一方通行ではなく、主人・従者が相互に利益を与え合う関係で成り立っていました。

この関係が始まったのが幕府成立前の、1180年頃までさかのぼります。

以仁王安徳天皇を即位させ打倒平家を掲げたのを機に治承・寿永の乱が始まります。その中で源平の合戦がありますが、その中心人物の一人に後の鎌倉殿の源頼朝の姿がありました。

 

治承・寿永の乱(源平合戦)に参加した人たちの思惑を調べてみる 1179年に発生した治承三年の政変。これに伴い、後白河院の第3皇子以仁王が挙兵。諸国に令旨(王の命令)を出し様々な勢力も挙兵していき...

 

源頼朝の資質と坂東武者の問題

源頼朝が打倒平家を掲げると、坂東武者たちが次々と頼朝の元へ集まり、気が付けば関東一体の武士たちを率いる大軍団となっていました。

その中にも以仁王の呼びかけに応じている者もいたのに、なぜ源頼朝がリーダーとして軍団を率いるようになったのでしょうか??

 

それは、3つあると言われています。

  1. 源頼朝は、皇族の血筋を持った清和源氏だった
  2. 頼朝の父・義朝が、関東一帯の武士たちを束ねる実力者だった
  3. 源頼朝にカリスマ性があった

 

さらに、当時の坂東武士たちは2つの問題を抱えていました。

平安後期の坂東武士の達の待遇

坂東武士たちは、朝廷の貴族たちから野蛮人扱いを受けていました。

命を懸けて貴族たちのために戦っているのに、朝廷からはそれに見合った恩賞をもらえませんでした。しかもその不満を朝廷にぶつけようものなら、平清盛からの痛い仕打ちが待っていました。

そのため、坂東武者たちは【自分たちを導いて報われるようにしてほしい】と考えていたようです。

関東一帯が領土争いで混乱してる

当時の関東一帯が武士同士の争いで混乱しており、その争いに当の武士たちが疲れ切っていた。そのため、【関東をまとめ上げて平和に導いてくれるリーダー】を探していました。

 

そんなところに、血筋よし・父は実力者・カリスマ性がある源頼朝が現れるのです。

歴ぴよ
歴ぴよ
坂東武者とは、関東出身の武士の事をいいます。【坂東】とは、関東地方の昔の呼び名で相模国足柄より東の関東一帯を言います。

 

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御恩と奉公の始まり

こうして関東一帯を治めるリーダーとして期待された源頼朝

その役割を理解した頼朝は屈強な武士たちを束ねるには、これまでの朝廷と武士の関係にとらわれない新しい仕組みが必要と考えました。とは言え利害関係は複雑で、これまでの朝廷との関係性のようでは武士たちをまとめることが出来ないので、考えられたのが御恩と奉公でした。

 

御恩と奉公】と書くと難しそうですが、現代風に言うと【ギブアンドテイク】の仕組みと考えるとピンとくると思います。

主人である頼朝が武士たちの悩みを解決する【御恩】の代わりに、武士たちは平家を倒すために戦うのが【奉公】です。

これまでの【朝廷>武士】の一方的な関係ではなく、お互いにWin-Winの関係が重要となります。この御恩と奉公の契約を源頼朝とを結んだ武士たちの事を【御家人】と呼ばれてます。

 

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こうして、先述した御家人の2つの悩みを解決するために、頼朝は朝廷を無視して武士たちに所領や役職を与えるようになります。

その後、1183年朝廷に東国を支配する事を認めさせ、各地に守護・地頭を任命する権利を認めさせることで、御家人の所領安堵や官位役職の授与などの行動が朝廷から公式に認められるようになります。

歴ぴよ
歴ぴよ
この事を寿永二年十月宣旨と呼ばれています。一説によると、1183年の宣旨を持って鎌倉幕府成立との見方もあるようです。

こうして治承・寿永の乱を経て、東国を中心とする御恩と奉公による鎌倉幕府のシステムが朝廷公認上で完成しました。

 

源頼朝が設置した守護・地頭はどんなものだったのか?? 現在、鎌倉幕府の成立が源頼朝が征夷大将軍になった1192年ではなく、守護・地頭を置き全国の土地管理権を掌握した1185年が通説と...

 

御恩と奉公の犠牲になった源義経

この御恩と奉公というシステムは、源頼朝と御家人のwin-winの関係の上に成り立つもので、どちらか一方が、この仕組みにメリットを感じられなくなれば、両者の関係はすぐに破綻してしまいます。

鎌倉幕府が滅亡したのも、元寇が原因の御恩と奉公が破綻したからです。

 

https://rekisi-daisuki.com/entry/2017-11-04-231645

 

源頼朝は、御家人に御恩と奉公のメリットを感じてもらうために、御家人同士の人間関係や人柄、弱みなどを常に把握し、御家人たちの不満をなくする事に全力を注ぎ、このシステムを乱すものは味方であっても容赦はしませんでした。

その御恩と奉公の犠牲になったのが源義経でした。

義経は、御家人を束ねる兄・頼朝がありながら、独断で朝廷にも仕えていました。しかし、御恩と奉公システムを成立させるためには、御家人が頼朝以外に仕えることはあってはならないことなのです。

2人の君主に仕えれば、御家人が感じられる御恩と奉公のメリットが薄れ、御家人が裏切る可能性が出てきます。鎌倉幕府のシステムの根幹を破壊されかねない行為を源頼朝の弟・義経が率先して行ってしまったのです。

これを重く見た源頼朝は、これ以上幕府の崩壊原因を作らせないために、1189年に源義経を討伐するために奥州合戦にて打ち取りました。

 

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鎌倉殿から御家人への御恩の具体例

御恩は、鎌倉殿【鎌倉幕府の将軍】から御家人たちに与える褒美の事を指します。

鎌倉殿が御家人に与えるものとして2種類あります。

  1. 本領安堵【ほんりょうあんど】…御家人の先祖伝来の所領支配を将軍が保障する事
  2. 新恩給与【しんおんきゅうよ】…御家人に新しい所領を与えること

 

その方法は【御家人に直接土地を与える】のではなく【決められた土地の管理を任せる地頭に任命する】と言ったイメージとは少し違う方法で行われました。

  • 本領安堵…御家人が昔から住んでいた地域の地頭に任命する。
  • 新恩給与…御家人を新天地の地頭に任命をする。

この所領の管理権(地頭任命)と言うのがミソで、地頭職を解任されればただの人となります。そして、地頭の任命権は将軍【鎌倉殿】が持っていたので、御家人も身分維持の為に将軍に奉公する事が必要になるようになっています。

 

御家人から鎌倉殿に奉公

奉公は、御恩をくれた見返りに将軍の為に働くことを指します。

御恩と奉公が治承・寿永の乱の最中に出来たことから【奉公=源頼朝と共に戦う事】を意味していました。

平家が滅び、源氏の世の中になると奉公は3つの方法で行われました。

  1. 戦があった時の軍役
  2. 京都大番役
  3. 鎌倉番役

戦があった時の軍役

源頼朝が生きている時は、多くの戦はありませんでしたが、死後は鎌倉幕府内で承久の乱元寇などの大きな戦がありました。そんな時、鎌倉幕府の為に御家人は戦います。

京都大番役

大きな戦乱が無い時代は、これがメインの仕事でした。

天皇や上皇の御所を守るのが主な仕事。東国から京都まで登り、6か月間御所の護衛・警備を行います。この仕事は、御家人の負担がとても大きく、鎌倉時代の中盤になると3か月に機関が短縮されました。

鎌倉番役

鎌倉幕府を警備する仕事。京都大番役の鎌倉バージョンがこれにあたります。

 

封建制度の始まり

鎌倉時代のような御恩と奉公のように、土地を通じて人々が主従関係を結ぶ仕組みのことを歴史用語で封建制度とも呼ばれています。

封建制度と御恩・奉公は「御恩と奉公」=「封建制度の中の一つ」という関係にあります。世界には、御恩と奉公とは違う方法で封建制度を採用していた国や地域も多くあります。

御恩と奉公をベースにした鎌倉幕府の成立によって、日本でも封建制度が始まり江戸時代まで長い間続くことになります。

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。