鎌倉時代

元の侵攻を食い止めた元寇の英雄・北条時宗の生涯

歴ブロ

元寇と言えば、8代執権・北条時宗なしでは語れません。

私自身も、北条義時よりも泰時や時宗の方がよく名前を聞いていました。

北条時宗が執権になったのは、1268年で亡くなったのは1284年でした。

元から日本へ一番最初に使者が送られてきたのが、まさに1268年で弘安の役が1281年と考えると、北条時宗は元寇ありきの執権人生だったのです。

そこで今回は、元寇を復習しながら北条時宗の生涯について書いていきます。

 

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将来の執権が約束されて小侍所別当で帝王学を学ぶ

1251年に5代目執権・北条時頼の息子として生まれました。

父・時頼が1256年に執権を辞任します。本来なら時宗が時期執権となるのですが、この時わずか5歳だったことから、成長するまで北条長時と政村が執権を歴任しました。

 

将来の執権が約束された時宗は帝王学を学ぶために、小侍所別の北条実時の下で政治の実務経験を積みました。後に、小侍所別当を実時から引き継ぎ執権に就任するまでの間、その手腕を発揮していくことになります。

北条実時は、博識で禅の教えに帰依していた人徳者で、金沢文庫という武家で初めての図書文庫を作った人物として有名です。そんな実時の下で禅の心得も習得する機会も得て、有能なリーダーとして成長することができました。

プライベートでは安達義景の娘と結婚し、7代目執権・北条政村の時に執権を補佐する連署に就任します。この時、幕府転覆を計った宗尊親王を廃し京都へ戻し、維康親王を擁立する活躍を見せています。

 

北条時宗を支えた重鎮たち

先述しましたが、1268年には元から初めての使者が日本にやってきました。

元の用件と言うのが【大人しく元に従えば、悪いようにはしないよ】とフビライ=ハンからの脅迫文章を持ってきたのです。

元の使者に鎌倉幕府側は、無視を決め込みました。

日本側には【私たちには関わらないでください】と中立の立場の意図があったようですが、今も昔も外交文章に返事をしないと言うのは非常に失礼な行為です。日本の態度に元のフビライは、日本に向けて侵略戦争を行う事を決意します。

こうして、1274年に元が日本へ攻め込んだ文永の役が始まりました。

 

元の国書を無視する事を決定したのは、幕府の強い意向があったと言われています。そして、この時の執権が北条時宗で、まだ20歳前後の若造がこのような決断をしたとすれば、世界トップレベルの度胸です。

若いからこそ、何も知らなかったからゆえの決断とも言えるかもしれませんね。

当時の日本は、南宋との活発な交流があった事から、北条時宗の身近にも南宋からやってきた者から、情報が入ってくると考えられるので無知とは考えにくいですが…

 

実はこの英断は、北条時宗に仕えていた重鎮たちの影響が大きいと言われています。

当時の鎌倉幕府には、3人の重鎮が居ました。

  1. 義理の兄・安達泰盛
  2. 時宗の師匠・北条実時
  3. 時宗の秘書・平頼綱

次にこの三人について紹介していきます。

安達泰盛

北条得宗家と強い血縁関係で結ばれた時宗の義理の兄で、時宗死後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行った人物です。晩年は、平頼綱によって命を奪われることに…

北条実時

先ほど少しふれたように、博識かつ人格者。金沢文庫と呼ばれる武家として初めて本格的な書庫を持った人物として有名。時宗政権下では、参謀的な存在だったとされています。

平頼綱

北条得宗家に仕える秘書官的な人物で、得宗家が実権を持つほどに一緒に偉くなり、当時は北条家に次ぐ権勢を誇りました。安達泰盛が善政を引いたのに対し、彼は泰盛を殺害後に恐怖政治を行ったので、消されてしまいました。

 

文永の役の後にも元は、日本に国書を送り続けますが、幕府は無視どころか使者を切ると言う野蛮な行為を行います。これも、重鎮たちの意見が大きかったと言います。

ちなみに当時のモンゴル帝国の最大領地はこんな感じでした。

元寇当時は、若干支配地域が縮小していたようですが、それでも日本よりは何倍も大きく、時宗が決めたにしろ重鎮が決めたにしろ、元に対するこの決断は英断であり非常に重たい決断でした。

 

反対派を次々と粛清・討伐する

元との戦いが避けられないと分かった時宗は、権力を自分に集中させます。

1272年には、六波羅探題の南方別当の時宗の異母兄・時輔が、幕府に不満を持ち朝廷に接近した事で粛清しています。北条一族内でも、評定衆の時章や教時も誅殺し、世良田頼氏も佐渡へ流しました。

また、立正安国論を幕府に出し、世が乱れるのは法華経を信じない幕府のせいと主張していた日蓮を佐渡に流すなどの元や朝鮮のみならず、時宗に反抗する者を容赦なく粛清し権力を集中させていきました。

歴ぴよ
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立正安国論とは…自分たちの教え法華経以外が横行すると、国土を守る諸天善神が国を去ってその代わりに悪鬼が国に入っているために災難が生ずるために日蓮は、災難を止めるためには為政者が悪法の帰依を停止して正法に帰依することが必要であると主張。さらに、このまま悪法を放置すれば内乱と他国からの侵略を受けると警告しています。

この時宗の粛清により北条得宗家の権力集中傾向が強くなり、死後も全国の守護・地頭の大半が北条得宗家の所縁のものが就任するようになり御家人の不満を集め、倒幕機運が高まっていくことになります。

 

北条時宗の元寇対策

北条時宗は、元に対抗するために3つの対策を講じました。

  1. 異国警固番役(いこくけいごばんやく)の設置
  2. 国内の反乱分子の排除
  3. 異国調伏(いこくちょうふく)の祈願・祈祷

異国警固番役というのは、九州北部の警備隊です。

国内の反乱分子は、主に北条氏庶流(名越流北条氏)の事で1272年2月に時宗は、この一族を一掃します。この事件を【二月騒動】と呼ばれています。

 

最後に幕府が一番力を入れたのが、神仏に対する祈願・祈祷でした。

教科書でも異国警固番役はよく目にしますが、当時の人々の関心は軍事より神仏の方にありました。

 

ここで先述した日蓮について少しふれていきます。

当時の人々は、神や仏の力にすがっていました。その中で日蓮と呼ばれる僧侶が存在感を出してきました。

「世が乱れるのは法華経を信じない幕府のせい」

仏教において信じるべきものは法華経のみで良い。

法華経を信じなければ人々は救われないのだ!!

と言い、日蓮は日本中を回り布教活動をしていました。

法華経は天台宗では重要な経典の1つでしたが、日蓮はそれをさらに昇華させて、【法華経以外は信じる者は邪道】と考えたのです。そして、法華経こそが全てであると考える日蓮が各地を回り布教活動をしました。

北条時宗は、自ら信仰する禅宗を邪法と罵り、人々の不安を煽る日蓮を危険因子と判断し、佐渡へ流刑したのでした。

こうした敵対する者を徹底的に排除するスタイルは一貫しており、元寇政策・二月騒動・日蓮追放全てにおいてわかりやすい強行政治を行っています。

 

天皇家分裂〜両統迭立〜

室町時代に南北朝分裂を書きましたが、このきっかけを作ったのが北条時宗でした。

両統迭立(りょうとうてつりつ)と聞けはピンとくる人もいるでしょう。

 

1272年に後嵯峨上皇が崩御の祭、【次期天皇は幕府の指示に従ってれ】と言った事が始まりでした。こうして、元寇対策で忙しい中、皇位継承問題に介入する必要に迫られることになりました。

上の天皇家の系図を見ると、後嵯峨天皇以降から2つの血統に分かれています。

これが北条時宗率いる鎌倉幕府の決定によるものなんです。

その経緯も適当に決められた感があり、時宗も朝廷への聞き取りで【御嵯峨上皇は亀山天皇を寵愛してる感じだったなぁ~】との意見で次期天皇を決めたそうです。

国の外では元寇、国内では天皇家の皇位継承問題で北条時宗のストレスはMAXの状態だったと言われています。

 

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二度目の元の侵攻【弘安の役】で元軍を退ける

元寇の対応策や皇位継承問題で執権就任当初から大忙しの北条時宗。

そんな中で1281年に元軍が再び日本へ侵略戦争を仕掛けてきました。

幕府側も二回目という事で準備が万端で、指示系統は時宗で統一され、御家人が戦場へ派遣されその部隊も支持します。2か月の戦闘で、日本軍の抵抗にあい苦戦した元軍は退却を決意しますが、その途中で台風にあい壊滅しました。

当時としては世界最強の国家である元帝国を打ち破った北条時宗率いる鎌倉幕府ですが、さらなる苦悩が待ち受けていました。

 

元軍と戦った御家人たちが軍事費用の自己負担に苦しみ、それ相当の恩賞を鎌倉幕府に求めるようになりました。しかし、元寇は新しい領地を手に入れた戦いではなかったので、幕府に恩賞を出す力がなく、同時に三回目の元軍の襲来に備えて軍事費がかさむなどの厳しい財政運営を余儀なくされていました。

そんなストレスに耐え切れなくなったのか、1284年に北条時宗は死を予期して出家し、同じ日に32歳の若さでその人生を終えます。

死因は、ハッキリとしていませんが心臓病か結核だったと言われています。

直接ではないにしろ、元寇の対応、反乱分子の排除、皇位継承問題とその後の財政運営の度重なる激務が北条時宗の寿命を縮めたのは言うまでもありません。

名君だった三代目執権・泰時も承久の乱と皇位継承問題のストレルから早死にしたと言われています。しかも、両者とも名君で北条得宗家のトップにいたにもかかわらず、質素倹約な生活を送っていたとされています。

 

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北条時宗亡き後の鎌倉幕府

北条時宗は9代目執権に時貞を指名して亡くなりましたが、13歳とまだ若くしばらくは北条時宗の重鎮たちが代わりに政務を取り仕切っていました。

ここで登場するのが、安達泰盛と平頼綱です。

1284年~1285年は、安達泰盛が中心となって幕府の運営を担うことになり、この期間は弘安徳政と呼ばれるほどの善政を敷いたとされています。しかし、安達泰盛を邪魔に思った平頼綱によって誅殺※され、その後は頼綱による恐怖政治が始まります。

歴ぴよ
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※この事件を霜月騒動と呼ばれています。

 

平頼綱の政治も長くは続かず、1293年に頼綱の命が奪われると幕府運営は再び北条得宗家の手によって行われるようになりますが鎌倉幕府は衰退の道を辿っていくのです。

よく見ると鎌倉時代は、幕府設立当初から度々起こる権力闘争に、朝廷による反乱と国外侵略、天皇家分断と問題だらけの混沌とした時代で、そのタイミングで生まれて活躍したのが北条時宗だったのです。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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