【日本史の大まかな流れ】平家滅亡から鎌倉幕府成立~滅亡まで
今回は平家滅亡から鎌倉幕府の滅亡までを扱いますが、鎌倉幕府の成立と言っても1185年に突然できたわけではありありませんので、幕府設立前後の話から書いていきたいと思います。
平清盛は身内を高位高官に取り立て、祖父・父・清盛とわずか三代でのし上がりました。中央政界に有力な人脈がなかった清盛は身の回りの要職を一族で固め、自分たちの娘を天皇や有力貴族に嫁がせ外戚を勝ち取っていきました。
こうして【平氏であらざれば人にあらず】と言う平氏全盛の時代が到来したのです。しかし、こうした平氏独裁の体制は長く続きませんでした。
その発端が1180年の後白河法皇の子・以仁王の挙兵でした・・・
以仁王の挙兵と源平合戦の始まり
以仁王の挙兵は、あっけなく敗北に終わりましたが、彼が源氏を中心とする武士団に平家追討を命令したことで木曽谷の木曽義仲、伊豆に流浪してた源頼朝が次々と決起します。
これが1180年~6年にもわたる、いわゆる源平合戦の始まりです。
こうした動きの中で平清盛が病死。
カリスマ君主を失った平氏一門は動揺を隠せず、反平氏勢力はさらに勢いを増しました。
源頼朝は初戦こそは敗北したものの『富士川の戦い』に勝利したのを機に戦いを優勢に持っていきます。さらに、木曽義仲は倶利伽羅峠の戦いで奇策を持って平氏に対して大勝利を治め、その勢いで京都へ入り、平氏を京都から追い出し西国へと駆逐しました。
ところが京都へ入った義仲でしたが、後白河法皇との対立を深めてしまいました。結局、後白河法皇が『義仲追討の院宣』を頼朝に出し、頼朝の弟・源義経率いる軍勢に義仲は敗れることになります。
その後も義経は奇襲をかける作戦で一ノ谷・屋島を平氏から奪い、1185年に西へ逃げる平氏を追い詰め、ついに壇ノ浦の戦いで滅ぼすことになりました。
平氏を怒涛の勢いで討伐した源義経ですが、その直後から後白河法皇と親密になったことで源頼朝から追われる身となり、最後は奥州・藤原氏に身を寄せ、最後にはその藤原氏にも裏切られる形で自刃しました。
鎌倉幕府の成立
鎌倉幕府の成立は昔と今では定義が変わり、年号も変わってきています。
私がかつて勉強していた頃には「1192年に源頼朝が征夷大将軍になった年に鎌倉幕府が成立」というのが通説でした。ところが、1192年以前から頼朝政権が武家政権として機能していた事から研究者の間ではいくつかの説が唱えられるようになっています。
その辺は、以前記事にしたので『鎌倉幕府の成立が1192年(イイクニ)から1185年(イイハコ)になったのはどうしてなのか?』を参考にしてください。
頼朝は挙兵後の戦乱の最中に鎌倉を根拠地として関東の公領や荘園を支配しました。
その後、頼朝の権力アップを恐れた後白河法皇は頼朝の弟・源義経に討伐を命じますが、失敗。後白河法皇に睨まれたこともあって、後白河法皇の死後、1192年に源頼朝はようやく征夷大将軍に任命されています。こうした経緯で史上初の武家政権・鎌倉幕府が誕生します。
幕府設立当初は東日本中心の幕府と西日本中心の朝廷との二元支配体制でしたが、承久の乱(後述)以降は幕府優位となりました。
鎌倉幕府の支配体制は、将軍と御家人による主従関係で御恩と奉公の関係で結ばれる封建制度によるものです。頼朝の死後は頼朝の妻方・北条氏が台頭し執権政治(将軍の補佐で政務を統括するものを執権と呼ぶ)を行うように。
執権政治の始まり
源頼朝によって鎌倉幕府が開かれましたが、140年の鎌倉幕府のうち源氏が将軍の地位についていたのは、わずか3代=30年にすぎませんでした。
源頼朝死後、二代目将軍には頼朝の嫡男である頼家が就任しますが、独断専行と側近政治が多くの関東武士たちの反感を買って失脚します。そこで、13人の合議制によって政治を行われるようになります。
そこで頭角を現したのが頼朝の正室・北条政子の父・時政でした。
時政は頼家を伊豆の修善寺に幽閉し殺害し、弟・実朝を三代将軍に擁立します。そして、自身は行政のトップとして政所別当に就任し、将軍を貢献する執権の座に就きました。
これ以降、鎌倉幕府が滅ぶまで北条氏が将軍の後見人として政権を握り続けました。この政治を執権政治と呼んでいます。
ところが北条時政は娘婿を将軍にするために三代将軍・実朝の暗殺を目論みました。この計画を事前に知った北条政子と弟・義時は父・時政の計画をつぶします。その後の時政は幕府から孤立無援となり、鎌倉から追放されて伊豆へ隠居の身となりました。
さらに、1219年に源実朝が公暁に暗殺されると、北条政子が鎌倉殿の任務を代行する事になります。政子は次期将軍に摂家から藤原頼経を迎えることにしました。この時、頼経は3歳で、その後見人として北条政子が担い、成人するまで将軍の代行をすることになり【尼将軍】と呼ばれるようになります。
吾妻鑑では1219年の実朝の死から1225年までの政子の死まで北条政子を鎌倉殿と扱っています。
承久の乱
藤原頼経が将軍に迎えられると、鎌倉幕府の実権は政子を中心とした北条氏が握りました。
一方で朝廷は武家政権の勢力増大と内紛劇をただ見ていたわけではありませんでした。かねてから政権奪取をにらんでいた後鳥羽上皇は、1221年に朝廷の権力回復を目指して倒幕作戦を実行します。
源氏将軍が途絶えたタイミングであれば、全国の御家人たちは幕府を見限って朝廷側に付くのではないかと踏んでいたのです。
上皇はまず幕府の地方官である京都守護を襲撃し、諸国の御家人に向けて「北条義時を討伐せよ」と院宣を出しました。朝廷の権威が依然として強い力を持っていたこの時代、義時ら北条氏は朝敵にされ関東の武士たちは朝廷に弓を引くことを恐れて動揺しました。
この時、御家人たちの心を掴んだのが尼将軍・北条政子。直ちに諸侯を集め、歴史に残る名演説を行ったのです。
詳しい演説内容は、北条政子の『源頼朝死後も鎌倉幕府をささえた尼将軍・北条政子はどんな人??』の記事で書いたのでご覧ください。
政子の名演説に心を打たれた御家人達は、たとえ朝敵となっても幕府を守ろうと誓い、上皇軍を破ったのです。この戦いを承久の乱と呼んでいます。
承久の乱後、上皇軍を破った幕府は幼い天皇を廃し、後鳥羽上皇をはじめとする三上皇を島流しにするなどの前代未聞の処分を下しました。
この強硬な決断の裏には北条氏の血筋の低さがあります。
源氏が将軍になれたのは清和天皇の血筋を引いていたからで、源氏将軍の後に実権を握った北条氏からは将軍は一人も出ていません。
北条氏は「将軍にならなかった」のではなく「なれなかった」と言うのが正解で、権威を持っていなかったからこそ権威を持つ朝廷を弾圧する事で自分たちの権力を維持したのだと考えられています。
御成敗式目の制定
承久の乱後に幕府は、朝廷や西国の御家人を監視するために六波羅探題を設置しました。さらに、後鳥羽上皇の所領を没収すると、そこに鎌倉幕府の御家人を地頭として置くようになります。
こうして幕府の影響力は西日本にもおよぶことになりますが、それに伴い新しいトラブルも起こり、幕府への訴訟要求が増えていきました。
そこで、三代目執権・北条泰時は1232年に武家社会の統一したルールである『御成敗式目』を制定しました。
以前から武士たちは、独自の判断基準で裁判を行っており、【慣例】や【前例】を基に物事を判断していました。泰時は、これらを明文化し51か条にまとめ上げました。
詳しい内容は『御成敗式目はいつ何の目的で作られたのか??』の記事を読んでもらうと分かりますので参考にしてください。
東アジアの情勢と元寇【蒙古襲来】
モンゴルから勢力を伸ばしていった元という国がユーラシア大陸にまたがる大帝国を築き、ヨーロッパなど西への遠征も行う一方、アジア方面への遠征も視野に入ってきました。
日本も例外ではなく、元は2回(文永の役・弘安の役)ほど日本へ攻撃を加えている。これは元寇とも蒙古襲来とも呼ばれる出来事である。
文永の役では、モンゴル軍の集団戦法に苦戦を強いられていました。
また、『てつはう』と呼ばれる火薬を使ったモンゴルの武器にも悩ませられ、大きな爆発音とともに中身が破裂するこの飛び道具に屈強な武士たちも度肝を抜かれたと言います。
あわやモンゴルに侵略されるかと思いきや、ある日のたまたま襲った暴風雨に見舞われ、モンゴル軍の船が一夜にして沈んでいったと伝えられています。しかし、この戦いでは圧倒的戦力を見せつけることに成功した元が満足して引き上げたと言う説もあります。
さらに7年後に再び元軍が攻めてきた【弘安の役】が起こり、再び九州へと押し寄せてきました。
この時の日本は元の侵攻に備えており、日本軍が元の上陸を許さない善戦を展開しています。この戦いで勝敗を決めたのはやはり暴風雨で、海上でにらみを利かせていた元軍の船の大半が転覆したのでした。
結局、元のフビライの日本遠征は失敗に終わり、2回の暴風に【日本は神国であり、いざと言うときは神風が吹いて神が救ってくれる】という信仰が生まれました。
鎌倉幕府の滅亡
天皇家には大天狗と呼ばれた【後白河法皇】や幕府に対抗した【後鳥羽上皇】など時々剛毅な天皇が誕生し、そのたびに歴史の転換期を迎えることが多いです。
そして、また打倒鎌倉幕府を掲げた天皇が誕生します。それが後醍醐天皇でした。
後醍醐天皇は天皇親政を理想として掲げていました。当時、元寇以来の経済的負担が重なって御家人たちの不満が渦巻いていた幕府情勢を把握し、タイミングを見計らっていました。また、農業や農業や手工業、流通などが変化し、貨幣経済が普及に幕府が付いていけなかったのも情勢の不安につながっています。
こうした情勢から、1324年の正中の変と1331年の元弘の変を後醍醐天皇が起こしますが失敗。天皇は捕らえられ隠岐へと流されてしまいます。
それでも幕府への不満は消えることはなく、戦乱は各地に拡大。この時、活躍したのが幕府の支配に属さない新興武士の存在でした。
その中で特に活躍し名を挙げたのたのが楠木正成です。楠木正成は得意のゲリラ戦法で対抗し、幕府軍に対抗しました。
その間、後醍醐天皇は新興武士や海賊のネットワークを駆使し隠岐から脱出し、巻き返しを図るべく諸国に倒幕の命令書を送ります。
それでも各地の御家人たちは、幕府に付くか後醍醐天皇に付くか決めかねていたようです。
そんな状況で、反乱軍鎮圧のために幕府側が派遣した有力御家人・足利尊氏が天皇側へ寝返り、六波羅探題を攻め滅ぼしました。この尊氏の裏切りで全国の武士たちが天皇側に付きだし、形成は一気に逆転しました。
天皇軍はこの勢いで新田義貞が鎌倉へ攻め込み、北条高時ら北条一門を追い込み自害します。こうして鎌倉幕府は滅亡しました。
足利尊氏が幕府を裏切った事を機に、続々と天皇側に武士たちがついたことによって鎌倉幕府は終焉を迎えました。以降、室町幕府三代将軍・足利義満の時代まで、建武の新政や南北朝動乱など何かと落ち着かない時代が再びやってくるのでした。
【歴ぴよ流】鎌倉時代の流れの覚え方!?
鎌倉時代は、執権北条氏の下で9人の将軍が治め、約150年続きました。
平安時代ほど長くありませんが、覚える流れとしては…
- 源氏将軍時代…幕府が成立した当時は、幕府と朝廷の二元的な支配体制が形成されていました。1221年に起こった承久の乱以降、朝廷を破った幕府の支配力が増していくことになります。
- 執権政治…承久の乱以降、鎌倉幕府が全国に地頭を設置し支配権を拡大しました。そのため、トラブルが発生し北条泰時による御成敗式目と言った法律を作成します。文化面では、平安時代末期から戦乱が続いていたため、人々の心の支えとして新しい仏教が生まれます。
- 元寇からの幕府の滅亡…元が日本を攻撃する元寇が発生します。撃退には成功したものの新たな領地を得ることはできず、また当時問題となっていた御家人の所領相続問題なども重なり、幕府に対する不満が増し滅亡へのカウントダウンが始まります。
上記の区切りで覚えてつなげていくとわかりやすいでしょう。