唐の政治体制と国際関係【東アジア文化圏の始まり・その二】<中国史>
前回は隋と唐の建国から崩壊までの流れを簡単にお話ししましたが、今回は(隋と)唐が具体的にどんな体制を取っていたのかを見ていきます(基本的に唐代の統治体制がメインです)。
隋と唐の制度
唐の制度の大元は隋の制度を引き継いでおり、その制度を更に律・令・格・式の法制に基づいて体系づけ、国家体制の根本を成す基本法典として定められた国家の行政や業務などの運営がなされました。
これを整えたのは唐の第2代皇帝・太宗(在位626~649年)です。貞観の治と呼ばれる程、後世にも評価されています。
律 | 笞(ち)杖(じょう)徒(ず)流(る)死の五刑を中心とする刑法 |
令 | 官制、行政法規を主体とする行政法・民法 |
格 | 臨時の追加規定 |
式 | 律令の施行細則 |
この隋・唐の時代に成立した国家体制は律令体制と呼ばれ、中央集権的なシステムが出来上がると周辺諸国にも影響を与えています。
実際にどういった律令体制を取っていたの?
中央に三省(中書・門下・尚書)、六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)、御史台を中心とする官制を設け、地方を州県制とする体制を築きました。
- 中書省:詔勅(皇帝の命令書)を作成。政策を立案する機関。
- 門下省:詔勅の審議を行う機関。不適切と判断されれば拒否権(封駁)を有す。
- 尚書省:六部を統括して詔勅を実施する機関。
- 吏部:官僚の人事を司る
- 戸部:財政を司る
- 礼部:科挙(唐代では貢挙と呼ばれた)を司る
この頃は科挙も行われていましたが、拒否権を持つ門下省を中心に実権を握っており、この門下省は貴族達が独占していました。つまりは皇帝の権力はそれなりにあっても貴族達が決定権を持っていたため絶対的なものでもなかったようです。
州県制は隋の時代から採用された地方統治の制度で、名前が変わっただけで秦の郡県制とはほぼ同じ。地方を「州ー県」中央から派遣された人(州刺史や県令)によって統治しました。
※唐では627年に「州ー県」の上に「道(全国を10の道に分けた)」を設けたため「道州県制」と呼ぶこともありますが、入試やテスト的にはその言葉は使われていないのでスルーしちゃって構いません
唐が隋から引き継いだ三大制度とは??
律令体制における民衆支配においては隋の時代にも行われていた
- 均田制:丁男(21~60歳までの男子)に土地を支給する代わりに税を治めさせた
- 租調庸制:税の制度
- 租:丁男あたり粟(ぞく・穀物)2石
- 庸:中央政府での年間20日の労役(もしくは布で代納)
- 調:綾(あやぎぬ)・絹・絁(あしぎぬ)2丈と綿3両、または麻布2丈5尺と麻3斤
- 府兵制:兵農一致に基づき、土地を支給された農民から徴兵する制度
を用いています。
これらにより農民支配の徹底化が行われました。なお、均田制は北魏から、府兵制は西魏からはじまっています。
これらの制度以外にも雑徭(ぞうよう・ざつよう)が課せられ、一定期間、地方では役所などでタダ働きさせられていました。
一方で高級官僚の土地所有も認められていたため、そうした高級官職につく貴族達は広大な荘園を持ち、隷属する農民たちに耕作させていたようです。
唐代における異民族たちとの関係と統治方法とは?
第二代皇帝・太宗の時代に内政が整うと、次代・高宗の代には領土を更に広げます。白村江の戦い(663年)があったのも彼の治世下。新羅を助けて百済、高句麗を滅ぼして最大版図を作り上げました。
というわけで、これまで中国ではなかった地域や民族達も支配下に置いたため様々な人が住んでいました。もちろん人口も多く、異国の者や物が集まる国にもなっていきます。
異民族との関係その一・羈縻政策とは??
こうした服属した民族達は羈縻(きび)政策と呼ばれる、ゆるーい政策で統治していました。それぞれの部族長に唐朝の官爵を与えて間接的に支配していたのです。
これらの諸部族に対して全く監視なしというわけではなく、統治・監視機関として辺境には六都護府(安政・北庭・安北・単于・安東・安南)が設置されています。
異民族との関係その二・冊封体制とは??
日本も組み込まれていた時期もあるので、割と馴染みのある言葉かもしれません。
唐以前の王朝から取り入れられており、中国の歴代王朝の君主たちが近隣諸国や民族の長達に対して称号や印章などを授け名目的な君臣関係を結んだ体制です。日本史で出てくるものだと『漢委奴国王』の金印などが知られています。
中国皇帝の臣下となった君主のことを冊封国と呼び、この冊封国は基本的に毎年の朝貢(貢物の献上)と中国の元号や暦を使用し時に出兵を命じられる代わりに、冊封国が攻撃を受けた場合には救援を求めることも出来ました(冊封国の義務と言っても実際にはおおらかなもので国の事情により見逃されたりしています)。
この体制は冊封体制と呼ばれ、唐の時代にも続けられていました。
どんな人たちが唐の国に集まっていたの??
領土も広いだけあって唐の都・長安(現在の西安付近)には8世紀初めごろの最盛期だと100万人規模の人々が暮らしていました。そうした人の集まる場所には当然様々な地域から商人などが集まってきます。
更にこうした国際色豊かな都の存在で更に人や情報が集まるようになると、商人以外の人々も留学生などが集まるように。日本だと阿倍仲麻呂(698~770年頃)が有名ですね。
中東からはダウ船を使用し海上貿易で活躍したムスリム商人、中央アジアで東西交易に従事したソグド人などが唐と多くの交易を行いました。
ちなみに下の地図が唐が存在していた時代(618~907年)のうち7世紀ごろの国際情勢です。
やがて唐が様々な交流を深めていったのに伴い、シルクロード沿いの中央アジアの辺りにあるオアシス都市は発展していきました。このオアシス都市の発展を語るのに欠かせないのが先ほど出てきたイラン系のソグド商人達です。
イランやアラブのムスリム商人たちによる海上交易では広州や泉州といった中国沿岸の港に入港して取引をしていました。
こうした交流により中国産の絹や生糸だけに留まらず、養蚕技術...さらに製紙技術(製紙技術は中国が起源)は751年のタラス河畔の戦いで捕虜になった紙漉き職人により西方に伝わっています。
※タラス河畔の戦い:中央アジアの支配権を巡りウマイヤ朝に変わって750年に成立したアッバース朝と戦った
商業活動が活発になってくると、地方にも草市と呼ばれる市場が出来始めました。これが時代が下って宋代となると鎮や市と呼ばれる小規模な商業都市に発展していくことに。
こうした交流は物資や利益のみならず東西の文化交流でも重要な役割を果たします。長安には仏教寺院や道教寺院だけでなく、キリスト教の一派『景教(=ネストリウス派、キリスト教についての記事に説明載ってます)』や祆教(けんきょう=ゾロアスター教)、マニ教の寺院も作られました。
ちなみにチャンパーやシュリーヴィジャヤ王国など東南アジアがいつ頃からいつ頃まで存在していたか?など大まかな年表は下の記事に
フランク王国については下の記事に
ササン朝については下の記事にまとめてあります。
ビザンツ帝国については下の記事になります。