世界史

内陸アジアの遊牧民国家の社会と国家【中国周辺地域史】

歴ブロ

ユーラシア大陸の北部・中央部の草原や砂漠、オアシス地帯では気候風土から農耕は定着せず、遊牧民や狩猟民、オアシス民の世界が広がっていました。

中国史でも良く出てくる異民族はこうした遊牧民などを指していることが多々あります。匈奴、鮮卑などの遊牧民族は強力な国家を形成し、秦や漢王朝などと何度も対立抗争を繰り広げました。

今回はそうした草原の遊牧民やオアシスの定住民に迫っていきたいと思います。

 

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内陸アジアの風土

内陸アジアはアジア大陸の中央部にあり、東北のゴビ砂漠に北側には外モンゴルが、中国の万里の長城に至るまでの地域には内モンゴルが展開しています。

さらにトルキスタン(現在テュルク系民族が居住する中央アジアの地域を指す)からカスピ海西部には大乾燥地帯が広がり、南側にはヒンドゥークシュ山脈・カラコルム山脈・ヒマラヤ山脈などの標高が高い山々が連なって海洋からの影響が隔てられているのが特徴です。

北側にいくとシベリアの森林地帯(タイガ)に、さらに東に向かうとヤブロノイ山脈や大興安嶺に、西はウラル山脈・カフカス(コーカサス)山脈に接しています。

内陸アジアの風土

植生は砂漠や草原・密林と異なりますが、全体的に乾燥地域が多く寒暖差が激しいです。

 

内陸アジアでの生活とは?

昼夜の寒暖差が激しく、降雨量が少ないという特性から生産力に乏しいのがこの地域の特色で農耕が可能なのは狭いオアシスや一部の山腹のみ。そのほかの地域では牧畜に依存しています。

羊・山羊・牛・ラクダなどを飼いながら冬営地と夏営地の間を定期的に移動を繰り返す遊牧を基本に生活を営んでいました。50㎞~300㎞、遠い場合だと800㎞もの移動をすることもあったようです。

主な食糧には乳製品や肉類、衣服には毛皮、住居は木製の骨組みにフェルト(動物の毛を圧縮して作ったシート状の布)で覆った解体・移動に適した組み立て式のもので、衣食住すべてに渡って家畜による恩恵を受けています。

 

こうした人々は遊牧民と呼ばれ

  • 水や草の悪化・伝染病・天災・戦乱から逃れるため
  • 牧地・駐営地を取り換えるため
  • 遊牧単位の一部が出張?してより良い牧草を探し新しい駐営地を探すため
  • 駐営地が家畜の糞尿で汚れたため

といった理由で移動することもしばしばでした。

遊牧民が飼っていた基本的な家畜には

内陸アジアの家畜

※中央アジアではフタコブラクダ、中央アジアの西域西アジアはヒトコブラクダが生息

こうした動物が挙げられ、土地や家畜の特徴に合わせた飼われ方がされています。

 

そんな環境で暮らしている遊牧民ですから、騎馬や弓の技術が磨かれていきました。そうした遊牧民の集団に統率力のある指導者が結びつくと、大きなまとまりが出来上がるケースが出てきます。世界史に大きな影響を与えたモンゴル帝国はその典型ですね。

こうした遊牧民の集団は血縁的なまとまりを持つ氏族・部族を単位として活動しており、状況や必要に応じていくつかの遊牧民が集合した連合体を作ったため、指導者の死や連合の必要性が薄まると分裂して元の規模に戻っています。さらに遊牧国家の特徴として出自関係なく能力で登用する実力主義も大きな特徴です。

また、内陸アジアに居住する民族は多岐にわたっている上に、遊牧国家の特徴が「連合体」だけあって、特定の部族の名前を冠した国家であっても異なる遊牧民の集団やオアシス民、農耕を営む民達も支配することが多くありました。

 

内陸アジアの民族

文献資料上で知られる最初の遊牧国家は、前7世紀頃~黒海の周辺、南ロシア・北カフカスの草原を中心に強大な王国を築き上げたイラン系の民族スキタイです。遊牧民は最初から生活様式と騎馬技術が結びついていたわけではなかったのですが、彼らが騎馬と遊牧を結び付けたと言われています。

スキタイは現在のイラン周辺を支配したアケメネス朝ペルシアダレイオス1世アレクサンドロス大王とも戦い破ったこともありました。

彼らから他の遊牧民にも騎馬技術が伝わると、他の遊牧民も騎馬遊牧民に成長。前4世紀頃には内陸アジア東部でも騎馬遊牧民の活動が活発になっています。

 

具体的に遊牧民族にはどんな民族がいたの?

スキタイがどのような民族だったかは前述の通りですが、彼らから影響を受け前4世紀頃から活発化した民族の中にいたのが

  • 匈奴:陰山山脈
  • サルマタイ:ドン川以東の南ロシア草原で遊牧
  • 烏孫:天山山脈方面
  • 月氏:甘粛・タリム盆地

など。中でも匈奴は中国の王朝を苦しめていくことになります。

匈奴以外の内陸アジアの諸民族でいうと、元々タリム盆地東部にいたのに匈奴の圧迫で移動した月氏、天山山脈方面にいた烏孫も有力な騎馬遊牧民です。

↑詳説世界史研究 山川出版社より

中国を苦しめた民族!匈奴とは??

匈奴は何度も中国史に出てくる異民族で戦国時代にも中国北辺に侵入して燕・趙・秦などの諸国を脅かしたため、最終的に秦の始皇帝が中国を統一した際、諸国が独自で築き上げた長城を繋ぎ合わせて万里の長城を作り上げています。

そうした対策を講じていたにも拘らず、前3世紀末に即位した冒頓単于(ぼくとつぜんう、単于:君主の意)の時代に匈奴は全盛期を築き上げ中国の王朝を圧迫しました(在位前209年~前174年)

その勢いは前漢を立ち上げた高祖(劉邦)を破るほど。

その後の前漢は匈奴に対して低姿勢で交流し続けるも警戒し続けます。前漢で起こった呉楚七国の乱は、異民族対策をするために地方を抑えた諸侯王に力を与えたために起こったとも言われています。

呉楚七国の乱の遠因を作った皇帝の内政は非常に堅実で国力を蓄えており、その次代の皇帝がいよいよ匈奴への反攻作戦を遂行。匈奴はこれに敗れてしまいました。

 

匈奴の分裂

この敗戦を機に東西交易での利を失うと匈奴は衰え、やがて前1世紀に東西分裂することに。東匈奴(内モンゴル)は漢に服属し生き残りを図る一方、西匈奴は漢に敗れて滅亡しています。

が、更に時が経ち後1世紀になると東匈奴は南北に分裂。南匈奴は後漢に服属し、北匈奴は後漢の攻撃を受けて滅亡しますが、彼らはヨーロッパ方面へ敗走したのでは?とされています。

この北匈奴の末裔がフン族であり、ゲルマン人の大移動に繋がったという有力な説に繋がっていくのでした。

 

その後の内陸アジアの動向

匈奴が衰えた後のモンゴル高原で有力となったのはトルコ系の鮮卑です。この鮮卑が可汗(カガン)と呼ばれる君主の称号が使用していたのでは?と言われ、五胡十六国時代(304年の前趙の興起~439年北魏の華北統一まで)には五胡の一つ北魏などを建国しています(なお、北魏の樹立で五胡十六国時代が終わり南北朝時代へと移行)

が、北魏は漢化し、首都も何度か南下したこともあってモンゴル高原では別の民族が台頭しました。それがモンゴル系の柔然(〜555年)。北魏とは仲が悪かったようです。

柔然が勃興し始めた頃、中央アジアではトルコ系またはイラン系と言われるエフタルが強大となり、西北インドに侵入するなどして当時のインドの王朝グプタ朝を圧迫しています。

さらに西側のササン朝でもエフタルとぶつかることがあったようで、後述する突蕨とササン朝が同盟を結んで撃退・滅亡(567年)させました。

 

古代ローマ
古代ローマの西アジアへの影響とササン朝の躍進 アレクサンドロス大王の大躍進後、その死により瓦解すると、継承国家が複数乱立することになりました。 その後、地中海のヨーロッパ側に...

 

先ほど挙げた突厥(とつけつ)が発展したのは6世紀頃。柔然に服属していたトルコ系の民族で大帝国を建設しました。内陸アジア初の文字「突蕨文字」を使ったことでも知られています。

鉄鋼の産地でもあったアルタイ山脈が突蕨の根拠地のため優れた製鉄技術を持っていたこと、交易の通り道である「草原の道」が根拠地のすぐそばにあったことから力を蓄えることが出来ました。

モンゴル高原~カスピ海という非常に広大な領域を支配したため、当時の中国王朝・は突蕨で起こった583年の内紛後、完全に敵対させるために離間策を実行。完全に不仲となったモンゴル高原本拠地の東突蕨(隋に服属)と中央アジア本拠地の西突蕨に分かれました。

が、隋が高句麗へ何度も侵攻し滅亡すると東突蕨は勢力を回復。中国にができると、何度も入寇しましたが、内紛と唐の攻撃で630年に崩壊しました(第一可汗国)

 

崩壊後の東突蕨は唐の羈縻(きび)政策の元で支配下に入った後、682年にモンゴル高原で新たな国を樹立しました(第二可汗国)。なお、西突蕨は652年に唐の攻撃により滅亡しています。

※羈縻政策・・・唐が行った領土内の異民族の部族長に唐の官爵を与えて間接的に支配する政策のこと

 

そんな突蕨を退けて8世紀頃に台頭していったのが、突蕨に組み込まれていたトルコ系民族の一部族・ウイグルです。744年に反乱を起こして突蕨を滅亡させています。

ウイグルも大帝国を築き上げ、ウイグル文字の使用やマニ教と呼ばれる宗教を信仰して唐との関係でも優位に立つような時期もありましたが、9世紀半ばには衰退。840年に南シベリアのトルコ系遊牧民・キルギスの攻撃により滅亡しました。

ウイグル族たちはモンゴル高原から西のタリム盆地に進出、現ウイグル自治区の東端にあるトゥルファン盆地に至る場所まで定住し農耕生活を送るようになっています。

 

オアシス都市国家

ここまで騎馬遊牧民たちに焦点を当てて解説していましたが、中央アジアでは騎馬遊牧民以外にオアシス民も生活を営んでいました。

中国や西方の国々が発展していく中で中継貿易が始まると、絹の道シルクロードの要所にあるオアシス都市が急速に発展。オアシス民もそれに伴って人口増加していくことになります。

彼らは北方の騎馬遊牧民から略奪や支配を受けることもありましたが普段から敵対的だったわけではなく、彼らが生み出す穀物や織物を遊牧民と日常的に交換するなどして関係を築き上げました(逆に言えば交換が平和的に行われない状況の時は武力に訴えました)

中継貿易を行う際に必要な隊商路の安全は両者に経済的利益をもたらしていたことも大きかったようで、両者の関係は内陸アジア史の展開に重要な役割を果たしていったのです。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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