簡単な漢王朝の誕生と衰退までの流れ<後漢編>【中国史】
紀元前202年に劉邦が中国を統一するも衰退。前漢の建国から約200年後に最後の皇太子である劉嬰を傀儡とした(第11代皇帝の皇后の甥)王莽が王朝・新を開きますが、あまりにも儒教に偏り過ぎたため赤眉の乱が起こります。
この時の混乱により新の王莽は殺害されて赤眉軍らによる統治が行われますが、彼らに統治能力はなく治安が悪化。この時に赤眉軍を討伐したのが劉秀です。
劉秀は前漢の第6代皇帝の流れを汲んでいたこともあって、光武帝として新たに即位すると漢王朝の再興王朝として後漢を建国しました。
前漢~後漢までの社会変化
後漢の誕生については赤眉の乱でおおよそ書いているので、ここでは後漢になって何が変わって何が変わらなかったのか?をまとめていきます。
光武帝以降の内政について
光武帝は内政に力を入れ、前漢の諸制度を復活させました。儒教的な秩序の元で国家運営をした一方で、対外的には消極策を取っています。
漢といえば郡国制です。また、前漢の第7代皇帝の時代に制定された官吏登用方法で、地方から有能な人物を地方長官に推薦させて官吏とさせる郷挙里選が盛んになりました。
元々、中国では春秋戦国時代に氏族制度が崩れて以降、5~6人程度の小家族による農業形態をとっており、こうした農民家族100戸ほどからなる集落(里)を形成して有力者層が治安維持や徴税を行っていたのですが...
飢饉や重税のために没落する農民も出るようになると、一部の者が土地を買い、富がその一部の者達に集中しはじめて貧富の差がどんどん大きくなりました。
こうした者達が前漢の時点で豪族と呼ばれる地方の有力者に成長しています。やがて後漢になって郷挙里選が一般的になると、こうした豪族たちが官僚となり権力を握っていくこととなったのです。
対外政策
光武帝以後も数代に渡って内政に力を入れて国力の増強に努めていましたが、後漢が出来て約100年後に積極的な対外政策に乗り出すことに。
中国北部の広い範囲を支配下に置いていた匈奴(元はモンゴル高原を中心に勢力を築いていた遊牧民族)が内紛により分裂したのに乗じて南匈奴を服属させています。
さらに第4代皇帝・和帝(在位88-105年)の代になり、91年に西域都護に任命された班超が西域経営に力を入れてカスピ海以東のオアシス都市国家も服属させると西方事情も漢に伝わるようになりました。
西域諸国の監督と絶遠の国々の朝貢とをつかさどる。前漢の西域経営は武帝のときに始まるが、西域都護府の設置によって直接支配するようになった。
※西域都護は王莽の時代に混乱して以降は一時なくなっていた
なお、当時の西方にあった大きな影響力を持った国といえばローマ帝国です。中国でローマ帝国は大秦国と呼ばれ、班超の武将・甘英を派遣して利益確保を目指しますが、条支国(おそらくシリア辺りにあった国と考えられている)で断念。
2世紀中頃になると大秦王安敦(ローマ皇帝・マルクス=アウレリウス=アントニヌスとされる)の使節とされる人物(実際にはただの商人だった説もあり)がやってくるなど陸路や海路を利用した東西交流が盛んになっていきます。
また、同時期には東アジアの周辺地域との交流も盛んになりつつありました。北九州にある奴国からの使者に対して光武帝が『漢委奴国王』の金印を渡したのはその一例とされています。
後漢の衰退
以上のような政策をとるようになった結果、郷挙里選により地方の実力者が中央で官僚となって権力を握り、役人と権力者や豪族の結びつきが強くなりました。
権力者や豪族の子弟が優先されて推挙されるようになり、高官になるために最重要視されていた『孝廉』と呼ばれる父母への孝順や廉正な態度を見る科目よりもコネの方が重要視されていったのです。
さらに中央では外戚(皇帝の親戚)や宦官(皇帝一家の家政を取り仕切る)、官僚の主導権争いが始まっていました。
これが続くと後漢も衰退するのは当然で、後漢末期の頃には農民の貧窮化と没落化が顕著になっています。多数の流民が発生し社会の矛盾は誤魔化しきれないものとなると、今度は黄巾の乱(農民反乱、184年)が発生。
乱世の幕開けとなり、以後、戦乱の世が続きます。やがて、この戦乱を魏・呉・蜀の3つの国で中国を三分する三国時代に突入していくのでした。