中国・東アジア

赤眉の乱(18~27年)ってどんな人が起こしたどんな乱??<中国各国史>

歴ブロ

王莽王莽(wikipedia)より

前漢が衰退し最後の皇帝(実際には皇太子どまり)劉嬰から皇位を簒奪した王莽という国を建国しました。

儒教を重んじた周王朝を理想とした政権を作り上げようとしましたが、あまりに理想が行き過ぎ上下関係をあからさまにした結果、国内外からの反発を招くように。周辺民族を華夷思想に乗っ取って高句麗を下句麗と呼ぶなどしたため、周辺諸国が反乱を起こしたのです。

既に理想の実現のために財源が圧迫されていた中で、反乱を収めるために軍を動かすとなると増税するしかなくなりますね。こうして非常に重い税が民衆には課せられます。この重税に対抗するために起こった農民反乱が赤眉の乱【西暦18~27年】です。

どのような経緯で赤眉軍が作られ、どのような最後を辿って行ったのか見てきます。

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赤眉軍の始まり

昔々、中国の琅耶郡(現在の山東省)に酒造業を営む呂母というお婆さんがおりました。お婆さんには大層可愛がっていた一人息子がいましたが、わずかな罪を咎められ県宰(県令を改称、県のトップ)により処刑されてしまいます。

この出来事で県宰に怨みを募らせたお婆さん。自分で仇討ちは難しいので、酒を買いに来る少年たちに目をつけました。数年間、財が尽きるまで酒や衣服を提供し続けたのです。

ある日、ツケを返しに来た少年たちに呂母が「我が子が処刑された」ことを明かすと少年たちは県宰への仇討ちに加担することを決め、数千に膨れ上がった仇討ち軍は遂に県宰を討ち取ります。それを見た呂母は安心したかのように亡くなりました。

呂母の乱

数千に膨れ上がった集団に対して王莽は「仇討ちだから不問にする代わりに、この集団を解散させよ」という命令を下しましたが、当時のご時世では素直に「分かりました」と言える状況にはなかったようです。

呂母の乱から赤眉軍結成へ

膨れ上がった仇討ち軍に参加した少年たちは貧しい農民たちの次男三男という身分の者や生業を持たない若者たちで構成されていました。

この集まった若者たち。目的を果たしたなら「すぐ解散」と普通ならなるのですが、何しろ時代が時代です。

  • 小さな罪でも処刑される程の厳しい法体制
  • 過酷な賦税

という王莽政権下の負の部分を嫌というほど実感していたのが呂母の乱の構成メンバーだったわけで、そのまま「世直しまでしてやろう!!」って話になりました。

それを聞き付けた山賊たち。この山賊たちも「合流しよう」という流れになります。

赤眉軍の始まり

彼らもまた呂母の乱に身を投じたのと同じように食うに困って流れ着いた先が山賊という手段で、食糧を求めて色んな場所で戦ってきていたのです。

この山賊の頭は樊崇という人物で、非常に武勇に優れていました。合流して出来た軍は最初こそ『烏合の衆』と呼ぶのがぴったりで無秩序な動きしか出来ませんでしたが、徐々に組織としての体裁が整うようになっていきます。こうして樊崇をリーダーに組織化された軍が出来上がっていったのです。

この頃の中国は一部で酷い飢饉が発生していたこともあって「自分も参加する!」という人が後を絶ちませんでした。樊崇のような強い人がいることも宣伝効果となり、数万人規模の軍が出来上がっていきます。

王莽達、王朝もこの事態は当然無視できません。

新は正規軍10万を投入するように。このような大規模な戦闘となると敵味方分からないまま戦うのは非常にマズい。そこで行ったのが眉を塗料で赤く染めること。赤眉軍の名前の由来となりました。

新軍 vs. 赤眉軍の結果は…??

西暦22年、王莽は赤眉軍を討伐するために配下の廉丹王匡に10万の軍を与えたのですが…何しろ、この頃には豪族たちの反乱(緑林軍)も相次いでいて新王朝は厳しい状況に置かれ始めていました。

当初は赤眉軍が劣勢だったものの、赤眉軍以外の豪族反乱も農民反乱も対新・対王莽で一致していたことから新軍は連戦を余儀なくされ、廉丹は赤眉軍を一度鎮圧させた後に別動隊を叩くため向かった戦場で戦死。王匡もその後、洛陽に入って守備につきますが、緑林軍の配下により洛陽が陥落。後に処刑されています。

ということで、赤眉軍は新との戦いで優位な状況になっていきました。

そんな状況の中で赤眉軍は一部が河北へ、樊崇らは各地を攻略しながら陳留郡(現・河南省東部に位置する)や濮陽にまで侵入していきました。が、赤眉軍は正直『天下統一』といった発想は少なく、どちらかと言えば食糧調達の向きが強かった

赤眉軍は新との戦いにおいて優位ではありましたが、反乱集結への目処をつけることはできませんでした。

ちょうどその頃…

豪族を主体とする緑林軍は一度疫病で半減したものの、他の勢力と合流して大規模な軍を作ることに成功。その中にいた漢の宗室出身者・劉玄を天子(更始帝と名乗った)に擁立し「漢の復興」を掲げて王莽と本格的に敵対するようになっていました。

れきぶろ
れきぶろ

こちらの緑林軍は赤眉軍とは異なり『自分達で統治する』意図が明確にあったようですね。

23年9月になると、更始帝ら緑林軍は長安を攻略。混乱の中で王莽は殺されて新が滅亡すると、農民反乱を起こしていた赤眉軍にも帰順を求めました。

赤眉軍としては食べられる世の中になってくれれば問題はなく、本来の漢が復興してくれればそれで良かったので、緑林軍に対抗する理由もなく素直に従って赤眉軍の幹部およそ20数名で更始帝の元を訪れています。

更始政権との決別と赤眉の乱の最後

更始帝による統治が始まりますが、赤眉軍のリーダー樊崇は列侯に封じられたものの封土はされず、軍を維持することが出来なくなりました。既に食糧がギリギリの状態で転戦している状態だったため、逃げ出す者が続出。

農民主体の軍ですから農業対策もして欲しいのに農業対策をしないどころか、更始帝は贅沢な生活に染まっていってしまいます。

見限った樊崇らは再び赤眉軍に戻り、緑林軍の組織体制を真似て『漢復興の旗印』となる劉氏の少年をくじ引きで決めてトップに担ぎ上げ、緑林軍の対立勢力となって進軍を開始するように。

一方、緑林軍に再び目を向けると…

トップの更始帝が贅沢三昧な状況でしたから、緑林軍の内部では更始帝の求心力がなくなっていました。元々更始帝配下だった者や意見の合わない配下とも内戦を始めています。

赤眉軍にとってこの状況は渡りに船で、内戦に不利となった更始帝配下が赤眉軍に投降してきます。この元配下の助けもあって、長安に再度入り直した赤眉軍は更始帝を討つことに成功したのです。

赤眉軍による統治

呂母の乱から転戦しているのは職にあぶれた数千人の若者でしたし、合流した樊崇達も元々は山賊です。他の農民たちも合併しながらその勢力を拡大していきましたが、基本的には文字の読み書きも出来ない層の集まりでした。

戦闘に関しては優れていましたが、ご想像の通り、統治能力には欠けていました。

既に食糧がつき軍を維持できなくなっていた赤眉軍は略奪に走ります。長安の富は瞬く間に食い尽くされ、都の体裁を整えられなくなった結果、長安を放棄。再び各地を流浪し食糧を求めながら故郷を目指し続けることになりました。

赤眉軍の最後

統治しきれなくなった赤眉軍を最後に討伐したのは、河北で独自勢力として旗揚げし光武帝として即位した緑林軍の流れを汲む劉秀です。

劉秀(光武帝)
劉秀(光武帝)

赤眉軍は故郷に戻る途中に光武帝配下の将軍に敗れ、近くには光武帝の率いる本軍も待ち伏せという二段構えに樊崇らも投降を決めました。が、一旦投降した後に再度樊崇らは挙兵しようとしたため殺害されています。こうして暴れまくった赤眉軍は鎮圧されることとなったのです。

もちろん幹部も一枚岩ではなく、投降後に「故郷に帰りたい」という一心で暴れ回っていたと光武帝に告げた者は故郷に戻って余生を過ごしています。

赤眉軍も当初は『世直し』という目的を持って決起していたはずなのですが、次第に幹部たちの出世に振り回されるようになってしまったようです。

富や権力を持って適切に使える人や組織もありますが、持て余す場合もあります。残念ながら赤眉軍は後者となってしまいました。適切に富や権力を扱えた劉秀らは漢を復興させ、再度、長期に渡る王朝を築き上げていきます。

緑林軍の流れを汲み、更始帝と合流して軍を動かしていた劉秀。儒教が重視される世の中で自分がいた組織の上の地位にいた者を討てば批難は免れなかった可能性もあります。赤眉軍が更始帝を討たなければ劉秀による後漢の建国はなかったかもしれませんね。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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