漢王朝の誕生と衰退【前漢編】
春秋戦国時代をおさめた後、15年という短期間で秦が滅亡すると、中国は再び動乱の時代に戻ります。これに終止符を打ったのが劉邦です。
『項羽と劉邦』という小説や漫画、ドラマや映画も出ていますし、高校では漢文の時間に『鴻門之会』と歴史以外の授業でも出てくるので、何となく劉邦の名前は聞いたことがある人は多いかもしれませんね。
この劉邦が漢王朝を樹立させてから衰退するまでをまとめていきます。なお、劉邦が漢を作り上げるまでは『項羽と劉邦』の記事をご覧ください。
長期政権・漢王朝のはじまりとは?
秦が弱体化し各地で諸侯や豪族たちが反勢力として立ち上がった中、最後まで残ったのが項羽と劉邦。4年間の激闘を経て、紀元前202年に劉邦が中国を統一。皇帝の位についたことで漢王朝が誕生しました。この際、秦の都であった咸陽から近い長安に都を移しています。
漢代の政治
急激な変化をもたらした秦王朝の政治を反面教師として漢王朝は
- 官僚制は都周辺のみに留めておく
- 地方は功績のあった重臣たちに任せる
という方式で統治していきます。地方を功臣たちに任せたのは、項羽との戦いがギリギリだったために援軍を送らない一部の諸侯達に「王にする」という約束で援軍を送ってもらっていたというのも、この体制になった理由の一つでしょう。
郡に中央から派遣した役人を送り完全な直轄支配を行う秦のような統治体制を郡県制と呼んでいます。一方の漢の統治体制は、周以前の諸侯に封土する形の封建制と秦の郡県制を併用した郡国制を敷いています。
具体的にどんな官制の元で政治が行われていたかと言うと
皇帝以外の者達の中で最高位に位置する三公が国政に関する政策全般を統括し、それ以外の大臣たち九卿がそれぞれ独立した機関の長官として実務的な業務を執り行っていました。なお、太尉は7代皇帝の代に事実上の廃止とされ、軍事のトップとして基本的には大司馬が置かれるようになっています。
九卿と言っても必ずしも9つの官庁だけでなく執金吾を含むこともあって必ずしも9つ限定されているわけではありません。執金吾・将作大匠・大長秋を合わせた時には十二卿と呼ぶこともあります。
- 十二卿の担当業務とは?
-
名称 仕事内容 備考 太常 宗廟・礼儀を管轄 秦の中央官・奉常を起源とし、6代皇帝で太常と改称した。前漢と後漢の間にあった王朝・新では秩常と改称され、後漢で再度太常に戻されている。 光禄勲 宮中警備 宮殿における脇の門の警備が起源で郎中令と呼ばれていたのを武帝朝で改称。皇帝の身辺警護や宮内諸殿の警備にあたる。 衛尉 宮門警備 宮門警備と宮城内の巡察にあたった。一時期、中大夫令と改称されたこともあったが衛尉に戻されている。 太僕 車馬の管理 天子の車と馬を取り仕切った。 廷尉 司法担当 裁判や刑罰を司る。大理や作士と呼ばれた時代もあった。 大鴻臚 来朝者の応対・接遇 諸侯王や漢に服属した蛮夷に関することを担当。来朝する際の出迎えや新しく封建する者への対応、諸侯王が亡くなった時など天子の使者として出向くなど行った。 宗正 皇族の処遇・事務担当 皇帝の一族の戸籍簿の管理や、諸侯王(劉一門出身者が多くいた)の嫡庶の順や郡国の存続年数を記録した。成人した皇族が法を犯した時の処罰も担当した。 大司農 国家財政担当 治粟内史、大農令、義和、納言と呼ばれた時代もあり。銭・穀物・貨幣などの管理の他、漢代の途中からは塩鉄の専売にも関わった。 少府 宮中財政担当 主に山川・池沢からの税を収納し、皇室の雑務を管轄。後漢に入ってからは天子の衣服や珍しい宝や食事などの物品も取り仕切った。新王朝では共工と改称され、後漢で名称を戻された。 執金吾 宮城の外の警備担当 中尉と呼ばれ、都の警備を担当。 将作大匠 宮殿や宗廟の建造・修繕 元は将作少府と呼ばれていた。 大長秋 皇后府を取り仕切る 宦官の最高位。宮外の者が拝謁する際の段取りしたり皇后の外出に付き添いしたりする。前漢は民間出身もいた。 それぞれ属官も存在していますが、割愛
一方の地方行政では…
地方を郡と県に区分する郷里制と呼ばれる上のような体制が成立しました。中国の集落は城郭で囲まれていてその集落の単位を亭と、10亭集まった中での最大のものを郷と呼んでおり、他の亭と郷の間には従属関係にあったようです。
県にも長官が置かれており、大きな県の場合は『令(後に県令)』、小さい県には『長』が置かれ、『県尉』が警察のような役割を担当していました。
中国では現在でも行政単位として使われている他、日本でも後に少し形を変えてこの地方行政の単位を取り入れており、周辺諸国の制度や後世に影響を与えるほどの制度になっています。
呉楚七国の乱の発生
呉楚七国の乱(紀元前154年)は、漢王朝が安定しつつあった第6代皇帝・景帝の代に発生しています。
呉楚七国の乱が発生するよりも前の時代には、中央の漢王朝だけでなく諸侯王が統治する王国内でも社会・経済も安定しはじめていました。そのため、諸侯王が中央を無視するケースも(一部ですが)出てくるようになっていたのです。
そんな状況でしたから「諸侯王らの勢力を削っていこう」という動きが漢王朝内で生まれ、諸侯王や王国の些細な失敗などを理由に「領土没収」をするようになります。
これに反発して起こったのが呉楚七国の乱です。
この乱で勝利した漢王朝は中央集権的な体制を加速させることとなり、第7代皇帝の代で最盛期を迎えました。
前漢の衰退
第5代・第6代皇帝の治世下で文景の治と呼ばれる程安定した政権となっていた中、第7代皇帝治世下で最盛期を迎えた漢王朝でしたが、第7代武帝はあまり内政に力を入れておらず後半になってから失速してしまいます。
※武帝の治世は第5・6代の治世の恩恵を受けただけという評価をされている場合もある
一旦は第10代皇帝の治世下で漢王朝の力を取り戻すものの、その後は宦官や外戚の朝政関与も相まって力を失ってしまいます。最終的に第11代皇帝元帝の皇后王政君の甥・王莽により皇位を簒奪される事態とまでなりました。
- 前漢の歴代皇帝に起こった出来事
-
代数 諡号 姓名 在位 備考 初代皇帝 高皇帝 劉邦 前202~前195 高皇帝の崩御後、高皇帝の皇后・呂雉と呂一門による専横開始。
混乱の時代 ⇒ 呂后崩御後、呂一門は粛清第2代皇帝 恵帝 劉盈 前195~前188年 第3代皇帝 前少帝 劉某 前188~前184年 第4代皇帝 後少帝 劉弘 前184~前180年 第5代皇帝 文帝 劉恒 前180~前157年 文景の治:民衆の生活が向上 景帝の時代に呉楚七国の乱 ⇒中央集権国家へ 第6代皇帝 景帝 劉啓 前157~前141年 第7代皇帝 武帝 劉徹 前141~前87年 前漢の最盛期を迎える。遠征(匈奴の撃退、周辺諸国を滅ぼす)などの派手な事業で成功をおさめるも、内政はイマイチ。晩年には皇太子を冤罪で死に追いやった【巫蠱の乱】の他、農民反乱が頻発。 第8代皇帝 昭帝 劉弗陵 前87~前74年 幼くして昭帝が即位。後見についた霍光が権力を握る。 第9代皇帝 廃帝 劉賀 前74年(1ヶ月) 第10代皇帝 宣帝 劉詢 前74~前48年 現実的な法家主義者だった宣帝は霍光の死後、霍一族の権力などを剥奪した。
国内:民間の疲弊を緩和
外交面①:烏孫と連携して西域進出
外交面②:匈奴の弱体化
に成功 一方で、多様な政策に欠かせない詔勅の出納を司る宦官が権力を持つように。第11代皇帝 元帝 劉奭 前48~前33年 儒家重視の政策を実施。理想が過ぎて財政悪化を招く。宦官勢力の専断を許すことに。 第12代皇帝 成帝 劉驁 前33~前7年 宦官勢力の排除に成功するも生母の王政君の外戚が台頭。実子の皇子がいないため(「成帝の皇后が殺害していた」という噂あり)甥が跡を継ぐ事になった。 第13代皇帝 哀帝 劉欣 前7~前1年 男色を好み、眉目秀麗な官人の董賢に禅譲まで考えたほどだったが、哀帝が25歳で崩御すると董賢は自死。王一門が再び権力を掌握した。 第14代皇帝 平帝 劉衎 前1~6年 元帝の孫。9歳で王莽に擁立され即位。13歳で王莽の娘が皇后として立てられた後、14歳で崩御(王莽による毒殺の疑いもあり)。 第15代 孺子嬰 劉嬰 6年~8年 (皇太子のまま)帝位にはつかなかったが、最後の皇帝と言われている。王莽が摂政として権勢をふるう。
新の建国と漢の復興
王莽は前漢最後の皇帝と呼ばれる劉嬰から「禅譲を受けた」として新たに新を建国し、周代の治世を理想とした儒家を重視した統治を目指します。が、理想的は理想であって現実的ではありませんでした。各種政策は破綻してしまいます。
※後世、王莽がぼろくそに言われる理由は儒教を重視しながら王位簒奪という教えに反した行動だと個人的には思っています。有能な人がついてくるわけがない(太皇太后の王政君も王莽に対して「恩知らず」と罵り見限っていた)。『新王朝の「造幣局」見つかった(外部サイト)』ので、新しい発見で違う見方が出来るようになるかもしれませんが…
さらに、周辺民族の匈奴や高句麗などからは『王』の地位を取り上げ、侮蔑的な名称で呼んで離反を引き起こします。討伐へ行くにも諸侯の協力なしでは難しいのに、諸侯も『公』に格下げしているという体たらく。当然、討伐は失敗に終わり、財政は困窮を極めました。
新と王莽のの最期
王朝の財政まで困窮すると後はご想像の通りで、北方では農民と山賊の合流軍による赤眉の乱が、南方では緑林を拠点とした民間武装勢力緑林軍による叛乱が相次ぎます。
そのような状況の中、後の光武帝となる劉秀の兄・劉縯(りゅうえん)が挙兵し、後から劉秀も参加。共に第6代皇帝・景帝の流れを汲む宗室出身者です(6代ほど前に遡るので血縁関係も離れており父親は県令として働いていた)。彼らは緑林軍と合流することに。
緑林軍には劉秀らと同じく漢王朝の宗室出身である劉玄という人も参加していたことと規模が大きくなったこともあって「トップを決めよう」という話になります。劉玄と劉縯の二人が候補に上がりますが、結局、「分裂しても困るし…」ということで劉縯が劉玄にその地位を譲り、劉玄は更始帝と名乗るようになります。
『新』は…と言いますと、めちゃくちゃな政治を行って人心が離れていき、赤眉軍・緑林軍にやられ放題な状況に陥っていたため、苦肉の策で囚人まで兵として出していました。当然うまくいくわけがなく、囚人たちは逃げ出しグダグダに。とうとう更始帝率いる緑林軍に新も王莽もやられてしまいます。最期の王莽はなぶり殺しにされるという非情なものでした。
結局、新は(紀元後)8年~23年の15年もの短期政権に終わったのです。
赤眉軍と緑林軍の対決と劉秀の独立
さて残った赤眉軍ですが…
「漢王朝を復活させる」という目的だったため、更始帝の元に下ることにしてました。
…が、長安に入った後の更始帝は権力の私物化が甚だしい。農民主体の赤眉軍にとっては非常に大事な「農業対策」に全く力を入れない上に赤眉軍の上層部ですら封地されないため分裂を決め、一旦赤眉軍に戻った後に軍ごと長安に入って更始帝を殺害してします。ところが、その後の赤眉軍には長安を支配する能力もなく、大軍を養わなければならない事態となり略奪を始めたのですが…それでも、どうにもできずに故郷に戻ることになりました。
一方の劉秀は、王莽を倒す直前に兄を更始帝の派閥の人に誅殺されており、自身も警戒されているという状況でした。しばらくは監視され長安から出られなかったのですが、河北を攻めなければならない時に適切な将がおらず劉秀が河北へ向かうことに。
河北にいる時にも第12代皇帝・成帝の末裔を自称する人物に狙われながらも、どうにか無事に河北の土地で光武帝として即位・独立することに成功。後漢が誕生します。西暦25年、ちょうど更始帝が殺害された年のことでした。
そうは言っても如何せん赤眉の乱などの農民反乱も続いて安定しない。そのため、光武帝は赤眉の乱の鎮圧に乗り出します。大軍を養えない大ピンチに陥っていた赤眉軍は散り散りになりながら最終的には光武帝の元に下ったのでした。
その後も天下統一事業に精を出し西暦36年に中国統一を達成すると都を雒陽に定め、内政重視の方針をとりながら長期政権になり得るだけの統治機構を確立していくことになります。