中国・東アジア

項羽と劉邦

歴ブロ

秦の始皇帝の死後に始まった各地の反乱の中、最後まで残ったのが項羽劉邦です。

項羽は秦の次に大きかった楚で将軍を輩出する名門の出身で、大きな体躯に目立った才気を持つ若者で戦をすれば連戦連勝。とにかく周りから一目置かれる存在でした。

対して劉邦は、農家の三男坊で読み書きも出来ず、40歳を越えてもなお家業を手伝わずに町中をぶらついていた、飲んでも勘定を踏み倒すか子分が勝手に支払っていたなど…どうしようもない逸話ばかりありますが、多くの人から慕われている存在だったそうです。

今回は、そんな対照的な二人がどのように頭角を現していったのか調べていきます。

 

スポンサーリンク

秦の混乱

紀元前221年に始皇帝が統一した秦。始皇帝は一人が物凄い強い権力を握る態勢で政権運用を開始。その中で始皇帝の行動を諫めることができたのが長子の扶蘇です。

秦は法を重視して厳格な法治主義を取っていますが、儒教とは相容れない部分もあったことから儒家の本を焼き捨てる『梵書』、儒家を穴に埋める『坑儒』まで行いました。この極端な政策について扶蘇は始皇帝に何度も考え直すよう訴えています。

この後、始皇帝は怒って扶蘇を当時匈奴を攻めていた蒙恬(もうてん)という人物のいる北方へ送り込みました。実際には「口うるさいから」という理由だけじゃなく、大軍を率いていた蒙恬の監視役という役目もあったようです。怒って扶蘇を遠くの辺境の地へ送り込んだ始皇帝ではありますが、能力を買っていたのか「扶蘇を跡継ぎにする」と内心考えていました。

 

さて再び中央に目を向けると、この焚書・坑儒の政策について見て見ぬふりをした人たちがいます。法治主義の第一人者として丞相の地位についていた法家の李斯(りし)であり、宦官として始皇帝の側に仕え末子の胡亥(こがい)の世話役となっていた寵臣の張高です。

儒教を重視していたかまでは確実ではないものの、いくら父親とは言え皇帝に対して何度も諫言するほど焚書・坑儒を問題視していた扶蘇。身近にいながら諫めない李斯張高の二人を扶蘇が煙たく思ってても不思議ではありませんし、扶蘇が二人から儒教重視の国にしようとしていると思われても不思議ではありませんでした。

扶蘇と李斯・張高の関係を考えると、どう考えても暗雲が立ち込めている様にしか見えない状況だったのです。

 

始皇帝の死

そんなキナ臭い中で紀元前210年に秦の始皇帝が亡くなります。当然、下のような状況になりました。

 

 

張高は消される危険性だけでなく世話係をしていた「胡亥を跡継ぎにさせたい」願望が、李斯には「急激な変化に対する不満分子が始皇帝の死によって噴出しかねない」危惧を持っていました。そういった思惑もあって始皇帝の死は暫くの間なかったことにされています。

 

扶蘇の死と張高の台頭

結局、両者は協力体制の元で扶蘇に当てた「扶蘇を後継者に」という始皇帝の遺言を握りつぶして

おおよそこんな内容の偽造勅書を送ります。蒙恬は文書に違和感を持ち扶蘇の自害を止めたのですが、扶蘇は自殺してしてしまいました。

胡亥は傀儡皇帝に、張高は李斯との権力闘争に勝って丞相となるものの、始皇帝の文書を疑っていた蒙恬や蒙恬の一族まで消し去ってしまったことで有力な臣が減り、悪政を敷かざるを得なくなっていきます。

 

なお、張高に関しても私利私欲のためではなく始皇帝の意志を継いだ国を作りたいと考えていたのでは?という説もあるのですが、あまりにも昔過ぎて実際のところよく分かっていません。ただ張高は多くのお話ではラスボスのような形で扱われることが多い人です。

 

反秦勢力の躍進

秦の内部が混乱していた頃…

ある秦の兵士達が半強制的に徴収された農民たちと辺境警備のため集合場所まで歩いていると大雨で道が水没するトラブルに巻き込まれていました。秦では期日を守らなければ死刑なのですが、このトラブルが原因で明らかに間に合わない状況に陥ってしまいます。そこで「どうせ死ぬなら」と蜂起したのが『陳勝・呉広の乱』です。秦崩壊のきっかけとなった反乱でもあります。

 

陳勝は母親が楚の出身と考えられている扶蘇(←民衆に人気があった)を、相方の呉広は楚の大将軍・項燕を自称して『楚を復興する』という名目で自らを王となりました。東の方で蜂起して西進していくと、秦の圧政に耐えていた者達にも反乱の噂が伝わり、各地で一斉に呼応し始めます。項羽劉邦も反乱軍の一人でした。

陳勝・呉広の乱

 

ところが、最初は連勝していたものの秦の将軍に大敗して勢いを失い、半年で制圧されてしまいます。このようなピンチになると、陳勝が『楚と関係ないのに楚王を自称していること』や『王になってからの素行』に疑問を呈する者も出てくるようになりました。

そんな中で項梁が後に参謀役となる范増によって出された意見を聞いて「本物の楚の旧王家の末裔」である懐王を引っ張り出し、瓦解しかけている勢力を新たに立て直すことに成功させます。

こうして懐王をトップとした新・反秦勢力(=西楚)が出来上がりました。

なお、楚以外にも秦に倒された複数の国家が混乱に乗じて復国することとなっています。

 

西楚の中心となった人物・項梁の最期

西楚で頭角を現したのが項羽の叔父、項梁。項梁たちは現在の山東省や河南省周辺で連戦し確実に勝利を掴んでいきました。そんな中で秦がかなりの大軍を送り込みます。

 

これに危惧を抱いたのが宋義という人物でした。項梁に「こういう時こそ兵が浮き出し合っていて危険だ」と進言するも無視されてしまったそうです。斉への交渉を担うため軍を離れた宋義は、途中で斉の使者にも「項梁の軍は敗れるから少しゆっくり向かった方が良い」と忠告しています。

その数日後、宋義の言う通り項梁は戦死。懐王の元を訪ねていた斉の使者が経緯を伝え宋義をべた褒めした結果、宋義が大きな軍を任されることになりました。

 

項羽の躍進

対秦の反乱が頻発する中、項羽は初戦で一人で百人近くの者を殺した上に、その後の戦いで城兵を生き埋めにしています。これが原因で反秦勢力のトップ周辺の老将達から『残忍』という低評価を受けることに。

この評価があったためか、主力軍であった項羽たちが秦軍から攻められて苦戦を強いられているに援軍として攻めている真っ最中に懐王は

「(秦の本拠地)関中に先に入った者をその地の王とする」

と約束しました。

※漢中とは、秦国の防御の要である函谷関より西の地域を指しています。函谷関は黄河の湾曲部と渭水の合流地点より南70㎞にある関です。趙は中国北部にあるので方向がだいぶ違います。

 

ところが、項羽のいた軍の上官・宋義は攻め込もうとしません。

「趙と秦が戦って疲弊したところを叩こう」

というのが彼の主張でした。宋義の主張も兵力が10分の1なので分からなくもありません。項羽は進軍を直訴するも一蹴されます。ただ状況が悪かった。軍内部は飢え凍えていた者がいた中で、宋義は斉との和親を図る名目で息子を斉の宰相として送るための大宴会を行っていたのです。

これに業を煮やした項羽は

「斉と図って反逆したため、懐王の命を受けた」

と嘘をついて宋義と息子を殺害。主力軍のトップに立ち、数で劣りながらも(秦50万?vs.5~10万)秦軍に勝利させたのです。この時の勇猛さ、活躍ぶりを見て各国の諸侯たちは項羽に服属、反秦勢力の中心的存在となっていきます。

 

鴻門之会と項羽の失敗

一方の劉邦は苦戦を強いられながらも関中をどうにか収め、秦王を降伏させます。こうして秦は紀元前206年に滅亡となりました。

この時に宮殿には美女も財宝もたくさんで目がくらんだ劉邦でしたが、周りに諫められて一切手をつけなかったそうです。この一件が後世に残る有名な『鴻門之会』の伏線になっていくのですが、こちらは後述しましょう。

 

※なお、この時の秦王は胡亥ではありません。胡亥は既に丞相の張高に見切られ暗殺されており、張高自身が玉座につこうとするも臣下たちにそっぽを向かれていたため、劉邦に内通をけしかけたのですが失敗。結局、人望のある秦王を即位させますが、この秦王は秦没落の原因と見ていたのでしょう。張高を殺害しています。

 

そこまでの権力があった一国の首都と宮殿のある場所を、懐王が言った「関中の王とする」約束から劉邦に取られてしまったら・・・圧倒的に不利な条件で大軍相手に勝利し、関中に攻め込むのが遅れた項羽から見たら面白くはありません。

そんな中、項羽が関中にやってくることを聞いた劉邦に近い人が

「あなたが先に関中入りしたのに、項羽が手柄を横取りしてしまう」

と進言をし、劉邦は素直にそれを聞き入れて項羽が入れないように関を閉ざしてしまったのです。項羽は当然激怒しました。この関を力尽くで破ります。他にも項羽側につきたい劉邦の部下が「(劉邦が)秦王を宰相にして、関中の財宝を独り占めにしようとしていますよ」みたいな余計な告げ口をしたりして項羽と劉邦の仲は拗れに拗れます。

葛飾北斎 – 新板浮絵樊噌鴻門之会之図(名品揃物浮世絵9 北斎IIより)

 

この劉邦と項羽の仲が拗れた件で劉邦が項羽陣営に謝りに行きますが、美女にも財宝にも手をつけなかった様子を見て「劉邦は大望を抱いている」と感じた楚の参謀・范増は

「今のうちに消した方が良い」

と項羽に進言。そのつもりで宴会を開きます。この宴会が『鴻門之会』と呼ばれるようになったのです。ただ、この時の劉邦の遜りっぷりに毒気を抜かれた項羽は范増の進言を聞かず劉邦を逃がしてしまいます。

 

 

また、懐王が「先に関中入りした人がその地の王に」という約束を守ろうとしたにも拘らず、項羽がそれを反故にして自身の手で封土を行った挙句にトップの懐王を殺害。こうして西楚における項羽の政治的正当性は失われ、封建に不満を持った諸侯らに王を弑逆した謀反人を討つという大義を与えることとなったのです。

ということで、この時の項羽の犯した間違いと言うと

  • 参謀である范増の言うことを聞かずに劉邦を取り逃がした
  • 西楚のトップ・懐王を殺した

この辺りでしょうか。周囲の言をしっかりと聞いた劉邦と聞けなかった項羽。これが後の勝敗を決定づけることとなります。

 

※非常に対照的な二人で最終的に人望に勝る劉邦が勝利して国を興したということで、今でもビジネス書のリーダー論として語られている逸話です → 最後に勝ったのは項羽ではなく劉邦 リーダーが知っておくべき「弱くても勝てる戦略」(DIAMOND online)項羽と劉邦から学ぶ “人間力としての真のリーダーシップ”とは? ① 〜時代背景と2人の生い立ち〜【外部サイト】

 

楚漢戦争

項羽が行った封土は項羽との仲を基準に決められており、不公平感を感じた諸侯たちは王を殺した大義名分を得て項羽を倒す方向に動き始めます。紀元前206年から紀元前202年まで続いた楚漢戦争の始まりです。

劉邦も当時辺境地だった漢中のみを封土された不満から混乱に乗じて元々手に入れるはずだった関中を奪い返し

「関中さえ手に入れられれば敵対するつもりはない」

と項羽に手紙を送っています。これを見た項羽は別の諸侯から倒していくことにしました。が、またしても項羽は戦の後に捕虜を生き埋めにしてしまったのです。最初に殺された諸侯の身内も項羽に対抗し続けることを選んだだけでなく、攻められた国の民衆たちも項羽の残虐な一面を目の当たりにして抵抗し続けます。

思っている以上に苦戦している項羽を見て、劉邦は他の諸国と同盟を組んで項羽の本拠地を攻め落としました。この時の劉邦は他の諸侯たちと共に調子に乗りまくって連日連夜宴会を続けます(←この時に止めてくれる人はいなかったようです)。

劉邦たちは56万の大軍だったそうですが油断しまくっていたため、本拠地を落とされたと聞いて戻ってきた3万の軍勢のみの項羽軍に大敗することとなります【彭城の戦い】。この大敗で諸侯たちに漢を見限られた結果、方針を大きく転換していきます。

 

劉邦側による内部工作

いわゆる『離間の計』のこと。仲間内を疑心暗鬼にさせる心理作戦です。項羽の場合は、特に参謀にあたる范増を尊敬し重用していました。項羽は戦闘にはめっぽう強いが項羽の疑り深い性格がネックだと気が付いていた劉邦陣営。范増中心に項羽を疑心暗鬼に陥らせる方向に動きます。

こういったことを続けた劉邦陣営。狙い通り項羽を孤立化させることに成功させ、范増は進言を聞かなくなっただけでなく権限すら奪うようになった項羽の元を離れます。既に高齢だった范増は項羽の元を離れた直後に病で亡くなってしまったそうです。一気に項羽陣営はガタガタになりました。

 

項羽が四面楚歌に

内部がガタガタになった楚(項羽)陣営。劉邦陣営は着実に戦いが優位になるような食糧拠点を手に入れました。

それでも、やはり項羽の戦いに関するセンスは半端ない。項羽陣営は食糧の心配がある一方で、劉邦陣営は食糧の余裕の差があっても出来ることなら正面切って戦いたくはありません。劉邦も度重なる戦でケガをしていました。そこで両者は「天下を二分してはどうか?」という案で一度は講和を成功させています。

が、劉邦陣営の参謀たちは

「楚軍が本拠地に戻って英気を養えば、勝利するチャンスはない」

と同じことを言うものですから、劉邦は方針を変えて項羽を背後から襲いました。が、この戦いでも劉邦は敗北してしまいます。

 

隙をついても戦いに勝てない劉邦陣営は、劉邦配下の強い将軍・韓信と後方攪乱などを得意とした彭越に「王にする」という約束で援軍を要求。流石に項羽も韓信と彭越まで相手にすると厄介です(それが分かっていて褒美を約束しない劉邦に二人は援軍を出さなかったそう)。

特に韓信は独立勢力になっても不思議じゃないほど力を持っていたので項羽側も『天下三分の計』を説いて漢を裏切るよう促すのですが…

 

実はこの韓信、項羽の下についていた時期もあったのです。が、とにかく冷遇されていた。ということで韓信は劉邦を選択しました。こうして劉邦陣営は楚国を追い詰めます。

ちなみに、楚軍の周囲を取り囲んだ時に漢軍が楚国の歌を歌い、楚軍の多くが降伏したと項羽に思わせて勝利を諦めさせることに成功した逸話が四面楚歌という言葉の始まりと言われています。この戦場から脱出する際に項羽は数百人の漢兵を斬ったそうですが、無傷という訳にも行かず最期を悟ったのでしょう。追っ手に旧知の仲の人を見つけて「恩賞をくれてやろう」と自ら首を刎ねたそうです。享年31歳でした。

こうして楚漢戦争は終わりを告げ、劉邦の勝利に終わったのです。

 

漢の建国

4年もの間、何度も辛酸をなめながらも劉邦は中国統一させて紀元前202年に皇帝の位につき、漢王朝を建国。秦の都の咸陽の近くに新都の長安を建設し、秦王朝の制度の多くを引き継いでいきました。

一方で、急激な中央集権化から反乱を起こされた教訓から官僚制は都周辺に留めて、地方は功績のあった重臣たちに任せる方式で統治させ、徐々に諸侯の権力を削ぐ形で落ち着いています。当然、その権力を削ぐ際に抵抗はありましたが、大まかな話は『漢王朝の誕生と衰退』という記事に書いているので、良かったらご覧ください。

 

こうして様々なものを持っていた前評判の高かった項羽は討たれ、ほぼ何も持たないところから出発した劉邦は長期政権の開祖として名を残すこととなったのです。

 

ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
スポンサーリンク
記事URLをコピーしました