古代ローマの領土変遷
古代ローマと言っても、年代によっては領土がかなり異なります。
ギリシアやメソポタミアを含む時期もありますので、これまでのように地理的特徴や気候・土壌なんかを調べる前に『領土の変遷』を見ていくことにしましょう。
古代ローマの領土変遷
共和政ローマ時代(前500年頃)
紀元前8世紀頃にイタリア民族が定住したと言われ、その後アナトリア半島からやってきた民族が征服。イタリア民族のラテン人が彼らを倒し、共和政ローマを築いたのが前6世紀頃です。イタリア半島にはラテン人以外にギリシア人やスパルタからやってきたサビニ人なども移住していました。
紀元前500年頃は
- ギリシアから移住した者も結構いた
- 国土が山がち
ということもあって、イタリア半島では多くの都市国家が築かれています。共和政ローマもそんな多くある都市国家のうちの一つです。この時点ではギリシアの影響が強く、ローマでも実質的には貴族が独占する形態の政治を行っています。
紀元前298年頃の古代ローマ
戦争が相次いでいた中で戦争の主体になっていた重装歩兵隊の発言権が強まり、早い段階で身分闘争が起こりました。紀元前298年のローマは、そんな身分闘争が収束に向かいつつある時期となります。
この時期、ローマは他のラテン人やエルトリア人、ギリシア人の作った都市国家を次々と征服していました。征服された側の諸都市とはローマと同盟を個別に結び、それぞれに異なる権利と義務を与え、さらに服属させた住民の一部には市民権も分け与えています。いわゆる分割統治であり、被支配者の団結と反抗を予防しました。
こうして徐々に着実に領土を広げていきます。
第1回ポエニ戦争開始時(前264年)
領土を広げていったローマは、とうとうイタリア半島全部を支配することに成功します。が、支配領域を拡大すると別の国の支配地域とぶつかってしまうのが世の常です。
ローマの場合は地中海西方を支配していたフェニキア人の植民都市カタルゴとぶつかってしまいます。この戦争をポエニ戦争と呼びました。
ポエニ戦争終結時(前146年)
ポエニ戦争ではローマが勝利。カルタゴは滅亡し、ローマが領土を手に入れることに成功。この海外領土の獲得により、イタリア半島には安価な穀物が流入してくることとなります。
食糧供給が安定したことで更に力をつけるかと思いきや、実際に起こったのはイタリア半島の農地の荒廃と大規模農家による農地集約と奴隷による農業の浸透です。
- 無産市民は安い穀物を手に入れるようになったため
- 支配階級層は農民の手放した農地を手に入れて、戦争捕虜に農業を行わせ富を築けるようになったため
- 属州の徴税を行った騎士層は属州が増えるにつれて恩恵に与ったため
ローマのどの階層の者も戦争拡大を望むようになりました。ところが、戦争が続くと農地が荒廃(人手不足+安価な穀物を買う方に流れた)、そもそも安価な穀物を得るための貨幣を得る手段を失っていきます。
貧富の差が広がり、これまでローマが早くから培った『市民の平等』が揺らぎ始めました。
第1回三頭政治までの獲得領土(前60年)
古代ローマは、そもそも都市国家が始まり。ここまでの広い領土を支配するのに向いた統治体制とはなっていませんでした。農民没落による軍事力低下を懸念し改革しようとする政治家もいましたが失敗。以降、有力政治家は庇護民を抱え次第に暴力で解決を図ろうとし始めます。
『内乱の1世紀』と呼ばれるようになった所以です。
この混乱を武力で鎮めたのがポンペイウス・カエサル・クラッススの三名。紀元前60年に私的な政治同盟を結ぶことで政権を握ります(第1回三頭政治)。
第2回三頭政治までの獲得領土(前43年)
三頭政治を行った三名のうち、頭角を現したのがカエサル。現在のフランスに当たる場所への遠征を成功させると指導権を獲得しました。そのうちカエサルは政敵のポンペイウスを倒し、紀元前46年に全土を平定します。
その2年後、独裁官になったカエサルも議場で刺殺されて再度政治は混乱状態へ突入するも、紀元前43年、カエサルの部下アントニウスらと養子オクタウィアヌスの計3名で政治同盟を結んで第2回三頭政治を行います。
アウグストゥス時代までの獲得領土(14年)
第2回三頭政治が始まると、やがて、当時のエジプトの王朝プレトマイオス朝のクレオパトラと結んだアントニウスをオクタウィアヌスが破ります。プレトマイオス朝が滅んでエジプトはローマの属州となり、権力争いの決着がついてローマの混乱もようやく収まりました。
こうして地中海は平定され、内乱の1世紀にも終わりを告げたのです。
権力の頂点に立ったオクタウィアヌスは前27年に元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられ、帝政時代が始まりました。実質ローマ皇帝です。後14年はオクタウィアヌスが死去した年であり、アウグストゥスとして在位した最後の年となります。
五賢帝時代直前までの獲得領土(96年)
帝政が始まり、いわゆるローマ帝国になってから約200年もの間「ローマの平和(パクス=ロマーナ)」と呼ばれる程の繁栄を築きました。
ローマ帝国最大領土(トラヤヌス帝の時代)
五賢帝のうち、トラヤヌス・ハドリアヌスが在位した98~117年、117年~138年の間は特に栄えていたと言われ、領土は最盛期を迎えます。
最盛期後のローマ帝国
五賢帝最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝(在位161~180年)の辺りから財政は行き詰まって経済不振が表れてくると、3世紀には帝国のまとまりも崩れ始めます。各属州の軍団が独自に皇帝を立てたのです。
内部が好き勝手始めると軍事力強化の必要性が生じます。軍事力強化のために重税が課されると、逃げ出す者が増え、益々ローマはバラバラに。改革を行うも上手くいかず、次第に市民の自由も奪われていきました。
さらに時が経過し、300年頃に始まったのが民族移動時代。ヨーロッパへのフン族侵入に伴い、ゲルマン民族の一派であるゴート族が南下してローマ帝国領内に侵入…とローマには多くの困難が伴います。もちろんローマは様々な改革を行いましたが…
北からはゲルマン人の侵入、東にはササン朝…とローマを取り巻く状況は悪化します。結局395年にローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビサンツ帝国)に分裂したのです。
ローマを首都とする西ローマ帝国はゲルマン人の移動の影響を特に受け、476年ゲルマン人傭兵隊長オドアケルにより西ローマ帝国は滅亡します。
なお、東ローマ帝国は分裂後、ローマから離れたこともあって古代ローマの文化はどんどん失われていきました。そういった意味で東ローマ帝国は古代ローマ帝国の後継国家とは言い難くなっており、西ローマ帝国の滅亡をもってローマ帝国の滅亡と一般的に言われるようになっています。