世界史

アレクサンドロス大王による大帝国とパルティアの出現

紀元前4世紀後半以降、マケドニアの王・アレクサンドロス三世がオリエント世界に加えてインド北西部にまで勢力を伸ばすも、アレクサンドロスの死により大帝国は瓦解。

そのアレクサンドロスの活躍した時代以降のオリエント世界を見ていきましょう。

 

アレクサンドロス大王による大帝国の出現と瓦解

アレクサンドロスは紀元前4世紀頃に活躍した人物で、古代ギリシア人によって紀元前700年頃に建国されたマケドニア王国のアルゲアス朝の王(バシレウス)として即位しました。

マケドニア王国が全盛期を迎える片鱗はアレクサンドロスの父の代から見え隠れしています。

紀元前336年頃の地中海地図マケドニア王国(ウィキペディア)を改変

ある程度マケドニアが強国になった後、暗殺された父王の後を継いだアレクサンドロスは(父を暗殺したのでは?なんて疑惑もあるが定かではない)前334年に東方遠征へ出発しエジプトを征服。更にあれだけ強大だったアケメネス朝ペルシアも滅ぼしています

父王時代には上の地図で言うと濃いオレンジ部分のみ(それでも他の王朝に比較すれば一つ抜きんでた存在でしたが)がマケドニアの支配領域でしたが、アレクサンドロスはマケドニアだけでなくエジプト・ギリシア・シリア・アナトリア半島・イラン・インドと中央アジアの一部という非常に広域な範囲を支配領域とすることに成功しました。

アレクサンドロスの遠征と諸国の分化詳説世界史図録 山川出版社

ところが、一気に勢力を加速させた大帝国はアレクサンドロスの死去と共に一気に瓦解。エジプトはプトレマイオス朝に、アジアの大部分はギリシア系のセレウコス朝シリアアンティゴノス朝マケドニアなどへと分裂することとなります。

 

セレウコス朝シリアとは?

セレウコス朝シリアが建国される前の王であり、マケドニアを短期間で拡大したアレクサンドロスは後継者に関しても「実力のある者を」と敢えて決めていなかったと言われており、複数の後継者候補が名乗り出る事態となりました。

その名乗りを挙げた一人がアレクサンドロス大王時代に東方遠征で頭角を現した武将でマケドニア系ギリシア人のセレウコス。このセレウコスという武将が建国した王朝がセレウコス朝です。紀元前312年にアジア側の領土の大部分を受け継いでいます。

バビロンを拠点として小アジア(アナトリア半島)からインドの一部までと非常に広い領土を支配した時期もあるほど大きな国でした。

 

非常に広い領土を治めていたセレウコス朝ですが、度重なるプレトマイオス朝との戦いもあって国力を減らしていきます。決定的になったのは紀元前250年頃から。セレウコス朝から独立国家が複数誕生しています。

  • アフガニスタン ⇒ ギリシア系国家バクトリアが独立(紀元前256年)
  • 中央アジア(カスピ海東南部の辺り)⇒ パルニ族による国家パルティアが独立(紀元前247年)
  • 小アジア(アナトリア半島)ペルガモンが独立

支配領域を大幅に減らし、滅亡までの期間はシリアの一部を支配するのみに留まることに。

多くの領土がパルティアの支配下に収まることとなり、紀元前1世紀には地中海を制するローマによる攻撃を受け滅亡に至ります(ローマとの関係は別の記事に書かせてもらいます)

プトレマイオス朝とは…??

セレウコスと同様、アレクサンドロス大王の後継者であるマケドニア人のプトレマイオス1世が建国した王朝がエジプトのプトレマイオス朝です。

ラゴス朝とも呼ばれます。これまでエジプトに興ってきた数々の王朝と同様、王をファラオと呼び、中央集権国家を築き上げました。

ちなみに「古代エジプトの人物を一人思い浮かべて」と言われた時に、10人中半分くらいは名前が出てくるだろう『クレオパトラ』はプレトマイオス朝の人物です。

シリアを巡ってセレウコス朝と、エーゲ海の島々やキュプロス島を巡ってアンティゴノス朝と長らく敵対しています。どちらもアレクサンドロス大王の後継者達が作った王朝であり、後継者争いは形を変えて長らく続いていったと言えるでしょう。

最終的にはローマへ従属し、内紛の末に滅亡しました。

 

バクトリアとパルティア、ペルガモンの出現

紀元前240年頃の西アジア
パルティア(wikipedia)より

紀元前3世紀半ばになると、セレウコス朝の領土のうちアム川上流のギリシア人が独立しバクトリアを建国します。

また、イラン系遊牧民のパルニ族のアルケサスもセレウコス朝の支配領域のイランと一部の中央アジアにまたがる地域でパルティアを建国しました。

バクトリア王国

現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、カザフスタンの一部に興ったのがバクトリア王国(グレコ・バクトリア王国とも)です。

バクトリアは、アレクサンドロスの東方遠征の際にかなり抵抗した地域で非常に不安定な土地でした。アレクサンドロスによる急激な支配領域の拡大は自身のルーツであるギリシア人の中にも不穏分子を作ることにも繋がっており、そういった不穏分子の隔離政策の一環としてバクトリアへのギリシア人植民政策が行われたとも言われています。

そういった歴史的経緯もあってバクトリア地域でのギリシア人の不満が募っている中、紀元前256年にセレウコス朝の総督の地位についていたギリシア人のディオドトスが反乱を起こしたのが始まりです。

植民都市が始まりで不安定な土地ということもあって、バクトリア王国は支配体制が未整備で王権が弱く幾度も国家が分裂しています。

そんなバクトリア王朝でも強い時期っていうのも当然ありまして、紀元前200年頃のインドにあったマウリヤ朝の衰退に乗じてインドに進出。日本にも伝わった後のガンダーラ美術にも影響を与えたのでは?と一説では考えられているようです。

最終的には紀元前150年頃、北方から侵入した騎馬民族のスキタイ系トハラ人に滅ぼされたとも匈奴に追われて東方からやってきた遊牧民のイラン系大月氏に滅ぼされたとも言われています。

パルティア

紀元前247年頃、カスピ海東南部に生まれたパルティア。始祖であるペルシア人で遊牧民のパルニ族アルサケスの名前からアルケサス朝パルティアとも呼ばれています。

中国(当時は前漢)がシルクロードの西側の世界を知るために送った人物がパルティアを『安息国』と称したことでも知られている通り、パルティアは漢朝とも交流がありました。地中海のローマと中国の漢朝の交易路であるシルクロード上にパルティアはあったため、交易と商業で栄えたのです。

パルティアが建国したばかりの頃は、独立先のセレウコス朝から目の敵にされるものの

  • 交易によって栄え、パルティア自体が国力を増した
  • セレウコス朝とさらに西にあるローマとの関係悪化によるセレウコス朝の弱体化

によって徐々にセレウコス朝よりもパルティアが優位に立つようになっていきます。

 

ローマとの戦い

当時地中海を制していたローマがセレウコス朝を滅ぼすと、今度はパルティアがローマとアルメニア(黒海とカスピ海の間辺りの地域)の支配をめぐる争いに発展することに。58年~63年には実際に戦争も起こっています。

最終的にパルティアが推す人物をアルメニアの王位につかせ、その王位をローマ皇帝が授けるという妥協案で和平条約が結ばれました。

 

ところが、この和平条約も110年代初頭に入ると形骸化、パルティアの王によるアルメニア王位介入によりローマは軍事介入を決定します。

というのも、ちょうど介入時期がローマの王の即位15周年記念祭を行おうという時で、ローマの国王はパルティアのその行為を侮辱と捉えてしまいました。

…もちろん、実情は記念祭への侮辱ってのは建前でローマ側に利があっての決定です。

  • 陸路・海路貿易の戦略拠点だった
  • ローマの東方にある属州に対するパルティアの影響力を防ぎたい

以上のような理由が大きかったようです。

軍事介入を決めたローマに対して焦ったパルティアは、一度王位につけたアルメニア王を廃位させることに。そのうえで、新たに

「以前と同じような形で王を決めよう」

とローマに提案するものの、当然拒否されます。

 

ちなみに、パルティアは和平条約が結ばれてからアルメニア王位への介入の間、コインの発行が滞っていたり逆に王位についていない者がコインを発行していたりで政権が安定していなかったと推測されています。

その政権が不安定な理由として、パルティアが交易の要衝の地で外国から物だけでなく人も入り込みやすいため『団結力に欠けていた』ことも挙げられます。共通の宗教があったり文化を持っていたりすれば別ですが、

「自分達の国」

という認識がなければ『戦いでは士気が上がらない』、より良い統治をするための王選びも『自分の損得』で選ぶ傾向がより強くなります。パルティアも例外ではなかったようです。

今現在にも通じる事ですが、パルティア側は国力に自信があってアルメニアに口出ししたわけでなく、『国内をまとめるために』領土問題を持ち出したのかもしれません。

 

パルティアの滅亡とイラン高原に生まれた新たな勢力の台頭

以上のような経緯でパルティアvs.ローマの戦いの火ぶたが落とされたのですが、国内がバラバラな状況で当時の地中海の覇者に勝てるわけがありません。

結局、この戦いでティグリスユーフラテス川の河口部までがローマの占領下に収まります。ローマ属州の王に占領地の主要部分を与え、新しいパルティアの王位にローマで教育を受けたパルティアの王弟を立てることで決着させました。

ところが、負けたとはいえ東の大国パルティア。ローマと言えども反乱によってメソポタミアの維持は困難となり、メソポタミアから撤退。新しく立てた王もパルティア本国ではなく、ローマとパルティアの緩衝地域の王として立つことに。

その後もローマからの干渉や王位継承争いが続き、弱体化。新しくイラン高原の辺りで勃興したササーン朝によって滅亡を迎える事となりました。

 

ペルガモン

紀元前3世紀半ばかそれ以前にアナトリア半島の北西部…エーゲ海に面した都市ペルガモンを王都として独立したのが、ペルガモン王国(アッタロス朝)です。

セレウコス朝シリアと敵対していましたが、当初は共和政ローマとは良好な関係を築いていました。

アレクサンドロス大王の後継国家の一つにギリシア側にある王朝アンティゴノス朝マケドニアという国があり、ローマとアンティゴノス朝が戦った際にはローマの同盟国として参加しています。

ペルガモンがセレウコス朝に追い込まれている際にはローマに助けを求め、その危機を乗り切ります。

ところが、ローマがアンティゴノス朝を滅ぼすとペルガモンが狙われるようになったこともあって、最後の王は自らの後継者がいないことを理由に国土をローマに譲渡。紀元前133年以降はペルガモン王国は滅亡し、ローマの属州アシアとして文化の中心地として栄えていきました。

ABOUT ME
miumaga
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。