ヨーロッパ

ビザンツ帝国の繁栄と衰退<4世紀〜15世紀>【東ヨーロッパ世界の成立】

歴ブロ

ビザンツ帝国、別名は東ローマ帝国と呼ばれます。

ビザンツ帝国の歴史はおおよそ初期(4〜8世紀)、中期(8世紀初め〜11世紀)、後期の3つに分かれ、初期の頃に迎えた最盛期以降は他勢力に苦しめられることも多かったようです。

今回はそんなビザンツ帝国の建国から滅亡までを一つの記事にまとめていこうと思います。

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初期ビザンツ帝国

その別名の通りローマ帝国の東側の国で395年にローマ帝国が分裂して起こったとされますが、もう一説、330年にローマ皇帝のコンスタンティヌス帝ビザンティウムへ遷都した時をビザンツ帝国の始まりとする説もあります(このビザンティウムの名がビザンツ帝国の由来です)

なお、ローマ帝国の分裂は東からのフン族流入により玉突き状に移動せざるを得なくなったゲルマン系民族がローマ帝国に入ってきたことが一因となっています。

ゲルマン民族の大移動

そのゲルマン系の流入先は西ヨーロッパに大きく偏っており西ローマ帝国はすぐに滅亡してしまった一方で、ビザンツ帝国の方は直接的な影響を受けず逆にゲルマン民族が立てた国々を制圧しています。

この時に活躍したのがユスティニアヌス大帝です。

ユスティニアヌス大帝の治世(527~565年)

ユスティニアヌス帝の功績と言えば初期の絶頂期を築き上げ、ローマ帝国を復活させようとしたこと。当時の帝国の版図を大きく押し広げ、統治のために内政も整備しました。

実際にユスティニアヌス帝の時代に領土面でどんな変化があったのかというと

  • ヴァンダル王国(北アフリカ)征服【534年】
  • 東ゴート王国(イタリア半島)征服【555年】
  • 西ゴート王国からイベリア半島南部を奪取
  • 国境を守るため、ササン朝ペルシアと防衛戦を重ねる
6世紀ごろのビザンツ帝国

これだけの非常に大きな領土を作り上げました。

この領土を治めるために内政面では

  • 皇帝が政教一致の最高権力者として立つ
  • 法学者トリボニアヌスらによる共和政ローマ以降のローマ法を集めて編纂した『ローマ法大全』を作り上げる【534年】
  • 首都コンスタンティノープルにハギア(聖)=ソフィア聖堂を建立
  • 養蚕業を推奨 → 絹織物産業(←高級品!)の育成

こうした整備を行います。結果、首都のコンスタンティノープルは大いに繁栄し東西の物産の集散地として物も人も多数集まることとなりました。

ところが、ユスティニアヌス帝の治世後半にはペストが流行。帝国の人的被害も多くローマ帝国復興事業は衰退に向かいます。本人は宗教にのめり込んで軍を軽視するようになり金で異民族との紛争を解決し始めたため、晩年には国家財政も破綻状態となったそうです。

こうしてビザンツ帝国は徐々に衰退期へと進んでいくのでした。

ユスティニアヌス大帝後の初期ビザンツ帝国

ユスティニアヌス帝の治世後半から既に暗雲が立ち上っていたわけですが、実際にそれ以降も衰退期に入ってしまいます。

  • 異民族の侵入【6世紀】
  • ササン朝ペルシアによる攻撃
  • アジア系民族からの圧迫
    •  バルカン半島北部でブルガール人によりブルガール帝国が建国【7世紀】
    • 現ハンガリーの辺りを本拠地とした遊牧民族アヴァール人による圧迫
  • イスラーム勢力の侵入
  • キリスト教の中で異端とされた単性論派が多い東方所属州による反抗が強まる

こうした危機に対し、ヘラクレイオス1世(在位610〜641年)がササン朝ペルシアとの戦いに勝利し、東方所属州を回復したりアヴァール人も撃破したりしましたが、同時期に起こったイスラーム勢力に再び奪われてしまいます。

こうした周辺民族や諸国による影響を受け、地中海沿岸まで支配下に置いていたビザンツ帝国はその領地をバルカン半島+アナトリア半島+イタリア半島南部の一部のみにまで縮小させました。

流石に「この状況はまずい」ということでビザンツ帝国は

  • 軍管区制(テマ制):領土を軍管区に分けて軍事・行政権を持つ司令官を配置
  • 屯田兵制:コロヌス(小作料を納める農民)を解放し、スラブ人に土地を与える代わりに世襲の農民兵とする。この農民兵を各軍管区に所属させた。

を同時に行うことで「自分たちの土地を守ろう」という意識を芽生えさせると政策を打ち出しました。

実際に国の思惑は大成功。大土地所有が抑制され、徴兵と徴税どちらの制度も整うものとなっています。

領土縮小に伴う変化

初期の時点でだいぶ縮小してしまった領土。ローマ帝国の領土とは程遠く、メインとなるのはギリシア人の多く住む地域となっています。

ということで、

  • 公用語として使われていたラテン語からギリシア語が使われるように
  • 宗教はギリシア文化と結びついたギリシア正教

変わっていきました。

こうして「ローマ」からかけ離れた社会へと変化。コンスタンティノープルを中心とした新しいビザンツ帝国が出来始めたのです。

中期ビザンツ帝国

初期の時点で、かなり苦しい立ち位置につくことになったビザンツ帝国。日に日にイスラーム帝国の勢いも増し、対策を練らなければなりませんでした。

そこで行ったのが『聖像禁止令』の発布です。イサウリア朝の開祖レオン3世(在位717〜741年)が出しています。

元々イスラム教とキリスト教の神様は同じでキリスト教もイスラム教も偶像崇拝を禁止していました。

ところが、キリスト教の場合はゲルマン民族が流入し言葉の通じない相手に布教活動をするうちに偶像・聖像を使うことが多くなります。そちらの方が言葉も伝わらない相手にはイメージしやすいですからね。

イスラーム勢力からすると、この偶像崇拝が「野蛮」「そんなことしたらダメだろう」というビザンツ侵攻の大義名分になっていたためビザンツ帝国は侵攻理由の一つを潰すことにしたのです。

この禁止令の発布によって聖画像(=イコンの製作、崇拝をやめさせただけでなく、聖画像を持っている修道院の財産を没収する理由づけにすることができました。大土地所有を持つ修道院の力を削ぎ、さらに財産で戦費を賄える国にとってメリットの大きな策だったようです。

が、この聖像禁止令が大きなトラブルに発展します。それがローマ教会との対立です。

聖像禁止令

8〜9世紀には偶像崇拝論争を巻き起こし、ビザンツ帝国とギリシア正教はローマ教会と対立していくことに。

こうした対策の末に対イスラムでは折り合いをつけることに成功。9~10世紀には最盛期を再度築いています。

ところが、ビザンツ帝国のローマ教会との対立が1054年には断絶するまで拗れると、ローマ教会のお膝元・ローマ教皇領と隣接する南イタリアの支配を困難なものにしてしまいました。更に、この困難になりつつある時期に北方でノルマン人が民族移動を開始。

ヴァイキングのヨーロッパ進出

あっという間にノルマン人に南イタリアを奪われてしまいました。

後期ビザンツ帝国

11世紀末に宮廷の内紛を収めて帝位につき、コムネノス朝を開いたのはアレクシオス1世コムネノス(在位1081〜1118年)

彼が帝位についた頃のビザンツ帝国。実は大ピンチでした。

イスラームのスンナ派セルジューク朝がアナトリア半島の方へも進出するようになってきており、ビザンツ帝国はバルカン半島を支配するだけに留まります。もういつ滅亡してもおかしくない状況となっていたのです。

そこでアレクシオス1世が行ったのが

  • プロノイア制:貴族勢力に軍事奉仕を条件に国有地・住民の管理を任せる(事実上の領地割譲)
  • ローマ教会への軍事協力依頼

です。

ローマ教会への軍事協力…これが十字軍です。

第1回十字軍では最初にやってきた民衆十字軍がやらかし、

民衆十字軍

アレクシオス1世の十字軍への信頼はガタ落ち。

ビザンツ帝国とローマ教会の関係は微妙なまま進んでいくことに。

第一回十字軍おおよその地図

それでも運のいいことにセルジューク朝では内紛が始まり、なおかつヨーロッパの十字軍たちは士気の高い者の集まりだったため彼らを追い詰めることに成功します。セルジューク朝の領土内に十字軍国家が生まれ、ビザンツ帝国だけに目を向けるわけにはいかなくなったため、ほんの少しビザンツ帝国には余裕が生まれてきました。

ところが、この安定も当然長くは続きません。

12世紀末になるとプロノイア制でほぼ領土分割の形で領地を手に入れた貴族層たちが自立する方向に進み、セルビア・ブルガリアが独立。

さらに1204年。ビザンツ帝国にとって最悪な考えもしない事態が起こります。

なんと仲間だったはずの十字軍がコンスタンティノープルへ侵攻してきたのです。大きな理由は二つ。

  • ビザンツ帝国の内紛で、当時の王が前王を幽閉していたため前王の王子がコンスタンティノープルを脱出。十字軍に協力しコンスタンティノープルにいる父を救出しようとした
  • 海路でイェルサレム要するファーティマ朝の首都カイロへ攻め込もうとした十字軍が金欠でヴェネツィア商人に船の使用や借金する代わりに、商売敵のコンスタンティノープルを攻めてくれという無茶振りを受け入れた

こうしたことが重なって第四回十字軍でコンスタンティノープルが攻め込まれてしまいました。

細かい部分は過去記事に書いたので割愛。

この第4回十字軍による攻撃でコンスタンティノープルは一旦陥落。十字軍によるラテン王国が建国されました。

その一方でビザンツの残存勢力はトレビゾンド、ニケーア、エピロスに独立政権を立てて抵抗し、1261年にはイタリアの都市国家ジェノヴァの協力を得てコンスタンティノープルを奪還してビザンツ帝国を再興させています。

これこそが帝国最後のパラエオロゴス朝です。

とは言え、かつてのビザンツ帝国の面影はありませんでした。バルカン半島では強大化したセルビア王国の圧力が加えられ、さらにモンゴル人に追われたトルコ系諸民族の台頭により帝国は衰退していきます。

中でもイスラーム勢力のトルコ系によるオスマン帝国の強大化は周辺諸国に大きな影響を与えました。

14世紀半ばにはバルカン半島に進出してセルビアなどのスラブ系諸民族を征服すると、危機感を抱いたキリスト教諸国が十字軍を結成します。が、ニコポリスの戦い(1396年)での敗北をはじめ負け続けてしまいました。

そうして、とうとう1453年。

オスマン帝国スルタン(皇帝)メフメト2世(在位1444〜1446、1451〜1481年)率いるオスマン軍によりコンスタンティノープルが陥落。1000年もの歴史に幕を閉じたのでした。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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