東南アジアの諸文明
今回のテーマは東南アジアの諸文明についてです。今までの記事と趣向を変えて教科書に書かれた流れを年表にしてあります。
なお、地名などを知りたい方は下の記事をご覧ください。なお、当記事の地図は手書きなので細かい部分がずれていますので悪しからず。大体の位置と考えてもらえると助かります。
東南アジア大陸部の歴史を見てみよう
紀元前3000年頃と言えば、文明が興り次第に国家という概念が生まれる地域も出始めた頃ですが、東南アジアで国のような纏まりが出来始めたのは紀元前2世紀頃でした。
なお、前2世紀頃に出来上がった国も統一国家ではなく都市国家のような形のものだったようです。
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[ti label=”紀元前3000年頃” title=”【東南アジアの大陸部】”]モン=クメール系民族が定住 [/ti]
[ti label=”紀元前2000年末” title=”【ベトナム~タイ北部中心】”]青銅器が制作され始める[/ti]
[ti label=”紀元前4世紀” title=” ドンソン文化【ベトナム北部】”]独特な青銅器、鉄製農具が生み出される
インドシナ半島の東側にあるベトナム北部を中心とした地域で、およそ1世紀頃まで中国の影響を受けて成立したと言われています。ドンソン文化で最も特徴的と言われているのが『銅鼓』です。
ドンソン文化で作られた『銅鼓』(Wikipediaより)
中国の昆明から始まってベトナム北部に伝わり、次第にタイなどのインドシナ半島、さらに遠くの島嶼部にも広がっていきました。交易の広さが伺えますね。なお、片面のみの鼓は、雨乞いなど祭祀用とされています。
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[ti label=”紀元前2世紀頃?” title=”【イラワディ川下流域】”]ピュー人による国家が出来る
ビルマ(現在のミャンマー)のイラワディ川とサルウィン川の辺りで起こった国で、イラワディ川流域では城郭都市が発見されました。現在、東南アジアに仏教が伝わったことが分かる最も古い遺跡となります。
仏教の影響があったことからも分かるようにインドからの影響が非常に大きかったようです。城郭都市はそれぞれの指導者による支配が行われていたと言われ、季節によっては希少な水資源の管理も行っていました。
また、テラコッタ、鉄、金、銀、半貴石で作った工業製品も作られており、幅広い交易も行っています。交易は貨幣によって行われ、ピューコインと呼ばれる貨幣はベトナムの港湾都市オケオを中心に東南アジア各国で出土しています。
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[ti label=”紀元前後” title=”【東南アジア全体】”]インドと中国との交流が活発になる
※この頃の中国は漢です[/ti]
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紀元後になると東南アジアで初の扶南と呼ばれる国家らしい国家が生まれます。インドや中国といった大国の間にあることで交易の仲介をして発展していきました。
扶南建国から100年近く経つとベトナム中部にチャンパーが、もう少し時間をおくと扶南に従属していたカンボジア(真臘)が力をつけはじめ、11世紀頃のアンコール朝で最盛期を迎えます。
また、タイ北部やイラワディ川下流域などにも国家が出来始めていきました。
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[ti label=”1世紀末” title=”【メコン川下流域】”]扶南(ふなん)が建国
メコン川下流域のデルタ地帯で栄えた現ベトナム南部~カンボジアにある国です。インドから来航したバラモンと土地の女性が結婚して国を作ったという神話が残っています。扶南では神殿や倉庫などの建物の他、水路や公衆浴場が発掘されました。
そんな扶南王国の代表的な港市にはオケオという都市があります。ピューの国とも交易を行っていた他、ご近所の大国・中国とインド由来の出土品も見つかっている他、ローマ帝国の金貨まで見つかっています。非常に広い範囲で取引を行っていたことが分かりますね。
ところが、盛者必衰。各地での航海技術が改善されると東西交易ルートから外れ次第に衰退していくこととなりました。
[ti label=”2世紀末” title=”【ベトナム中部】”]チャンパーが建国
7~9世紀頃のチャンパー ベトナム中部でチャム人によって起こった国で、中国では林邑と呼ばれています。チャンパで栄えた重要な港市として挙げられるニャチャンは現在でもリゾート地と知られ、重要な港として地域経済を支えているようです。 ピューが仏教を信仰したのに対して、チャンパーはヒンドゥー教を信仰しました。 ミーソン聖域 写真:ミーソン聖域©OUR PLACE世界遺産コレクション
チャンパ王国初期の首都から西へ約15㎞進んだ小高い山奥にあるのがミーソン聖域です。煉瓦で構築された建造物があり、ヒンドゥー教の神話の一場面を描いた砂岩のレリーフやシヴァ神の象徴・リンガも見ることができます。
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[ti label=”4世紀末~5世紀” title=”【東南アジア全体】”]広い範囲で「インド化」が生じる[/ti]
[ti label=”6世紀” title=”【メコン川中流】”]クメール人によってカンボジアが建国
7~9世紀頃のカンボジア(真臘)
真臘(しんろう)とも呼ばれる初期クメール人の王国でヒンドゥー教を信仰していました。550年には扶南の従属国として知られていましたが、後に独立。力関係も逆転して扶南を占領、吸収するような形に収まっています。
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[ti label=”7世紀” title=”【メコン川中流】”]扶南が滅亡[/ti]
[ti label=”7世紀” title=”【チャオプラヤ川下流域】”]モン人によるドヴァ-ラヴァティー王国が建国
7~9世紀頃
チャオプラヤ川流域にある都市国家の集合体の様なモン人による国です。7~9世紀頃にはピュー人の国家群とカンボジアの間に挟まれた場所にあり、上座部仏教が信仰されていました。
もともと美術史の研究家によって発見された国家だけあって、独特の様式をもった仏教美術品や建築物が見つかっています。
※上の地図は教科書の方を参考に描きました
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[ti label=”9世紀” title=”【イラワディ川流域】”]ピュー人による国家がなくなる[/ti]
[ti label=”9世紀” title=”【カンボジア】”]アンコール朝の成立
11世紀頃のアンコール朝
8世紀に分裂した真臘をジャヤーヴァルマン2世が統一。カンボジアの全盛期を誇ったのがアンコール朝で、現在のカンボジアの元となった国でもあります。
ヒンドゥー教の影響が強く、9世紀以降に都がおかれたアンコールにはアンコール=ワット(12世紀、スールヤヴァルマン2世が建てた)と呼ばれるヒンドゥー寺院が残っており、マレー半島の一部にまで勢力を伸ばしています。
※スールヤヴァルマン2世はアンコールに隣接する地に王宮を建て、国家鎮圧のためにアンコール=ワットを建てているので、正確にはアンコール=ワットが出来た頃にはアンコールは王都ではなくなっていました
アンコール
トンレサップ湖の北にある約400平方㎞もの広域な世界遺産です。多数の寺院だけでなく堤防や貯水池、運河や通信ルートが整備され、卓越した文明を見ることができるようです。
写真:アンコール(カンボジア)©Ko Hon Chiu Vincent
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[ti label=”10世紀末” title=”【ベトナム】”]前漢以降、北部地域は中国に服属していたが、独立を認めさせる[/ti]
[ti label=”11世紀初め” title=”【ベトナム】”]大越(ダイベド)国が興り、李朝が成立
中国の影響下から離れて、1009年、李公蘊によりベトナム北部に建国された王朝。ベトナムの王朝としては史上初めての王朝でもあります。
最期は伝統的に強い豪族たちの影響と、度重なる災害により力を握った皇帝の外戚(陳守度)が李朝の皇帝に皇位を幼年の娘へ譲位するよう迫るところから始まります。その幼年の娘を最後の女帝とさせた上で、陳守度の甥っ子(女帝と同じ年)と結婚させ、その甥っ子を皇位に就けたことで李朝は終わりを遂げました。
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[ti label=”11世紀” title=”【イラワディ川下流域】”]パガン朝が興る
11~12世紀頃のパガン朝
現在のミャンマーで起こったビルマ族による国です。スリランカとの交流が盛んで上座仏教が広まりました。
首都のパガンは雨量が少なめの地域で決して米どころとは言えない場所ですが、東西に米の産地があり、ある程度の人口を賄うことが可能でした。
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[ti label=”1225″ title=”【ベトナム】”]大越国で陳朝が興る
1225年に建国。李朝と同様に南部はチャンパーが対抗勢力として存在していたため広域な支配に及びませんでしたが、漢字を利用した字喃(チュノム)と呼ばれる文字が作られるなど独自の文化を築き上げていきます。
陳朝が現存した時代は、北方にモンゴル帝国という世界史史上でもかなりの強国が存在していた時代です。
モンゴル帝国は四方に拡大路線をとります。西はロシア・イランまで東は中国北部の辺りまでと非常に広範囲に勢力を拡張。そのうち元と国号を改めると、13世紀半ばには陳朝にも遠征軍を送りました。
元からの遠征軍は3度にわたって侵攻してきますが、これをいずれも撃退。ベトナムの国威発揚の切欠となりました。そんな陳朝でしたが、14世紀に入るとチャンパーとの関係が悪化し衝突することも増えると徐々に力を失っていきます。
そのうち陳朝の実権は将軍の手に渡り、1400年に滅びることとなりました。
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[ti label=”13世紀半ば” title=”【タイ北部】”]スコータイ朝が興る
13世紀半ばに興ったタイ族による王朝です。タイ族が元々住んでいた現中国の雲南省辺りから南下して、アンコール朝が衰えてきた中で興した国と言われています。
スコータイ朝は多くの仏教寺院の遺構が残されています。王室後援の下で仏教が保護され、現在でも見ることが可能です。
スコータイ
13世紀と14世紀最初のタイ王国の首都。交易が盛んな東南アジアなだけあってスコータイも同様にインドや中国との交易を行っていました。中でもスコータイでは陶磁器の輸出産業の中心地だったそうです。
写真:スコータイの歴史的な町と関連する歴史的な町 より
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東南アジア諸島部の歴史を見てみよう
東南アジアの諸島部で国が興るのは大陸部から遅れ7世紀半ば頃のこと。最も早かったのはマレー半島から近いスマトラ島。続いてジャワ島でも国が興りはじめます。
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[ti label=”紀元前後” title=”【東南アジア全体】”]インドと中国との交流が活発になる[/ti]
[ti label=”4世紀末~5世紀” title=”【東南アジア全体】”]広い範囲で「インド化」が生じる[/ti]
[ti label=”7世紀半ば” title=”【スマトラ島】”]シュリーヴィジャヤ王国が成立
地図を見ると分かりますが、スマトラ島東北部からマレー半島、ジャワ島の一部にかけて成立した国です。シュリーヴィジャヤ王国は大乗仏教の信仰が盛んでした。この地域の特徴は何と言ってもマラッカ海峡という交易に欠かせないルートを支配していたこと。中国やインドと通商を行っています。
シュリービジャヤ王国は6世紀頃にメコン川のデルタ地帯でカンボジア(真臘)が興ってタイのマレー半島部分まで追いやられた扶南が亡命政権を建てた後、現地にあった他の国を吸収して出来たと言われています。
オケオをはじめ港湾都市として発達していた扶南の系譜ということで、交易のノウハウについて明るい人々が多くいたのも交易都市として栄えた理由だったかもしれませんね。
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[ti label=”732年” title=”【ジャワ島】”]マタラム朝が誕生
ジャワ島中部に栄えた王国で8世紀から9世紀に繁栄しました。後の時代に興ったマタラム王国と区別するために古マタラム王国とも称されます。東南アジアの島嶼部では最も大きなコメ産地だったのがジャワ島中部。肥沃な農業地帯を支配しました。
9世紀後半に立てられたプランバナン寺院遺跡群はシヴァ神の信仰の中心地として知られています(つまりはヒンドゥー教を信奉)。
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[ti label=”752年?” title=”【ジャワ島】”]シャイレンドラ朝が誕生
ボロブドゥール遺跡(wikipedia シャイレーンドラ朝より)
ジャワ島中部に興った仏教を信仰する港市国家です。同じく仏教を信仰するシュリーヴィジャヤ王国とも連携、後に合邦まで至り(シュリーヴィジャヤが進出したのか、逆にシャイレンドラ朝が君臨したのかは不明です)繁栄を続けます。
マタラム朝との関係の詳細は分かっていませんが、シャイレンドラ朝が優位な時にはマタラム朝が下っていた時期もありました。両者は敵対していたわけではなかったそうですが、ボロブドゥールと呼ばれる仏教寺院が建立された後、徐々にヒンドゥー教の勢力が強まっていったようです。
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この頃の東南アジアの歴史は実際にはよく分かっていません。詳細不明な歴史が多く、今後の解明が待たれます。