徳川家康を支えた徳川四天王はどんな人でどんな活躍をしたのか??
徳川家康の天下取りの過程で、常にそばで助けていたのが後の徳川四天王と呼ばれる酒井忠次、本多忠勝、榊原康政と井伊直政でした。
石川数正も徳川家を支え勢力拡大に尽力していましたが、小牧・長久手の戦い後に秀吉も元へ行ってしまいました。数正出奔事件がありましたが、他の四人は最後まで家康に従い、一緒に危機を乗り越えていきました。
家康が天下泰平の世を作ることが出来たのは、酒井忠次・榊原康政・本多忠勝・井伊直政の功績がとても大きく、後世の人々から徳川四天王と呼ばれています。
そこで、今回は徳川四天王を簡単にまとめてみました。
なお、この記事はyahooクリアエイターズに載せたものを少しリメイクしました。
徳川家康と徳川四天王の年表
四天王トップはみんなのまとめ役・酒井忠次
家康より年上で、松平広忠時代の頃から仕えているのが酒井忠次。
家康とは、人質時代から同行して苦楽をともしています。残念ながら、1603年の江戸幕府設立を見ることができませんでしたが、39年間徳川家康に仕えました。
四人の中で一番年長で家康との付き合いが長く、管理能力の高さから暴走しがちだった直政や忠勝をうまくまとめる兄貴分のような存在でした。
また、人当たりの良さから、敵対している相手との交渉事にも長け、話をまとめるのがうまく外交でも活躍します。信康事件の時には織田信長に弁明しに赴いていますが、特に信康を擁護する事はなく、結果的に築山殿と信康は処刑されてしまいます。
長篠の戦いでは、長篠城を救うための奇襲策を提案し信長もそれを支持し実行。そして、成功させ味方に有利な戦況を作り出しました。
その後の、設楽原の決戦では、敗走する武田軍を全滅させています。
家康に過ぎたるもの本多平八(忠勝)
トンボ切と呼ばれるやりの使い手で、生涯57回の合戦で無傷だった伝説があります。
13歳で士官後、50年間家康に仕え1610年に病没しています。同い年の榊原康政とは、功を争うライバルみたいな関係だったと言います。
同じ名字の本多正信とは遠い親戚という事です。
武田信玄との一言坂の戦いでは殿を務め武田軍を引き受け、無傷で帰ってきました。どうする家康では、血まみれでしたが返り血だったようですね。
本多忠勝の【家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八】のキャッチフレーズが生まれたのも一言坂の戦いがキッカケだとも言われています。
合戦で傷を負わなかった忠勝でしたが、死ぬ間際に小刀で自分の名を彫っている時に手にかすり傷を負い【本多忠勝も傷を追ったら終わりだ】と嘆いたと言う逸話が残っています。
文武両道武将の榊原康政
イラストでは悪い顔をしていますが、文武両道の武士で思い切りが良く、遊撃隊を率いて局面を打開するのが得意な武将です。
勉強家で教養もあり文字が達筆で、家康の代筆も務めたとか…
家康の嫡男・信康にも物怖じせずに欠点を指摘し【激怒した信康が射殺しようと弓を引くが、康政が動じなかった事で逆に信康がその欠点と向き合う事にした】と、名将言行録に記されています。
軍団を率いる統率力は忠勝に勝り、1584年の小牧・長久手戦いでは、秀吉をあおる手紙で挑発し、むきになった秀吉は10万石の懸賞金を出し康政の首を取るように命じました。この合戦で、羽柴秀次軍を壊滅に追い込み大敗させています。
傷だらけの最後の四天王・井伊直政
井伊直政
遠江の国人領主の井伊家の御曹司で、武田軍から赤備えを引き継ぎ、井伊の赤鬼と恐れられた猛将です。武芸だけではなく交渉術にも長け、調略や戦後交渉にも活躍します。
われ先に敵陣に乗り込む戦法を得意として数々の合戦を勝利に導きますが、そのため体中傷だらけでした。それを見て家康は、泣きながら一つ一つの傷の説明をしたと言う逸話が残っています。
関ヶ原の戦いでも武働きだけではなく戦後交渉にも活躍し奔走。家康が幕府を開くにあたり一番の功労者とも言われています。しかし、関ヶ原の傷がもとで42歳と言う若さで死去してしまいます。
自分にも厳しいが他人にも厳しく、ミスすると部下でも切り捨てることから人切り兵部と呼ばれていました。
家康の三大危機と徳川四天王
家康は生涯で3度のピンチに見舞われました。
その時も徳川四天王は、家康を助け窮地を救っています。
1563年の三河の一向一揆では、家臣が一揆側に味方するなど家中が分裂した中でも、酒井忠次は叔父と本多忠勝は一向宗から改宗してまで家康に味方し、同族の本多正信や正重を敵に回して戦っています。
榊原康政はこの時、初陣で家康側で戦っており【仏罰はすべて私が受けるから安心しろ】と見方を鼓舞して奮闘しています。
三方ヶ原の戦いでは武田信玄にコテンパンにやられますが、夏目吉信の身代わりのおかげで、無事に浜松城へ逃げ帰っています。このシーンは大河ドラマでやってましたね。
空城の計は四戦紀聞と呼ばれる軍記物に記載されており、後世の創作の可能性があります。
本多忠勝は、武田軍の山県昌景と激しい戦いの末に破っており、榊原康政は夜襲をかけて武田軍をほんろうさせています。
一方で井伊直政は伊賀越えで登場し、他の四天王も家康に従っています。
残っている逸話としては、逃走中に腹をすかせた家康はお供え物の赤飯を拝借し、仕方がない事情なので他のものも食べるように勧めました。しかし、直政は【敵が迫ってきたら自分はここで討ち死にします。その時に、腹から赤飯が出たら空腹に負けお供え物に手を出したと笑われる】として食べなかったと言うのです。
こうした、ストイックさが後の活躍につながり、中途採用組ながら四天王と呼ばれるまでになったのだと思います。
四人がそろった合戦は小牧・長久手から
四天王がそろって合戦に参加したのは、1584年の小牧・長久手の戦いが最初で最後でした。
酒井忠次が、森長可を奇襲させて敗走させ勝利しています。両軍、小牧でこうちゃく状態が続きますが、榊原康政の挑発に乗った秀吉が出陣し、羽柴秀次軍を榊原隊が壊滅させています。
その後は、長久手の戦いで家康本隊と井伊直政が池田恒興と森長可を討ち取りました。
一方で本多忠勝は、留守番隊でしたが徳川軍の苦戦を聞きわずか500名の兵で駆けつけ3万の秀吉軍を退却させています。
その後の徳川四天王たち
1588年に酒井忠次が隠居し、徳川四天王を卒業。
その後は、本多忠勝・榊原康政・井伊直政が残り【徳川三傑】と呼ばれるように…
1600年の関ヶ原の戦いでは、本多忠勝と井伊直政も参加し東軍の勝利に貢献しています。
榊原康政は徳川秀忠に従軍しており、真田昌幸が立てこもる上田城を攻めますが、苦戦を強いられ関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。秀忠を叱る家康を榊原康政は父子の仲を取り持ったとも言われています。
幕府設立後は、本多忠勝は伊勢国・桑名藩主、榊原康政は上野国・舘林藩主へ、そして井伊直政は近江国・彦根(佐和山)藩主になるが、1603年を待たずに直政は42歳で死去します。
そして、1603年に徳川家康が幕府を開き、家康の天下泰平の世を確認するかのように、榊原康政は1606年、本多忠勝は1610年に死去します。
その後、家康は1615年に豊臣家を滅ぼし徳川の世が盤石になるのを確認すると、1616年に75歳の生涯を閉じました。
今回は徳川四天王について書きましたが、今後のどうする家康を見るうえで頭に入れておけば少し違う視点でドラマを楽しめると思います。
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