NHK大河ドラマ

【どうする家康】実際の瀬名(築山殿)と徳川家康の関係はとても悲しい物だった

歴ブロ
Wikipediaより転載:築山殿

徳川家康の正室として今川氏臣従時代から一緒にいるのが瀬名。どうする家康でもその名で知られますが、当時の史料やその後の史料にも瀬名の名はないようです。

一般的には、岡崎の地名【築山】から、築山殿や築山御前などと呼ばれています。

どうする家康では仲つつましい夫婦で描かれていますが、実際の夫婦仲は悪いとされ、後の信康事件に発展するとも言われています。

今回は、瀬名(時山殿)について書いて見たいと思います。

※以下、瀬名で統一します。

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瀬名姫(築山殿)と徳川家康の出会い

1542年頃に、今川氏の重臣・関口氏純の娘として生を受けます。

親永は元々、瀬名氏を名乗っており名残で瀬名姫と付けられた説もあるようです。

1557年に瀬名は、徳川家康(当時は松平元康ですが家康で統一)と結婚しました。そして、嫡男・信康と亀姫が生まれるのですが、二人の運命が大きく変わる事件が起きます。

それが、桶狭間の戦いでした。

桶狭間の戦いの混乱に乗じて岡崎に帰還できた家康は、今川方の軍事支援がないと判断すると、織田信長と手を組み※三河国の平定に乗り出します。※清州同盟

清州同盟に激怒した今川家を継いだ氏真は、瀬名姫の父・関口氏純を自害させます。

一方の瀬名姫は、石川数正が駿河で氏真を説得し、鵜殿氏長・鵜殿氏次と瀬名姫とその子供たちを人質交換する事で駿府に居た今川館から岡崎に移りました。ドラマでは描かれていませんが、実際は家康の母と折り合いが悪く岡崎城外での生活をしていたようです。

その地が築山とみられ、この状態は1567年の信康が徳姫と結婚た3年後にようやく岡崎城に入城できたとの事です。

浜松に移る家康、岡崎に残る瀬名

遠江を制圧し本拠地を浜松に移す際に、瀬名は信康と共に岡崎へ残ることになりました。

その間、家康は1573年三方ヶ原の戦いなどの数々の戦を乗り越えました。

そして、1574年に家康の側室が次男・結城秀康を生みますが、瀬名姫は子供の妊娠を認めず、その側室を場内から追い出します。当時の正室は、側室を持つ権限を持っており、その出産も正室が監視下に置かれていました。

どうする家康でも、側室選びに瀬名が中心となって選んでいある背景がここにあると考えられます。

徳川家との対立と最後

信康と徳姫のとの間に2人の姫が誕生しますが、一向に嫡男が生まれないために瀬名は元武田の家臣でこの時徳川に帰参していた娘を側室に迎えました。

ところが、1579年に徳姫が、瀬名の武田氏との内通や信康の不仲などを書いた12か条からなる訴えを信長に提出。これを見た信長は、家康に信康の処刑を命じることに…

家康の処分を聞いた瀬名は、自害を拒んだことによって首をはねられ殺害されました。また、信康は二俣城で自害したと三河物語に書かれています。

この築山・信康事件に謎がいっぱい

上記に書いた事は、ドラマや私たちが知っている通説で書かせていただきました。

この事件については、瀬名が武田氏と内通していた、信康が共犯と言う史料が見つかっていないのが事実です。考えられているのが、信康の自刃を知った瀬名が狂乱するのを未然に防ぐために消したと言う説や、徳姫のいさかいの責任を明確した処刑だったとも考えられています。

また、松平信康の切腹は家康と信康の対立が原因とされる説が近年出ています。

結婚当初は、仲が良かった信康夫婦ですが、2人の姫が生まれたのちに不仲となり、家康が夫婦仲の修復を試みたのではないかと思われる書状・日記などが見つかっています。鷹狩の際に信長にも、信康夫婦の仲の働きかけがあったとも…

岡崎城内で、信康を担ぎあげる勢力と家康派と割れ、粛清されたと言う説があります。

家康と瀬名の夫婦仲は実際どうなの??

いくら、夫婦仲が悪かったとはいえ、結婚当初から悪かったとは考えられません。

私的には、家康独立時の父・関口氏純の自害がキッカケとなったように思えます。二次史料的な物にも自分の夫が裏切ったせいで父が切腹した事を強く恨んでいたとされています。

さらに、1570年まで岡崎城外での生活が続いた事、そして入れ替わるかのように家康が浜松に移動している事から、1560年以降家康と瀬名はコミュニケーションをほぼ取っていなかった事になります。

ドラマでは暇を見つけて築山に行ってはいるようですが、実際はそうではなかったのでしょう。まさに、10年以上あってなかったと言っていいでしょう。果たしてそうした夫婦の仲が良かったとは考えづらところがあります。

どうする家康では、仲睦まじいい夫婦

ここで話がそれますが、瀬名の母親は、今川義元の妹と言われていますが、実は井伊直虎の曽祖父の娘だとも言われています。井伊家の史料に瀬名姫の母は、井伊家出身であり今川の養子となって関口家の嫁いだと記述があります。

これが事実であれば、瀬名は井伊家の血を引いている事になります。

2023年のどうする家康では、瀬名姫と家康の仲睦まじい夫婦が描かれている事から、どんな展開で築山・信康事件が描かれるかが想像もつきません。ただ、巷では瀬名の暗黒フラグだとも言われている事から徐々にブラック瀬名が出てくるのでしょうか??

仲が良く描かれているだけに、家康が瀬名を討つ命令を出すのが想像もできません。

さて、今後の展開はどうなる家康?

追伸

少し、宣伝じみて申し訳ありません。

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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