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武田信玄に惨敗で討ち死に寸前!?家康最大の負け戦・三方ヶ原の戦い

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三方ヶ原の戦い、三枚の錦絵

三方ヶ原の戦い、3枚の錦絵

 

徳川家康の三大ピンチの一つ、三方ヶ原の戦いは人生最大の負け戦となりました。

この負け戦の戒めとして【しかみ像】と呼ばれる肖像画も残っています。これを見て家康は、後の天下統一の糧にしたのでしょうか??

そこで今回は、死を覚悟した徳川家康の負け戦・三方ヶ原の戦いを見て行きましょう。

 

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三方ヶ原の戦いと概要

三方ヶ原は、現在の浜松市に位置します。

1573年に甲斐国・武田信玄と徳川家康・織田信長連合軍で勃発した戦いの事を三方ヶ原の戦いと言います。

織田と徳川は1562年清州同盟を結んでいます。一方で、織田と武田は1565年、徳川と武田は1568年に同盟を組んでおり、当初から敵対していたわけではありませんでした。

桶狭間の戦い後、さらに美濃国を手に入れ勢いに乗った織田信長は、室町幕府15代将軍・足利義昭を擁立し、上京に成功します。しかし、織田信長と足利義昭の対立が色濃くなると【信長包囲網】の構築を始めます。

かねてから上京を願っていた武田信玄は、1572年10月3日に義昭の呼びかけに応じる形で、遠江・三河・美濃への同時侵攻を開始。この時、徳川家康も義昭に【信長包囲網】に加わるように誘われていましたが断っています。

 

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武田信玄が上京するにあたり、まず狙いをつけたのが浜松城でした。

家康は信玄の浜松侵攻を予想しており、織田信長と共に迎え撃つ準備をし、三方ヶ原を通過する際に武田信玄の軍勢を狙う事にしました。しかし、作戦は外れ、武田軍は徳川軍を待ち伏せする布陣を取っていました。

完全に作戦が読まれていた徳川軍は、戦いが始まりわずか2時間で徳川・織田連合軍の惨敗で終わります。

 

三方ヶ原の戦いの背景

この戦いが起こった理由はいくつか考えられます。

武田信玄の方針転換

まずは、武田信玄の方針転換です。

上杉謙信との戦いである川中島の戦いに一つの区切りをつけ、弱体化した今川氏との同盟を破棄し、駿河国侵攻を始めます。この侵攻劇で、武田信玄は駿河国をほぼ支配下に置くことに成功しています。

さらに、同盟中の徳川家康の領内にも侵攻した事で、織田・徳川との同盟も反故になり、敵対関係になってくのでした。

織田信長との清州同盟

1560年桶狭間の戦い後に、松平元康と織田信長が同盟を結びます。

こうして、家康が今川氏より独立を果たしました。

武田信玄が駿河を掌握した頃、織田信長は15代将軍・足利義昭を擁し、上京を果たしていました。しかし、折り合いが悪く義昭が織田信長討伐令を出し、織田家は多くの戦国大名と敵対していくことになります。

足利義昭の討伐例に応じる形で武田信玄は、徳川家康が治める遠江国と三河国に、じわじわ侵攻を開始していくことになります。

 

三方ヶ原の戦いの経過

当初、徳川軍は浜松城で籠城をしようとしていたのですが、武田信玄が浜松城を素通りしたことで、急遽迎え撃つことになりました。

当然、これは武田信玄の策略で家康はまんまと罠にはまってしまったのです。

どうする家康?武田軍が素通り!?

武田軍が浜松城を素通りした事で、徳川軍は作戦の変更を余儀なくされました。

しかも素通りと言う侮辱も加わり、そこで家康の導き出した作戦は信玄の背後を突いて攻撃すると言うものでした。しかし、その読みも甘く家康のこの行動は、信玄にも想定の範囲内でした。

 

信玄の挑発にまんまと乗った家康は、鶴翼の陣で武田軍の背後を取るように三方ヶ原に布陣しました。一方で、武田軍はその倍以上の軍勢・魚鱗の陣で徳川軍を待ち受けていました。

これに驚いたのが徳川軍で、うまく背後を突いたと思っていたのですが、三方ヶ原に到着した時にはすでに武田軍はしっかりと陣形を組んでいた状態だっと言います。

徳川軍の敷いた鶴翼の陣は、鶴が翼を広げたような神家の為に、伝達事項の遅れが弱点となっていました。この弱点を利用して、武田軍の挑発に乗ってしまった徳川軍勢は、命令なし武田軍に攻撃を仕掛けてしまいます。

最初は織田軍の援軍もあった事で、徳川軍が優勢に運んでいましたが、兵力2倍以上を誇る武田軍に徳川軍勢は次々とやられていきます。こうしていくうちに、本陣まで到達され徳川家康は、討ち死に寸前の惨敗に終わります。

 

三方ヶ原の戦いのその後

武田信玄から命からがら浜松城へ逃げ帰った徳川家康は、城門を解放してかがり火を焚いて敵を困惑させる空城の計を実行します。これを見た武田軍は本当に人がいないか判断が付かなかったので、浜松城を攻めることなく兵を引き上げていったのでした。

一方、無事逃げ延びた徳川家康はぐっすりと眠ったと言われています。

人生最大のピンチと恥、家康の脱糞疑惑!?

三方ヶ原と言えは、徳川家康の恥ずかしいエピソードがあります。

この戦いで、大敗を喫した家康が脱糞しながら逃げ帰ったと言うエピソードがあります。

戦の中、家臣達が次々と身代わりとなり倒されていく光景を見た家康は、恐怖で脱糞しながら浜松城へ逃げ帰ってきたのです。この逃げっぷりと、漏らして汚れた下着を見た家臣から情けないと言われると【これ腰に味噌をつけている】と言いました。

大河ドラマの【どうする家康】では、松淳が脱糞するわけないと思うので、せいぜい小を漏らすくらいではないかと思います。どんな描かれ方をするのか楽しみですね。

 

この脱糞事件から生まれたのが、徳川家康の【しかみ像】の絵。

この時の自分の情けない姿を絵に残したことで過去の苦い経験をバネにするために残したとされています。後に家臣達に、【ふんどしは白より黄色の方が汚れが目立たない】などと訳の分からないアドバイスをしていたんだとか…

 

この逸話は、とても有名ですが後の創作と言う見方が強いようで、明確な史料も残っていないのが事実です。また、脱糞事件の起こった戦も、三方ヶ原ではなく一言坂の戦いではないかとも言われています。

この戦いも、遠江国に迫る武田軍と応戦すべく起こった戦なのですが、徳川最強・本多忠勝も撤退を余儀なくされたものでした。この戦いでは家康は出陣していないと言われており、真実はわかりません。

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いずれにせよ、徳川家康が三方ヶ原の戦いで惨敗した事は変わりありませんし、この敗北をバネに1603年には江戸幕府を開くのですから世の中何が起こるかわかりませんね。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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