NHK大河ドラマ

戦国最強武将・本多(平八郎)忠勝はどんな人??

歴ブロ

徳川四天王/徳川三傑/徳川十六神将のいずれにも入っている、徳川家最強の武将が本多忠勝です。日本三大名槍・蜻蛉切を携えて、姉川の戦いでは朝倉軍相手に正面突破を果たし、武田軍から徳川家康を守った一言坂の戦いではその強さを見せつけました。

生涯57回の戦闘で傷一つ追わなかったと言う逸話まで残されています。

この記事では、NHK大河ドラマ【どうする家康】でもその活躍が期待される本多(平八郎)忠勝について紹介していきたいと思います。

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本多忠勝の誕生

1548年に松平家の譜代家臣・本多忠高の長男として生まれました。

幼い時に、父・忠高は1歳の忠勝を残し、合戦で戦死を遂げています。その後は、母と叔父の本多忠真に育てられました。

NHK大河ドラマ【どうする家康】の第一話の【桶狭間の戦い】の前哨戦・大高城兵糧入れで初陣を果たしました。この時、忠勝12歳の時でした。

ドラマでは、砂浜で家康にその槍裁きを見せつけていましたが、史実では辛くも叔父・忠真に救われと言う結果に終わっています。しかし、その失敗を糧に、1562年の鳥屋攻めでは初めて首級を上げることに成功しています。

1560年桶狭間の戦い今川義元が討たれると、徳川家康の本拠地であった岡崎城を奪還。それは旧主君の今川氏と全面対決になる事で、1562年に幼い時に面識のあった織田信長と清州同盟を結びました。

その後、本多忠勝は徳川家康と共に各地を転戦し、武功を重ねていきます。

1563年に起こった三河の一向一揆では、一向宗であった本多家の大半が一揆側に付きますが、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗しており、徳川家康側に付いています。この一揆鎮圧戦で大活躍した忠勝は、家康に「その勇ましさはずば抜けている」と評価されました。

1566年に三河を統一した家康は、家康旗本衆/東三河衆/西三河衆と家臣達を三つの軍団に分けます。その中で本多忠勝は、19歳の若さで家康直属の親衛隊・家康旗本衆に選ばれました。

姉川の戦いでは本多忠勝が単騎で駆け抜けた

1570年姉川の戦いで織田・徳川連合軍は、浅井・朝倉連合軍と激突。織田・徳川連合軍の方が動員数で上回っていましたが、相手の戦術に翻弄され本陣まで侵攻を許してしまいます。

織田・徳川の敗戦色が色濃くなった時に、本多忠勝は突破口を開くために短期で朝倉軍の正面を突入しました。本多忠勝を討ち死にさせてはいけないと、榊原康政が側面から突撃を行い、朝倉郡の陣形を崩すことに成功します。

これがきっかけに、浅井・朝倉軍は崩壊。織田・徳川連合軍が逆転勝利を果たすのでした。

織田信長は、本多忠勝の活躍を「花も実もある武将だ」とほめたたえています。

れきぴよ
れきぴよ

外見だけでなく、中身もしっかりしている】と言う意味だそうです。

本多忠勝の名を一層轟かせた 一言坂の戦い

独立当初、徳川家康が懸念していたのは、甲斐の国を治める武田信玄でした。

武田信玄は、織田信長打倒のために将軍・足利義昭や本願寺、浅井・朝倉などの反信長勢力と連携を強めていました。信長包囲網を作るために1572年に武田信玄は西上作戦を実行します。

織田の美濃国・徳川の三河・遠江国から武田軍が攻め込み圧倒してきました。

信玄の作戦により、徳川家の要所【二俣城】の信仰が開始。家康は、本多忠勝と内藤信成を偵察隊として先行させますが、武田軍の先発隊と遭遇してしまいます。

徳川家康は退却を始めますが一言坂で追いつかれ、この時殿だった本多忠勝は武田軍と交戦し、徳川家康本体の撤退に貢献しました。

この撤退戦で、本多忠勝があまりにも強かったので敵側の小杉左近が「家康に過ぎたるものが2つあり唐の頭に本多平八」と言う歌を詠んでいます。

れきぴよ
れきぴよ

わかりやすく訳すと…「徳川家康にはもったいないものが2つある。ひとつは唐原産の兜、もうひとつは本多忠勝」という意味です。

その後も、武田信玄に苦戦を強いられますが、本多忠勝は家康を守り切り浜松城まで撤退すことが出来ました。

武田信玄が没してからは、長篠の戦の前哨戦・長篠城攻めや1575年の長篠の戦い、1581年の高天神城奪還戦でも武功を上げていきました。

本多忠勝の武勇を称え「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という川柳が詠まれました。

本能寺の変と徳川家康の伊賀越え

1582年6月に安土城へ招待された徳川家康は、その帰りに堺に立ち寄っていた所で本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれた事を知ります。

この時に、明智光秀は同盟を組んでいる徳川家康も討とうと三河までの街道を張っていました。この時、家康は兵を連れておらず、自領に帰れずと絶対説明のピンチに立たされ、織田信長の後追い自害しようとしたのです。

しかし、本多忠勝がそれを諫め、体制を立て直すために帰国を進言します。

家康は、退却の最中でも落ち着きのない様子でしたが本多忠勝は励まし続け、服部半蔵の活躍もありわずか30人の決死の伊賀越えを果たしました。

伊賀は現在の三重県西部を経由して、鈴鹿の山々を超えて伊勢から三河に渡ると言ったルートでした。

秀吉と争った小牧・長久手の戦い

1584年に秀吉と争った小牧・長久手の戦いで本多忠勝は、家康の留守を預かっていましたが、家康の苦戦を知るとすぐに援軍に向かいます。同じく留守を守っていた家臣達に引き止められますが、これを無視し500騎の手勢で出陣。

大軍を前に忠勝は、ひるまず追撃を阻止している忠勝の姿に、秀吉は豪胆さと忠義を感じ攻撃s手はいけないと自軍に命令したそうです。

戦いの結果は、秀吉が勝利しましたが、本多忠勝はこの戦いの功績により秀吉から『天下無双の東の大将』と称されました。

小牧・長久手の戦い後、徳川家康は豊臣秀吉の配下となり、忠勝も従五位中務大輔になりました。

徳川家康の関東移封と関ヶ原の戦い

豊臣秀吉が天下統一を果たすと、家康は三河から関東への国替えを秀吉から命じられました。その際、本多忠勝は上総国地方に10万石の領地を与えられました。

これは、徳川家臣達の中で榊原康政と並び第2位で、1位は井伊直政の12万石だった。

秀吉の死後、1600年関ヶ原の戦いでは、東軍の最高司令官である軍監を務め、作戦指揮を担当しましたが、本多忠勝は自ら手勢を率いて首級を上げています。

この功績で、合戦後の1601年に上総国から伊勢国桑名10万石に移封されます。この時、家康は旧領プラス桑名を与えようとしたのですが忠勝はこれを辞退し、そのため旧領は次男の本多忠朝に与えられることになりました。

江戸幕府が成立すると本多忠勝は桑名に入り藩政を確立するために、桑名上の築城を始めます。その築城があまりにも大がかりだった事で、井伊直政が家臣を動員して支援をしたと言う逸話もあります。

築城と同時に、城下町と東海道宿場の整備を行い、本多忠勝は桑名を発展させた【桑名藩創設の名君】と呼ばれるようになりました。

本多忠勝の晩年

1604年頃から次第に病気がちになり、眼病にかかってしまいます。

この頃に名槍・蜻蛉切を6メートルあった柄を90cm程まで切り詰めたと言います。いくつもの戦場で無傷で戦功をあげた忠勝でしたが、寄る年波には勝てず得物は自分の身の丈にあったものとしています。

1609年に本多家の家督を忠政に譲った後に隠居。

その翌年に、本多忠勝は63歳の生涯を閉じました。

生涯57回の戦で傷一つ負わなかったと言われていますが、実は一度だけケガをしたとされています。それが、死の直前に所持品の小刀で彫刻をしたときに指を切ったと言うものでした。

これまで、傷一つ負わなかった本多忠勝が自分の死期を悟ったと言います。

本多家の家紋は特別だった

本多忠勝の家紋は、上記のような立ち葵の紋でした。

葵の紋は、江戸幕府設立後に徳川家のような位の高い者だけが使用できる家紋として、他の大名の家の使用が禁じられていました。しかし、本多忠勝は、本多家が先祖から受け継がれてきた立ち葵の家紋を使用する事を許されています。

一説では、徳川家の葵の紋を考案するのに手本としてのが、本多家の家紋だったと言われています。本多忠勝は、徳川家康を命に代えて守り抜きましたが、徳川家康もまた、本多忠勝に絶大な信頼を寄せていたことが伺えます。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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