徳川家康VS石田三成が戦った天下分け目の関ヶ原の戦い
1600年5月、全国の大名たちが徳川家康率いる東軍VS石田三成率いる西軍に分かれ美濃国の関が原で激突したのが関ヶ原の戦いです。
この戦い以外にも部分的にも戦いが行われましたが、全部説明すると長くなるので今回は関ヶ原の戦い本戦を中心に書いて行きたいと思います。
関が原の戦いまでの経緯
織田信長の後継者として天下統一を果たし豊臣政権を樹立した秀吉は、大名たちの中でも抜きんでた力を持っている徳川家康を警戒していました。豊臣秀吉の子・秀頼はまだ幼く、自分の死後に家康が大人しくしているとは思えず、【五大老】と【五奉行】制度を設け、皆で秀頼を支えるようにしました。
五大老には徳川家康と唯一意見が言える前田利家が加わり、五奉行には石田三成含む秀吉子飼いの武将たちがその職務に当たりました。
家康牽制の為に前田利家を五大老にしましたが、豊臣秀吉死後わずか1年でこの世を去ってしまいます。止める人物がいなくなった事で、徳川家康は段々と自分に従わない大名たちを排除し次第に権力を握りだしました。
秀吉が生きていたころから、豊臣政権内で合戦担当の【武断派】と内政担当の【文治派】が対立していました。天下統一されて合戦が減ると武断派の大名には出番がありません。
そんな武断派の大名たちの不満をよそに幅を利かせ始めたのが石田三成率いる文治派の大名たちです。そんな彼らに不満をあらわにした武断派の大名たちは徳川家康に接近します。
徳川家康は政権内のこうした状況を利用して石田三成との対立構造を作り上げ、戦に持ち込んだとも言われています。
そんな時、上杉景勝が命令に背いたことで家康は上杉氏を倒そうと会津へ向かいました。
その頃、石田三成は西から家康の後ろをついて倒してしまおうと、反家康派をまとめ上げて連合軍を結成し打倒家康を掲げ挙兵しています。
西軍 | 東軍 |
大谷吉継 | 前田利長 |
前田玄以 | 池田輝政 |
増田長盛 | 福島正則 |
長塚正家 | 黒田長政 |
宇喜多秀家 | 藤堂高虎 |
上杉景勝 | 細川忠興 |
毛利輝元 | 浅野幸長 |
石田三成 | 徳川家康 |
上記のようなメンバーで構成された軍団がそれぞれ出来上がりました。石田三成の大義名分は「徳川家康は豊臣秀吉の遺言に背いた。我々は豊臣家の為に家康と戦う」というものです。
一方の家康も「そっちこそ豊臣家を乗っ取るつもりだろう」と主張しました。
小山評定で山内一豊が大出世!?
石田三成が挙兵しようと動いている最中、徳川家康は上杉討伐で小山に到着していました。その三成挙兵の報を聞き、急遽軍議を開きます。この軍議を小山評定(おやまひょうじょう)と呼んでいます。
戦況は会津に上杉、西に石田三成と挟み撃ちに合っている状態で家康は非常に苦しい状況に置かれていました。そこで家康は従軍している大名たちを集め軍議を開き、上杉への攻撃を辞めるかどうかを話し合ったのです。
そこで家康は「もし、石田三成側に付きたければ、遠慮なくそちらへ行ってくれても結構」と発言。
それでも福島正則が家康に味方すると立場を明らかにすると、次々に有力大名たちが家康の味方になりました。
中でも山内一豊は【居城の掛川城を差し上げる】言います。掛川城は東海道沿いの遠江国にあり、家康が西へと戻るときの拠点として山内一豊は自分の城を差し出しました。
これを聞いた東海道に城を持つ大名たちは次々と城を差し出していくのでした。
こうして多くの大名が味方してくれたことで、逆転の兆しが見えてきた家康は最終的に福島正則と池田輝政を先鋒に西へと出兵させました。
山内一豊は、その功績により江戸幕府では初代・土佐藩主となり幕末の雄藩の一つとして血を繋いでいくことになります。
岐阜城の戦い
一方で西軍は美濃国の大垣城に控えていました。
そこに福島・池田両名が尾張国の清州城に到着したため、戦いの火ぶたが切って落とされるかと思われるのですが、東軍大将の徳川家康が到着しません。
福島・池田は次第に家康に不信感を持ち始めます。そこに家康の使者が到着し、家康は風邪をひいているので出陣が遅れると言いった内容でした。
この対応に福島正則は自分たちは捨て石にされたのかと激怒。
先鋒に従軍していた黒田長政は「家康は我々の本心を試しているのではないか?」と正則をなだめました。先鋒達の大名に戦う意思があるのか、ということですね。
これを聞いた福島正則は「もしそうならば西軍の岐阜城を落として見せよう!!」と出陣し、関ヶ原の前哨戦【岐阜城の戦い】が始まったのです。
岐阜城は山の上にあり、防御力も高く織田信長が居城としていた事もある城でした。
東軍の先鋒はそんな堅牢な城を3日で落とし、西軍に相当なショックを与えることに成功。岐阜を攻略された西軍は美濃国での支配権を大きく失い、勢いのまま東軍は大垣城まで迫っていきました。
徳川家康の出陣と関ヶ原の戦い
岐阜城の陥落を知った家康はとうとう重い腰を上げ出陣しました。家康は軍を二つに分けて江戸を出発します。
自分は東海道を通って西へ進軍。息子・秀忠には中山道を通り西へと向かいましたが、信濃で真田正幸に妨害をされ美濃に到着しません。
一向に現れない秀忠を対に家康は見限り、軍勢を移動。こうして息子不在のままで始まったのが関ヶ原の戦いでした。
関ヶ原の戦い
関が原がある場所は岐阜県西部に位置しています。
東に南宮山、西に今須山、南に鈴鹿山脈、北に伊吹山系と言った盆地でした。この場所は、東西に中山道、北からは北国街道、南には伊勢街道と言った交通の要所でもありました。
このような地形で行われた関ヶ原の戦いで西軍は、盤石な体制を整えて挑みました。
石田三成が南宮山の東の大垣城でにらみを利かせている間に次々と西軍の大名たちが布陣していきます。西軍の布陣は「後は豊臣秀頼を迎えるだけで勝ちが確定する」というくらいの布陣になっていました。
家康も秀頼公の為と大義名分を使っていたので、秀頼が西軍についてしまうと戦う事が出来ないからです。
しかし、ご存じの通り歴史上での勝者は徳川家康。
豊臣秀頼は関が原に到着する事はなく、家康は完璧に見える西軍の作戦の穴を突いていました。
合戦が始まる前にすでに関が原の東側に布陣していた毛利軍を寝返らせており、関が原の侵入に成功しています。ただその侵入に成功しても周りは敵だらけで囲まれてしまうので、東軍は小早川秀秋も寝返らせていました。西軍が挟み撃ちが出来ない状態をしかけていたのです。
こうした策略で「西軍有利」と思われた関ケ原の合戦は、ほぼ互角の状況になりました。
小早川・毛利勢の裏切りが分かると、大谷吉嗣は自分の持ち場を離れ、小早川秀秋軍に対応する事に。これを聞いた石田三成も大垣城を出て関が原に移動します。
同時に東軍が一斉に関が原に到着し、戦闘が開始されました。
東軍の家康が陣取ったのは南宮山のふもとにある桃配山で全軍の指揮を執ります。
余談ですが、ここははるか昔、大海人皇子が壬申の乱に際して兵士たちに桃を配ったと言う伝説が残る山です。大海人皇子はここで桃を配り、壬申の乱に勝利したので家康もそれあやかって本陣を敷きました。
対する西軍の石田三成は、笹尾山のふもとで陣を敷き、近くには右腕の島左近が布陣しており、急な作戦変更も何とか対応していました。しかし、一度できたほころびは次第に大きくなり、対応しきれなくなります。
盤石と言われていた西軍布陣は寝返りによって崩壊し、戦いはわずか2時間で西軍が劣勢となっていきました。
こうして、天下分け目の戦い関ヶ原は東軍のあっけない勝利で終わるのですが、この戦いで有名な伝説があります。
大谷吉継の最後
大谷吉継は元々徳川家康に従っており、上杉討伐でも合流しようと兵を進めていましたが、三成の居城・佐和山に差し掛かった時に、止められ家康討伐を打ち明けられました。
当初、吉継は反対しましたが三成の決意は固く、おそらくこの戦は負けるであろうと考えていながら親友である三成を見捨てることもできず従軍する事にしました。
大谷吉継は重い病にかかっており、この頃には体が思うように動かずに輿に乗って指揮をする状況でした。小早川の裏切りを知って最期を悟った吉継は病気で崩れた醜い顔を敵にさらすなと、家臣である湯浅五助の介錯を受けて自害します。
五助は戦場を抜け出し吉継の首を隠しに行きますが、その直後に東軍に見つかります。その武将に対し「首のありかをばらさないでほしい」と伝える代わりに自分の首を差し出しました。
このような経緯で大谷吉継の首は見つかっておらず、今でもその隣の墓には五助の墓が寄り添っています。
島津の退き口
西軍として従軍した島津義弘は奮戦していましたが、西軍の壊滅により敵に囲まれてしまいました。このまま西に退却すると敵に囲まれてしまう事から、それなら正面の家康本陣を突破しようと考えました。
これが島津の退き口と呼ばれています。
通常、後ろに撤退するのが定石だったのですが、島津義弘は前に撤退すると言う意表を突いたことで家康本陣を突っ切ったと言います。
こうして、難を逃れた義弘は、伊勢を経由して九州へと退却したのでした。
関ヶ原の戦いの戦後処理
こうして東軍の勝利に終わった関ヶ原の戦は、家康による戦後処理が行われました。
西軍の総大将・毛利氏は、周防・長門の二か国に大きく減俸されました。
そして、実質的な大将・石田三成が捕まり、京都の六河原で処刑されます。
こうして、家康によって西軍の武将たちは政治の中枢から外されていき、召し上げられた領地は東軍に味方した大名たちに分配されました。
関ヶ原の戦い後は五奉行・五大老制は完全に崩壊し、徳川家康は豊臣秀頼の家臣として権力を握っていきます。
しかし、1603年に徳川家康の征夷大将軍就任により、この立場がひっくり返ることになります。こうして、徳川家康は江戸に幕府を開き、豊臣政権が崩壊し、徳川の世が築かれていくのでした。
豊臣家は、幕府設立後もしばらくは存在しますが、1615年以降の大坂夏の陣を最後に滅亡する事になります。