わかりやすい小牧・長久手の戦いの勝敗と家康・秀吉の関係
本能寺の変で織田信長が倒れた後、後継者争いで羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康との間で争いが起きました。それが、1584年の小牧・長久手の戦い。本能寺の変以降、悠々自適に天下を統一してきたように見えた秀吉が戦に勝って勝負に負けた戦いでもあります。
戦術的には織田・徳川軍が勝利していたが、戦略的には秀吉側の勝利となり、歴史は羽柴秀吉の天下へと傾いていくのでした。
そこで今回は、小牧・長久手の戦いについて紹介していきます。
小牧・長久手の戦いとは?
小牧長久手の戦いとは、1585年に行われた羽柴秀吉と徳川家康&織田信雄との間で行われた戦のことです。
この戦いは唯一秀吉と家康が直接対決した戦であり、この戦によって秀吉は天下統一への一歩を踏み出すことになるのです。
小牧・長久手の戦いの概要
1584年3月、尾張を中心にして羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の連合軍が争った戦いが小牧・長久手の戦いです。
織田信長が本能寺の変で倒れたのち、順調に天下人の道を歩んでいました。この秀吉の振る舞いに信長の次男・信雄は良く思っていませんでした。しかし、抵抗するにも単独では不可能なのは自身がよくわかっている事。
そこで、信長の盟友だった徳川家康を頼ることにしました。
信雄の要請を受けた家康は、越中の佐々成政や紀伊の雑賀衆や根来衆、関東の北条氏政、四国の長宗我部元親らと秀吉包囲網を形成していきます。
包囲網を形成していく中で、織田家譜代の家臣・池田恒興が秀吉側に付き、織田領の犬山城を占拠したと報告を受けます。知らせを受けた家康は小牧山城を占拠。その後、秀吉が到着し両軍がにらみ合う状態に。
この時の兵力差は、秀吉軍10万に対して徳川連合軍は1万5千~3万程だったと言われています。
この状況を打破したのが池田恒興で、恒興を含む森長可、堀秀政、羽柴秀次の4部隊が家康の本拠地・岡崎を攻めると言うものでした。秀吉は、甥の秀次に武功をたてさせたいとの事でこの作戦を了承します。
しかし、秀吉軍の動きは事前に察知されており、家康は池田恒興率いる軍を迎え撃ちます。作戦がばれているとは思っていなかった秀吉軍は、壊滅的な打撃を受け、池田・森が討ち死に、秀次部隊が崩壊して退却しました。
この戦いを長久手の戦いと呼ばれています。
その後、再び膠着状態を維持しますが、11月になると秀吉が織田信雄に和睦を申し入れた事で家康の大義名分が無くなり、戦いの終結が図られました。
小牧・長久手の戦いの原因
この戦いの原因として、織田家の後継者争いがありました。
本能寺の変で信長が倒れ、天下の行く末がわからなくなりますが、山崎の戦いで明智光秀を羽柴秀吉が討ち取り、さらには三男・織田信孝・柴田勝家を賤ケ岳の戦いで倒し、実質的な後継者として秀吉が君臨していました。
しかし、信長の次男・信雄は秀吉の台頭を快く思っていませんでした。
本能寺の変で、信長と長男・信孝が討たれていた事で、本来なら信雄が家督を相続するはずでしたが、清洲会議で後継者に指名されたのは信忠の息子である三法師だったので、信雄が後継者となる事はありませんでした。
その三法師の後見人が羽柴秀吉で、これをきっかけに秀吉と信雄の関係は冷え切っていきました。こうした背景から、秀吉と張り合っていた徳川家康とよしみを通じていたのです。
一方で秀吉側も、信雄を潰すために調略を駆使していました。
こう策略で、家臣達が寝返った家臣達を信雄が粛清。さらに秀吉に宣戦布告を行ったことで両氏の戦いが始まりました。
徳川家康の誤算と長久手の戦い
家康は、信雄の居城である清州城へ入ります。
そこで、美濃国の織田家の重臣たちと連携を図ろうとしますが、池田恒興・森長可が秀吉側に付いてしまいました。
この動きから、織田信雄は人望が無く、君主としての能力も不安視されていたので、家臣達から秀吉には勝てんだろうと思われていたのでしょう。一方で、忠誠心の強い徳川家の家臣団からすれば、織田家の重臣たちが信雄を見捨てたことが大きな誤算だったと思われます。
ここで織田家と徳川家の家内の特徴差が出たのかもしれませんね。
家臣が主家を裏切るはずがないと高をくくっていた家康にとっては、簡単に主家を見放す織田家の家臣達の動きを予測する事が難しかったと思まわれます。
こうして、秀吉と家康が美濃と尾張で対峙する事になりました。
池田恒興による奇襲作戦と長久手の戦い
尾張の犬山城を占拠した秀吉軍に対峙して、家康は小牧山城に入り両軍はこう着状態に突入します。状況打破のために、池田恒興と森長可は家康を攻撃しますが、ことごとく失敗し、20日以上のにらみ合いが続きました。
そこで池田恒興は、秀吉に奇襲作戦を提案します。
その内容は、小牧山城に家康を引きつけながら、2万の大軍で岡崎城を攻めると言うものでした。これに成功したら勝利を確定とし、秀吉は秀次に2万の兵を与えて岡崎城に向けて進軍します。
しかし、家康は事前に羽柴軍の動きを察知していました。
そりゃ、2万人の大軍が動いていたら誰でもわかります。
家康は、羽柴軍に奇襲を行うために、榊原康政と井伊直政に命じて攻撃を開始。この戦いを長久手の戦いと言われ、奇襲を受けた秀吉軍は、大混乱。総大将・秀次は命からがら犬山城に戻りますが、池田恒興・森長可が討ち死し2万の兵は壊滅しました。
同じころ、秀吉は3万の兵で小牧山に攻撃を仕掛けていますが、500人率いる本多忠勝に行軍を妨害されています。その後、長久手の報を受けて秀吉軍は退却しています。
まさかの秀吉と信雄の和睦
家康に大敗を喫してしまった秀吉。さらに西では長宗我部元親が四国を統一し、家康だけに集中できる状況ではなくなっていきました。
讃岐まで手中に収めた長曾我部。讃岐は大坂の対岸にあるので、秀吉にとっては本拠地が攻撃される危険が発生した事になります。
家康は早急に長曾我部元親に使者を送り、摂津と播磨、淡路は切り取り次第与えるから秀吉を攻撃してほしいと要請します。元親が渡海を匂わせる行動も取っていた事もあり、秀吉はこれを警戒し、大坂に帰還しています。
紀州の根来衆も引き続き大坂をうかがっていましたので、秀吉はいつまでも尾張や美濃に張り付いている訳にはいきません。
この戦いを通じて秀吉は、東と西の戦線を行ったり来たりしどちらにも集中しきれず、これが泣き所となります。
そこで、秀吉は家康と戦うのではなく信雄単体を叩く事を決意し領土の伊勢を攻めます。
家康にやられたとはいえ、まだ5万の兵がいたので信雄を叩くには申し分ない兵力でした。
この攻撃に耐えられなくなり、織田信雄は秀吉の和睦に応じてしまいます。
信雄と秀吉の和睦は、家康に事前に伝えられておらず信雄の単独の決断でした。そのため、和睦後に情報を聞いた家康は、秀吉と戦う大義名分が失われ、家康も秀吉と和睦し岡崎へ引き上げていきました。
こうして、小牧・長久手の戦いが終わりを迎えたのです。
小牧長久手の戦いのその後
戦い終結後は、秀吉と対立していた大名たちが孤立します。
四国の長曾我部元親は、四国統一後、秀吉によって四国征伐と言う形で攻められ降伏。さらに雑賀衆も滅ぼされてしまいます。また、佐々成政は、家康に何とか秀吉と対抗してもらおうとしますが、最終的には秀吉に攻められ降伏します。
こうして、反秀吉包囲網を形成していた大名たちは崩壊し、秀吉はその後関白に就任し、実質的な天下人となりました。
徳川家康と豊臣秀吉
関白となった秀吉の最大の懸念は、徳川家康の存在でした。小牧長久手の戦い以降、両家の関係は冷え切っていました。
家康を何とかすれば、天下統一は目の前なだけに秀吉は、なりふり構わず家康にたいして工作をしていきます。
まずは、秀吉の妹を家康の正室として家康と親戚となります。しかし、それでも家康はおれず秀吉の臣下の令を取ってくれませんでした。そこで、秀吉は、母である大政所を人質として家康に差し出します。
母親思いの秀吉にここまでされたら家康も折れなければいかずにと思ったのか、徳川家康は豊臣秀吉に臣下の令受けに大坂へ行きます。
こうして、秀吉の最大の懸案である徳川家康を解決した秀吉は、九州討伐・小田原討伐を経て1590年に天下を統一する事が出来ました。
織田信雄のその後
秀吉と和睦をした織田信雄は、伊勢北部と伊賀国を秀吉に差し出し、領土が半分となりました。ところが、信雄にチャンスが訪れます。
小田原討伐が終わると、家康が関東へ移封。元家康の領地だった三河・遠江、信濃など家康の旧領130万石が織田信雄の元へ行くことになりますが、これを拒否。これに激怒した秀吉は、領地没収をし織田信雄は浪人となりました。
しかし、江戸時代になると2万石の領地が与えられ、子孫は続き山形の天童と呼ばれる藩主になっていました。ちなみに、信長の子で大名として幕末を迎えたのは信雄の家系だけだったようです。