安土桃山時代

父のように慕う勝家と親友・秀吉の板挟みに悩む前田利家

 

下剋上の戦国時代、忠義と守るべき家や家臣達の間で揺れ動いていた戦国大名達の苦悩は計り知れません。

加賀百万石の築いた前田利家もその一人でした。

織田信長に仕えながら、多くの同輩たちと戦い抜き活躍しましたが、1582年の本能寺の変後の権力争いに不本意ながら巻き込まれていきます。

信長の後継者として対立したのは、親友である羽柴秀吉と若き頃から父と慕っていた柴田勝家でした。この両者の板挟みの中で、1583年4月に賤ケ岳の戦いが始まってしまいます。

結果を知っている人には、前田利家がどちらを選んだのかはお判りでしょう。

今回は、そんな前田利家の当時の苦悩に焦点を当ててかいてみたいとおもいます。

 

親父殿と呼んでいた柴田勝家との関係

 

同じ織田家に仕える者としての二人ですが、立場は大きく異なり柴田勝家は信秀時代からの宿老で、1582年現在では、北陸方面の総司令官までの立場にいました。しかし、前田利家は勝家の与力であり、主従関係とはいかないが利家の直属の上司として勝家が君臨していました。

1575年以来利家と勝家は、越前で苦楽を共にしていました。

1581年の北陸平定後には、能登に前田利家、越前に柴田勝家の領土が信長に与えられました。この2つの地域は、上杉に備え互いに綿密な連携が必要となる場所でした。

まだまだ、越中・越後の上杉勢が脅威となっていた頃、利家と勝家は共に北陸の守りを固める運命共同体でした。戦では織田家宿老の地位である柴田勝家は、戦では勇猛果敢に攻め込み、実直な性格で利家は、日ごろから親父様と呼び慕っていました。

こうして、二人の間には強固な信頼関係が築かれていました。

 

親友・羽柴秀吉は家族ぐるみでつきあっていた

豊臣秀吉

一方で、利家と秀吉の仲も公私ともに親密なものでした。

勝家同様、同じ織田家に仕える秀吉は、年も2歳しか変わらず信長から【犬(利家)と猿(秀吉)】と呼ばれ可愛がられていました。織田家のキャリアを考えると利家の方が先輩なのですが、秀吉の才能とその出世のスピードはすさまじく、北陸で勝家と共にしている間に、秀吉は中国方面の総司令官に任命されていました。

 

利家からしたら後から入った秀吉に先を越され面白くないのだが、それでも彼らが中が良かったのは、ひとえに織田信長の人格によるところが大きかったのではないかと思います。

ワンマンな上司が居れば、その部下たちは不平不満を口にしながらも、共に支え合い、協力し、上司の無茶ぶりもこなし結束する傾向にあります。織田家で、は仕えていた年数など関係なく、完全な「実力主義」を採用していました。

【犬と猿】と呼ばれいたことから、かれらは期待されてたと思われ、利家と秀吉は共に夢を語り合いながら切磋琢磨した良きライバルであり親友であったと考えられます。

また、利家の妻・まつと秀吉の妻・おねも非常に仲が良かったのも大きなポイントだったかもしれません。こうして、妻同士も親交があり、家族ぐるみの付き合いを長年続けていた2人にも強固な友情の絆があったようです。

 

前田利家が賤ケ岳の戦いでとった究極の策とは?

 

上記のように勝家・秀吉共に親交が深かった前田利家には、賤ケ岳で相まみえた両者のどちらかを選ぶなんてできるはずがありませんでした。

 

前田利家は、若かりし頃一度織田家を出仕停止処分を受けています。

主君である織田信長の周りで雑務をする同朋衆が利家の刀の笄を盗み、一向に反省をせずつけあがる一方で、これに我慢できず信長の許可なく切り殺してしまう事件がありました。この利家の行動に信長は激怒しました。

幸い、柴田勝家のとりなしで死罪は免れましたが、利家には出仕停止の厳しい処分が下され、事実上浪人の身となりました。以降利家は、桶狭間の戦いなどに自主的に馳せ参じ、活躍をしますが信長は帰参を認めませんでした。

1561年の斎藤龍興との森部の戦いでやっと帰参が許されたと信長公記には書かれています。利家の浪人期間は短いものでしたが、その期間中仲間だった者たちが離れていくのはつらかったようです。

この時、唯一手を差し伸べていたのが柴田勝家と羽柴秀吉(木下藤吉郎)でした。

手を差し伸べていた二人が、後に賤ケ岳の戦いで争う事になろうとはこの時の利家には、分かるはずがありませんでした。

争う本人たちは、それぞれの大義名分でやっている事なので問題はありませんが、前田利家からすれば、共に深く懇意にしている人でありハタハタいい迷惑な話です。ない頭を絞っても結論は出るわけではなく、利家はある行動に出ます。

 

1583年3月12日、静ヶ岳の戦いの前哨戦ともいえる戦で、利家は柴田軍として別所山に陣を置きます。利家は迷った結果、親父様である勝家側に着陣しました。

戦況は、膠着状態であったので、秀吉はまず織田信孝のいる岐阜城に攻めるため出陣しました。その隙に柴田軍の佐久間盛政が秀吉側の大岩山を攻撃し、留守居の中川清秀が戦死し柴田軍に戦況が動いたかに見えました。

柴田軍の動きを聞いた秀吉は、美濃から52キロ以上を約5時間で引き返す【美濃大返し】をやってのけます。美濃から3日はかかると踏んでいらた佐久間軍は大混乱の末、壊滅状態に陥ります。

 

しかし、この壊滅劇は柴田勝家の軍勢が、後方を守っていた前田利家の軍勢が勝手に戦線を離脱し、後ろから総崩れをした【裏崩れ】とも言われています。美濃大返しにしても、利家の戦線離脱にせよ、柴田軍の戦意はかなり喪失した事でしょう。

他の与力たちも、、撤退を始め柴田勝家は泣く泣く北ノ庄城へ戻り、燃え盛る天守でお市の方と共に自刃しました。

 

一旦、柴田軍として参戦し、突然の戦線離脱。そして、中立の立場を経て勝機をつかんだ秀吉軍に落ち着く。一説によれば、これは事前に利家と秀吉の両者間で交わされた密約とも言われています。

結果、利家は賤ケ岳の戦い後に【加賀の加増】を受けていることから、まんざら嘘でもない話です。結論から言えば、加賀百万石の前田家の存続はあったのですから、利家のこの選択は良かったと言う事でしょう。

 

最後は柴田勝家に甘える事に…

結果的に親父様と慕っていた柴田勝家を裏切ることを選択した利家。

利家と勝家は、親子のような信頼関係があり、それに甘えたのではないかと考えます。

性格上、裏切れば絶対に許してくれない秀吉に対し、勝家は何があっても事情を話せばわかってくれる性格で利家はそこに甘えたのではないかと思います。

実際に、北ノ庄城に戻る途中で、利家の府中城へ寄り、湯漬けを所望しこれまでの労をねぎらったとされる逸話も残っているそうです。帰り際には、利家と勝家との盟約を破棄し【秀吉に付くように】と言い残したとも言われています。

勝家側に人質として出されていた三女は、利家に上洛前に無事に返されたと言う事でした。

 

また、勝家は利家に限らず、離反した家臣達に対しても恨み言は言わず、最後まで付き従った家臣達にも生きる事を許し、むしろそれを望んでいたと言います。これほどの実直で温情のある人側である勝家が、賤ケ岳で勝利していたら天下はどうなっていたのだろうか?

 

と、ついつい考えてしまうのは、私の悪い癖であります…

 

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。