人物伝

甲斐の虎・武田信玄の生涯を見てみよう

武田信玄

室町時代の甲斐の国は非常にゴチャゴチャしてややこしい混乱の時代でした。その甲斐の国の守護を世襲していたのが武田氏で、甲斐源氏宗家の家系です。

この時代、どこの大名家でもお決まりなのがお家騒動。武田宗家の内部争いは国人勢力だけでなく山内上杉氏や相模の北条早雲(伊勢宗瑞)、駿河の今川氏親といった対外勢力との同盟も交えて行っていました。そんな内紛の中で甲斐を統一したのが武田信玄の父・武田信虎でした。

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しかし、武田信虎は嫡男・晴信(信玄)クーデターを起こされて追放されます。

これにより、武田晴信※(信玄)は甲斐武田家の19代当主となりました。そこで今回は、クーデターを起こす前後から武田信玄についてお話していきたいと思います。

※わかりやすくするために以下信玄と書きます。

信玄による信虎への反乱

武田信玄は1521年、父・信虎と母・大井の方の間に誕生しました。上には竹松というお兄さんがいたそうですが1523年に7歳で亡くなっています。そこで信玄(当時は太郎)が嫡男として育てられました。

その2年後、信虎と大井の方の間に弟の次郎が生まれます。信虎の関心は次第に次郎にうつり、信玄は疎まれるように。

そんな中

  • 度重なる天災と飢饉・疫病の流行
  • 天災だけでなく戦続きで領地が疲弊

が続き、信虎の甲斐統治に対する家臣達の不満が募りクーデターに繋がったと言われています。

クーデターは不満の貯まった家臣達(板垣信方・甘利虎泰ら)と信玄が画策。

信虎を娘婿・今川義元のいる駿河に追放し、信玄が19代当主となったのです。

武田信玄が甲斐国内の地盤固めとして行ったこととは?

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信玄堤/wikipediaより

元々甲斐国は山がちな土地で平地が少なく水田がなかなか作れません。だからこそ信虎は領土拡大に勤しんだわけですが、足元がぐらついてクーデターを起こされました。

信玄が当主となった翌年の1542年には甲斐国内で大洪水が起こります。先代の信虎のように解決策を外に求めるのではなく、そもそもの原因である川の治水工事に取り組みました。川の治水ができれば洪水による農作物の被害を最小限に抑えることができます。

治水工事は約20年の長い年月をかけた一大プロジェクトでした。様々な工夫が凝らされ、出来上がったのが信玄堤(しんげんつつみ)で、川の流れをコントロールする手法で、現在でも信玄堤は治水機能を果たしているのが驚きです。

元は明の技術書によく似た技法があったそうなのですが、どのように習得したのかは分かっていません。ただ、信玄の場合は戦国時代には珍しく合議制を取り入れて執政していたということなので、ひょっとすると会議の中で出た意見を取り入れたのかもしれませんね。

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信玄による信濃国の平定

先ほども伝えた通り、甲斐は山がちな土地です。一方、目をつけていた信濃国は豊かな水源を持つ魅力的な土地。父・信虎の時代から念願の場所でもありました。

※平成29年度の米の収穫量は山梨県が47都道府県中43位なのに対して長野県は13位。収穫量は山梨の2倍。山梨県の下には大都市圏の東京・神奈川・大阪と食文化が異なっていた沖縄しかありません。

信虎が外征するにあたって駿河の今川氏や上野の山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃の諏訪氏と同盟を結んで信濃の佐久郡・小県郡へ出兵していたのを方針転換。諏訪領への侵攻を始めます。

武田氏の台頭

信玄は1542年から手始めに信濃国内の国衆である高遠頼継と手を結んで諏訪領へ侵攻。上原城・桑原城を落として諏訪を平定します(その後、頼継とは領土問題から敵対)

その後も長久保城主の大井貞隆(1543年)、高遠城の高遠頼継(1545年)を滅ぼし、福与城主の藤沢頼親を追放し南信濃を制圧します。1544年には信虎時代に敵対していた後北条氏と和睦、翌年に今川氏と後北条氏の仲を仲裁させるなど対外的にも精力的に動いていきます(これが後の同盟に生きてくる)

南信濃の制圧が終わると佐久に拠点を置く葛尾城主・村上義清。1548年の上田原の戦いで村上軍に敗れ、信虎追放に功績をあげた板垣信方や甘利虎泰を失います。

その様子を好機と見た西信濃の小笠原長時がやってきますが逆に武田軍が撃退し、中信濃も信玄の領地となりました。勢いに乗って村上領にも武田軍は攻め込み、真田幸隆(信之や幸村の祖父に当たる)の策略で戸石城を落とすと武田が優勢に。

最終的に村上義清は葛尾城を放棄し越後の長尾景虎(上杉謙信)の元に逃れます。こうして信玄は信濃を平定していったのですが、この豪勇を天下に鳴らした村上氏が謙信の元に下った一件は歴史を大きく動かすことになります。

信濃完全制覇をめざして戦った川中島の戦いとは?

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戦国時代の数ある戦いの中でもかなり有名な戦いではないでしょうか。戦上手として名の知れた武田信玄と上杉謙信、両者の戦いは1553年から始まり11年間計5回に渡って発生しました。

初回の戦いのきっかけは村上氏を始めとする信濃の豪族達への領地奪回への救援と信玄が越後に北上するかもしれない危機感によるもの。

川中島は信濃の更級郡を流れている千曲川と犀川の合流地点にあって、甲斐・越後・上野に通じる要所です。当時、物資を大量に運ぶには水運による移動が一番でした。信濃や甲斐を統治するには必要不可欠の場所だったのです。

1553年から1557年にかけて起こった3度にわたる戦いでは大規模な戦闘にはなりませんでしたが、どの戦いも小競り合い程度で勝敗はつきません。その川中島の戦いの裏で信玄は駿河今川氏や相模北条氏との関係を婚姻関係を結んで強化し、甲相駿(こうそうすん)三国同盟を締結しています。

この同盟は武田の立場だと信濃侵攻の布石でもあります。領土を獲得するために北へ攻め込むのに周りから攻め込まれて領土を獲られてしまっては元も子もありません。

そんな中で最も大きな戦いとなったのが1561年の第4次川中島の戦い。

信玄と謙信の一騎打ちがあったとも伝えられています。有名な山本勘助のキツツキ戦法もこの時使われたと言われていますが、一騎打ちも含めて本当のところはハッキリと分かっていません。

武田側は武田信玄の弟で副将の信繁山本勘助ら有力家臣をはじめ4000名の死者が出たそうです。一方の上杉軍は有力な指揮官の死者はなくても3000名が犠牲になったと言われています。

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どちらも大きな被害を出したものの、この戦いでもやはり決着はつかず両軍が退却。

3年後に再度川中島で睨み合いがありますが、本格的な戦闘には至りませんでした。勝負はつかなかったとは言え、元々の信玄の目的『信濃支配』を5回の侵攻の間に着実に増やしていきましたので信玄にとっては意義のあるものになっています。

信玄は目的を達成指せたことに加え、ある衝撃的な事件があったために外交方針の転換をはかります。こうして武田信玄と上杉謙信の戦いは幕を閉じたのです。

外交方針の転換と義信事件

信玄は多くの子をなしましたが、嫡男となったのは武田義信。公家の三条公頼の娘・三条の方が母親で血筋的にも申し分なく、そのうえ武勇にも優れていたそうで川中島の戦いでは謙信をあと一歩のところまで追いつめた人物です。

その義信は川中島の戦いの裏で結ばれていた甲相駿三国同盟(1554年)を強固なものとするために政略結婚で駿河の今川義元の娘を正室に向かえています。

以上のような状況の中で、1560年に桶狭間の戦いで駿河の今川義元が討たれたのです。

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桶狭間では今川の重臣の多くが討ち死にし、松平(徳川家康)が今川の元を去って織田信長と清州同盟を結んだほか、他の家臣達にも動揺が広がっており当主の死をキッカケに紛争が続出。

信玄は既に川中島の戦いで支配領域を増やしており、上杉と争う必要もなくなった訳で武田と今川間の同盟の重要度がかなり下がってしまったのです。さらに武田領は甲斐も信濃も『海』と面することはなく交易で富を築くことが難しい位置にあったため、信玄は今川を同盟相手ではなく侵略対象として見るようになっていきます。

そんな父の方針転換を義信は受け入れられず、親子仲は険悪になりました。

義信の様子を見ていた義信に近い『飯富虎昌(駿河との県境に領土を有す他、義信の後見人として任命されていた)、側近『長坂源五郎』と『曽根虎盛』らは信玄暗殺の密談まで始めるようになり、計画が信玄に露見したことで彼らは謀反の首謀者として処刑。

1565年、義信は直接的に信玄暗殺計画に加わっていたわけではありませんが、責任を取らされる形で山梨県甲府市にある東光寺に幽閉され廃嫡され、2年後に自害へ追い込まれています。

代わりに後継者として名前が挙がったのが諏訪家出身の母を持つ四男の勝頼でした。

次兄は盲目で三男は亡くなっていたため、勝頼が指名されました。ひょっとすると諏訪を抑える目的もあったかもしれません。武田家は、代々通字に【】が付いていますが、勝頼は諏訪の通字【】が継承されていました。このことから、元々勝頼は武田家の跡取りから外れていたことがわかります。

信玄は織田家との関係を深めるために勝頼と信長の娘(養女・龍勝院)との婚礼を進め、信長の息子と信玄の娘・松姫を婚約させ同盟を結ばせます。

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今川・北条との戦い

1568年には遠江の割譲を約束して三河の徳川家康と駿河へ侵攻開始。相模国の北条にも駿河侵攻を持ちかけましたが、北条氏康はこれを拒否すると今川への援軍を送りこみ、武田との甲相同盟を解消させます。

その対抗策として信玄は北関東の常陸や下総勢力と同盟を結んで北条への圧力を加えていきました。その中で武田と北条はぶつかり合い、武田軍が勝利。

一方で同じような時期に信玄は家康との領土問題から対立、家康と今川が和睦し今川侵攻から松平が離脱します。今川が松平の元に入るような形になり遠江は家康支配となりました。

信玄は巧みな外交政策を用いて駿河を支配し、駿府も統治下に置いています。

なお、今回の戦いを有利に進めるための外交政策の一つには戦では勝ち負けのつかない因縁の相手だった上杉謙信との和睦も含まれます。この和睦は信長との繋がりによるものでした。

ちなみに今川が滅び、北条家の当主が変わると信玄と北条は再び同盟を組んでいます。複雑怪奇な同盟事情です…

信長包囲網への参加と信玄の死

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1568年織田信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛しますが、両者はやがて対立。信玄にもその御内書が届きます。

この頃には信玄も信長勢力に危機感を抱いていましたが、最初の1568年の呼びかけに信玄が応じることはありませんでした。

実際に信玄が動き始めるのは1572年の包囲網から。その理由には、第一次包囲網の際に起きた比叡山焼き討ちが大きく関係します。

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信玄自身はこの比叡山焼き討ちを厳しく非難。焼き討ちを逃れた天台座主の覚恕法親王を匿い、覚恕の計らいで僧として高い地位を与えられました。信玄は信長との対決姿勢をあらわにしたのです。

そうは言っても信長との直接対決は行わず、以前から微妙な関係になっていた家康の領土である遠江へ攻め入り1573年の三方ヶ原の戦いへと繋がっていきます。三方ヶ原で家康に大勝すると続いて三河に侵攻。野田城を落としますが、持病が悪化。

1573年4月甲斐への撤退途中に死去します。

享年53歳のことでした。

胃ガンとも結核とも言われており、(またしても)ハッキリとしたことは分かっていません。

  • 死後3年間は信玄の死を隠すこと
  • 遺体は諏訪湖へ沈めること
  • 信勝継承まで後見としてつとめること

そして

  • 上杉謙信を頼ること

を勝頼に伝え、後事を託したと言われています。

勝頼は遺言に従って葬式は行わず表向きは信玄の隠居を装いますが、周囲にバレてしまい信長・家康は窮地を脱出。その後の活躍はご存知の通りです。

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武田信玄といえば戦上手な武将のイメージが強いですが、負けないよう用意周到な外交を行う『政治家』としての手腕にも優れていました。

信玄は家康を散々な目に遭わせていますが、信玄の手法を江戸時代に取り入れる他、将軍の外出時に護衛を担当する小十人組の旗本に幕府から貸与する甲冑を朱色で揃えていたりなど武田信玄の影響が様々な場所で見受けられ、江戸時代に信玄は非常に人気があったと言われています。

現在でも信玄の命日(4月12日)前の金曜から日曜にかけて信玄公祭りが行われています。歴代の信玄役には大物俳優さんが演じているので見てみたいものです。

数々の裏切り・陰謀を重ねてきた信玄ですが、後世まで人気が出たのは資源のとれない甲斐一国から信濃・駿河、さらに上野や遠江、三河に飛騨、越中の一部にまで領土を広げるなど人よりもだいぶ突き抜けた結果を出したからでしょう。

歴史に『if』はありませんが、もう少し長く生きていれば信長や秀吉、家康の天下は変わったものになっていたかもしれません。

ABOUT ME
miumaga
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。