NHK大河ドラマ

【どうして!?数正!】なぜ石川数正は突然、豊臣家に出奔(転職)したのか??

歴ブロ
石川数正(Wikipedia)から転載

戦国時代は忠義が重んじられて二君に仕えないと言うイメージがありましたが、勉強していくと意外にもコロコロと主君を変えている人物が結構いる事が分かります。

しかし、気分で他家へ転職しているのかと言うとそうでもなく、その人なりの理由がそこにはありました。あるものは主家が滅ぼされ臣従する者や不遇な扱いを受け去る者など理由は様々です。

今回の主人公・石川数正は事情が少し複雑で、主家である徳川家から転職する理由がハッキリと見当たらず、ある日突然に豊臣家に転職してしまいました。周りの人や研究者たちもどうして?と首を傾げています。

そこで「なぜ石川数正が出奔したのか?」ここでは迫っていこうと思います。

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徳川家康は家臣に対して公平だった!!

家康率いる徳川家には、多くの有能な家臣達が集まっていました。

織田信長や豊臣秀吉と少し違うのが、自ら滅ぼした一族の遺臣も多く召し抱えていたのが家康らしいところでした。そのうえで、家臣に対する扱いが公平で徳川家でも特に三河武士たちは結束が高いと言われていました。

しかし、その結束の高い三河武士団から一人の出奔者を出してしまいました。

それが、今回の主人公・石川数正で、徳川家の西三河の家老まで登り詰め、家康の信任が厚かったにもかかわらず、豊臣秀吉の元へ去っていきました。

外交能力に長けていた石川数正

大久保(忠教)彦左衛門が書いた【三河物語】によると、【石川数正は大髭を風になびかせ、若君を鞍の前に乗せ奉り(中略)通られるときの見事さと記しています。

1560年の桶狭間で今川義元が敗れ、その今川家から独立を果たすのですが、息子・信康と正室・築山殿は今川氏真の下に人質としていました。弱体化した今川家を攻めようにも、人質が居ては動くに動けない、そんなジレンマの中で今川家との人質交渉にあたったのが石川数正でした。

そして、無事に二人を救出し岡崎城へ帰還する様子が【三河物語】に記されています。

徳川家での石川数正の立場

石川氏は【清和源氏】の流れを汲み、源義家の孫【義基】が河内国石川郷に居住した事から【石川氏】が始まったとされています。その後、石川氏は三河へ移り住み、代々松平家に仕えるようになりました。

その流れで数正も家康に仕えており、石川氏は徳川家臣団でも大が付くほどの古参で、家康が今川義元の下へ人質に差し出された際には、28人の付き人の内の一人として数正も付き従っています。

その後、今川氏から独立をした家康は織田信長と同盟をし、今川氏真との人質交渉も行ったのも石川数正で、その実績が買われ【西三河の旗頭】を父・家成から引き継ぐことになりました。

交渉術にたけ、多くの交渉ごとにい使者として活躍したのですが、その任務が皮肉にも豊臣秀吉との出会いに繋がることなります。

豊臣秀吉は女性だけではなく有能な人材も大好き!

豊臣秀吉は大の女好きとして知られていますが、実は女性だけではなく有能な人材に出会うと、他家の重臣であっても『お誘い』してしまうのです。ようするにヘッドハンティングですね。

そのスカウト歴も節操がなく、石川数正だけではなく、本多忠勝にも声をかけており、伊達家の重臣・片倉綱景や上杉家の直江兼続、小早川隆景・立花宗茂などそうそうたるメンバーが、秀吉のヘッドハンティングを受けていました。

また、欲しい人材が居たらなりふり構わず、プレゼント攻撃をかけるそうです。

徳川家では、酒井忠次もお誘いを受け官位も与えられ、おまけに隠居料として京都に1000石も与えられています。それがキッカケかどうかわかりませんが、晩年は家康から遠ざけられています。

これらを踏まえると、石川数正が秀吉のもとに出奔したという事実は、特別珍しくはないのではと感じます。

石川数正と豊臣秀吉の出会い

この記事では石川数正ですが、秀吉との初めての出会いは秀吉が信長のポストをかけて柴田勝家と戦った【賤ケ岳の戦い】の戦勝祝いの席でした。1583年のこの祝いの席で徳川家康が使者として秀吉の元へ送ったのが、石川数正その人だったのです。

一説によるとこの時すでにスカウトが始まったとも言われていますが真相は、定かではありません。1584年に徳川家康と羽柴秀吉が【小牧・長久手の戦い】で対峙し、織田信勝の独自講和で不完全燃焼で幕を閉じ、戦後処理の交渉役にやはり石川数正が担当します。

その翌年、1585年11月に突然、石川数正は徳川家康の元から出奔し、豊臣秀吉の元へ行ったのでした。

石川数正の徳川家・出奔の理由

出奔理由としては、憶測の域を脱していないのが現状なだけに、多くの歴史作家たちは面白おかしく脚色をつけているようです。どうする家康でも描写されると思いますから、どのように解釈されているか楽しみではあります。

金ヶ崎の退き口の回で【真面目であるからこその裏切り】と石川数正が伏線を張っているようでしたから、どうする家康では信康切腹事件で来るよう気がします。

松平信康切腹事件が原因

どうする家康で石川数正は、浜松に転居する家康を見送り、岡崎の地で長男・信康の後見人を務めることになりました。

信康は順調に成長して、岡崎城で城主を務めていたのですが、実質的な政務を取り仕切っていたのが数正でした。

松平信康の切腹事件には諸説ありますが、信康や石川数正の岡崎派と家康と前線で戦うの浜松派の対立があったのではないかと考えられています。

徳川家康と豊臣秀吉との板挟みが限界だった

これは家康と秀吉の板挟みの末に疲弊し出奔したと言う説。

要するに単純に数正が家康を見限って秀吉に付いたとされるものです。これには【小牧・長久手の戦い】で、秀吉と決戦をするものとそうでない者との意見の衝突で数正が次第に孤立していったとされています。

加えて、秀吉が家康に対して上洛を要求した際には、家康側の使者として数正が度々派遣され、東海道を往復されるだけで成果もあげられない状況で、次第に疲弊し家康の元を去りました。

家康の命令で豊臣家へスパイとして潜入

もう一つは、徳川家康の命を受け、豊臣家のスパイとして家臣となった説です。

つまり、数正は家康を裏切ってはおらず、双方同意で豊臣家へ行ったのではないかと言うのです。ハッキリとした出奔の理由が謎のままである事から、歴史好きの間でもこのスパイ説を押している人も多いそうです。

家康の影武者が原因

トンデモ説ですが、家康の影武者である世良田二郎三郎元信が立場を利用して信康を殺し、松平(徳川)家を乗っ取ったためという説があるようです。

この説によれば、家康が何らかの形で不慮の死を遂げ、松平家存続のために世良田元信が君主に挿げ変わっていた。いずれは跡取りである信康が徳川家を継ぐものと信じていたが、信長の処断要求に乗じて処刑されると、家康と松平家に対し強い忠義心を持っていた数正は、これに激しい怒りを覚え出奔したのではとされています。

この説は、創作の部分が多いようで否定されていますが、物語としてはちょっと面白いと思います。

石川家における嫡流争いに敗北

これもまた面白い考察ですが、数正が叔父の石川家成との嫡流争いに敗れたと言う説です。

石川数正の父は、1563年に勃発した三河一向一揆で家康を裏切っており、これが原因で石川家の嫡流は、数正の叔父・家成が継いでいます。※家成が家康の親戚であったとも言われています。

一方で数正は、家康を裏切ることなくその後も家老として重宝されるのですが、石川家の嫡流はあくまでも叔父・家成でした。自分が正当な石川家の嫡流を示すために、徳川家以外の勢いのある豊臣家に仕えることで、自身の系統の正当性を示すために出奔したと言う見方もあります。

しかし、家康が天下を取ると、数正の家系は子供の代で改易される一方で、叔父の家成の家系は幕末まで続いています。この説が本当であれば、数正の思惑は上手くいかなかった事になります。

考察すればするほど謎が深まるばかり…

三河家臣団の結束力は強かったのですが、徳川家康三大危機とも言われている【三河の一向一揆】では、結果的に家臣団を2つに引き裂かれました。家臣団の多くが一向宗門徒であり、家康の友とも言われた本多正純でさえも、反家康側へと寝返ったくらいでした。

それでも、本多忠勝は改宗までして家康に従う忠義ぶりを見せました。そして、石川数正も門徒でしたが一揆側には就きませんでした。その信仰をも勝る家康への忠義がありながら、単に家康を裏切る事なんてあり得るのだろうか?と言う疑問が残ります。

また、小牧・長久手の戦いで石川数正小牧城留守居役を任されています。

この大事な一戦に主君の不在時に城を預かる大役は、絶対的な信頼を置ける人物でないといけません。まして、敵【秀吉】と通じていれば即刻負け戦になるのですから…

そんな戦いの際に留守居役を任され、戦後の交渉も含めて取り仕切ったのは石川数正なのですから、どう考えても徳川家康と石川数正は運命共同体だったはずです。狸オヤジの家康のことですから、裏切る可能性をわずかでも見逃すわけはないはずですが…

上記の事を考えれば考える程、スパイ説がシックリ来るところがあります。

秀吉ほどの人物をスパイをするのですから、中途半端なことはできません。そのため、思い切って家康と縁を切り秀吉の直臣となり、豊臣家の家臣として徳川家康をサポートする役目を担ったのではないかと考えます。

石川数正の子孫たちの間では…

最後に石川数正の子孫が書いた本の内容に触れてみましょう。

家康公については、岡崎の方々にしても悪く言う人は誰もいません。

しかし、太閤秀吉についてはあまりよく言われませんでした。

数正は、家康公の元を離れ秀吉の元へ行ったのでなぜかと思う事はあります。徳川家康に不満があっての出奔ならば、私たち子孫に何らかの事が伝わっていた可能性があります。しかし、実際は秀吉の方を悪く言っていたと伝えられています。

要するに子孫たちの間では、出奔には何か裏があったのではと勘ぐってしまうそうです。

やっぱり、石川数正は自らを犠牲にして豊臣家へ行ったのでしょうか?

この話だけでも、ドラマができそうな話ですが、真相は秀吉・家康・数正の心の中と言う事で、私たちは楽しく想像力を膨らませておきましょう。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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