徳川家康の影武者伝説に迫る!!
戦国大名の多くは戦場において命を奪われぬように影武者立てるのは良く聞く話ですが、関ヶ原の合戦に勝利をして、江戸幕府を開いた徳川家康も例外ではありませんでした。
徳川家康の影武者伝説は桶狭間の戦いで家康が戦死し、すでに違う人物が家康として君臨していた、関ヶ原の戦いで討たれて影武者が立てられた、大坂夏の陣で真田幸村と交戦し敗北、逃走中に槍で突かれて堺の南宗寺にて死亡した、などの説が有名なものです。
この徳川家康の影武者伝説は明治時代に発表されました。
そこで今回は徳川家康の影武者伝説に迫ってみます。
なお、Yahooニュースエキスパート版に再編集して掲載されているので良かったら読んでみてください。
桶狭間の戦い後入れ替わり説
明治34年4月に徳富蘇峰が経営する民友社から地方官吏であった、村岡素一郎氏が【史疑・徳川家康事蹟】を出版して家康影武者説を唱えたのが始まりでした。
彼が徳川家康の影武者説を唱えるきっかけとなったのが、江戸時代初期の朱子学派儒学者の林羅山の【駿府政事録】の1612年8月19日の記述でした。
その記述とは…
家康が雑談の席で私は子どもの頃に誘拐に会い売り飛ばされたのである
と語ったと書かれていました。
1560年の桶狭間の戦いで今川軍の先鋒で活躍していたのは、松平広忠の嫡男で松平次郎三郎元信(家康)で、この時は、正真正銘の松平家の当主で本人であったのは間違いないようです。
しかし、今川義元討死の混乱の中独立をはたした元信が、暗殺又は不慮の事故で亡くなると言う事件が起きました。当時、元信(家康)の子・信康は3歳の幼児で、織田信長や今川氏と渡り合うのは、難しいと考えた家臣団が信康が成長するまでは替え玉である配下の世良田二郎三郎元信に松平氏の家督を代行させました。
1567年に徳川家康と改名した後、信康が成長し岡崎城の主となった1579年に正室で信長の娘である、徳姫によって武田勝頼との内通が露見し激怒した信長が、家康に信康と母・築山殿の処分を求めた時、家康は苦渋の決断で条件を飲み、8月29日に築山殿を9月15日に信康を処刑した事件が起こりました。
替え玉であった家康と信康と血のつながりがない為、この出来事は世良田二郎三郎には渡り船で、この事件以降、完全に松平家の実権を掌握したのでした。当時の信長の命令で処刑したのですから、家康の家臣たちも従わざる得なかったと思います。
1585年の重臣・石川数正出奔の真相も信康事件に大きく関係しているとされており、数正は信康の後見人として岡崎衆を率いて補佐を務めていました。そのため、信康事件を誰よりもショックを受けたのは数正で、成長すれば徳川家の家督は信康が継ぐものだと、誰よりも信じていた所の事件である事から、このやり方にひどい憤りを覚えたに違いないと考えられています。
だから、秀吉を新たな主君として求めたのではないかとされています。
これだけでは、世良田二郎三郎元信が影武者と言う考えには至りません。
一つ気になるのが、将軍職を秀忠に譲り、駿府の地で実質実権を握って院政じみた事をし、久能山に自らを埋葬するために東照宮を作った行動は少し気になります。
史実通りに徳川家康が岡崎城主・松平家の9代目であるならば、岡崎と言う地に対して対応がとても気になります。駿府の地が政治経済上で重要な場所であったとしても、岡崎は自らの生誕の地であり、松平家のルーツでもあるのですから、それにしてはそっけなさすぎです。
幕府を開いたのちに直轄地にするなら分かりますが、岡崎城は本田康重に任せています。これでは岡崎が松平家のルーツであった事が分からなくなってしまってます。
影武者だった世良田二郎三郎元信は、駿府の生まれで入れ替わりが本当なら、天下統一後の行動の全て合点がいきます。
関ヶ原での討死説・大坂夏の陣死亡説
関ヶ原の戦いで、暗殺・討死したと言う説もありますが、そうした場合、敵方の武将や家臣達も周りにいたであろう事から、事実を封印して影武者をたてるのは難しいと思います。なので、関ヶ原説の可能性は非常に薄いと私は思っています。
一方で、大坂夏の陣での死亡説では、真田幸村に茶臼山に攻め込まれ、激戦のうちに敗走。その途中で槍で突かれ負傷し、堺の南宗寺に着いた頃にはこと切れていたと言う説があります。
実際に、大阪堺市にある1557年創設の臨済宗大徳寺派の古刹【南宗寺】の寺史に、このような記載が残っているそうです。
幕府軍は家康の死を秘す意味もあり、
この南宗寺開山堂の床下に隠すように埋葬した
と伝えられているそうです。
これを裏付ける記録が1623年の3代将軍宣下の折、7月10日に2代目・秀忠が、8月18日に3代目・家光が参詣したと寺の記録が残こっており、この説の真実性が一層深まります。
以上が徳川家康の影武者伝説でした。
もちろん、これらの説は証明されていないのですべては謎のままです。
個人的には、南宗寺の説が少し信憑性があるように感じるのは私だけでしょうか