徳川家康人生最初の危機、三河の一向一揆の鎮圧
徳川家康の三大危機とされている、三河一向一揆・三方ヶ原の戦い・伊賀越えのうち今回は、三河一向一揆について書いていきます。
本證寺住職・空誓上人の主導によって多くの門徒が参加し、三河家臣団の半数が門徒側に与すると言う、家康に宗教の恐ろしさを見せつける出来事となりました。
家臣の半数が寝返ると言う事態に、一揆鎮圧にはかなりの苦戦を強いられる事になるのですが、1564年に形勢が逆転したところで和議に成功します。離反した家臣達の多くが帰参して一揆が終息します。
三河一向一揆の背景
時は、家康の父・松平広忠が岡崎城主時代までさかのぼります。
広忠は、三河の本證寺・上宮寺・勝鬘寺の三つの寺社に守護不入の権を与えていました。
不入の権とは、鎌倉時代に設けられた特定の公領や荘園に対する特権で、こうした公領や荘園は守護や役人が犯罪者を追いかけたり、税を徴収する目的で立ち入ることが禁止されていました。
室町・戦国期に入ると幕府ではなく、戦国大名が不入の権を与えられることになりますが、その大名たちが反対に、この特権をはく奪したり、否定するようにもなります。松平広忠は、この三河三ヶ寺に対して不入の権を与えていたのです。
しかし、広忠が亡くなり、家康が今川家から独立して岡崎城主となると、1562年に本證寺で西尾城主・酒井正親が法に触れた者を追いかけ、本證寺に入って捕らえてしまいます。
先述したように、不入の権を与えられた領地では、犯罪者を追いかける目的で立ち入ることが禁止されています。そのため、犯罪者を追いかけた酒井正親が逆に犯罪者になったのです。
ところが、事件はそれだけではありませんでした。
今度は、上宮寺でも、家康の家臣・菅沼定顕が米を強制的に徴収してしまいました。
被害のあった本證寺と上宮寺、そしてもう一つの勝鬘寺は、特権を侵害されたと主張。そこで、本證寺の空誓上人は浄土真宗本願寺派の教団の信徒を集め、菅沼氏を襲撃したのです。
この三河の国では浄土真宗本願寺派の門徒がたくさんいました。
1214年から20年かけて浄土真宗の開祖・親鸞が関東で布教活動をしていた際に、三河にも立ち寄ったとされています。
門徒の中には、松平家の家臣達もおり、中には熱心な門徒家臣も菅沼邸襲撃に加わっていました。
家臣も含む、襲撃が起きたことにショックを受けた家康でしたが、更に追い打ちをかける出来事が起きます。今川派の吉良義昭・荒川頼持・松平三蔵侑次・松平家次・松平昌久がどさくさに紛れて岡崎城の攻撃を始めました。
こうして家康は、一向宗の門徒たちと今川派の敵対勢力に加え、一揆に加わった元家臣達と相手をしなくてはいけない状況となりました。
三河一向一揆の経過
一揆の原因は、寺社の持つ不入の権を活かして強大な経済力を持つ一向宗寺院から、独立後に増大した戦費の調達をしようとする家康側とのイザコザが発端となりました。
家康側も西三河・奥三河で影響力を強くしていったのですが、ここにきて父・松平広忠が認めた浄土真宗本願寺派寺院に対する守護不入特権が領国拡大の障害となったのも事実です。
家康が獲得するはずの地域の年貢が、不入特権により浄土真宗本願寺派寺院に届けられることとなっていたため、領土拡大が経済力の向上に繋がらないのです。
そもそも松平氏の家臣団には一向宗が多く在籍し、そんな家臣達が松平家を大きく躍進する力となっていました。この三河一向一揆は、松平家を分断させるほどの激しいもので、それに乗じて反家康勢力の国人領主たちが加わり一揆が形成していきました。
1564年1月11日に一向宗は、針崎、土呂、野寺の一揆衆が徳川家康側の大久保氏の拠点・上和田城を襲撃しました。上和田城の落城目前の報告を受けると、家康自ら駆けつけ救援。
その後、それぞれの地域で一揆を鎮圧し、家康は叔父の水野信元を通じて一揆勢に和議を持ち掛けます。その和議の内容も、不入の権を与え、一揆衆の罪は問わずと言う一揆がおきる前の状態に戻すと言うもの。
一揆に加担した家臣達の中には、家康を裏切った罪悪感にさいなまれる者や一揆の目的があいまいになった事で士気の下がったも者も多く和議はすぐに受け入れられました。
三河一向一揆の終息と家康の反撃!?
家康は一揆が収束したのを確認すると、和議を一方的に破棄。
三河にある浄土真宗本願寺派の寺に改宗を迫り、拒否した寺は取り壊されました。また、三河では、浄土真宗本願寺派は禁教となりました。
こうして、浄土真宗本願寺派の門徒たちは、三河を追放されることになりました。
1585年に家康の乳母・妙春尼が頼み込んだことで、浄土真宗本願寺派は三河国の禁教から外されることになります。妙春尼は浄土真宗本願寺派の熱心な信徒で、彼女が家康に頼み込んでいなければ、浄土真宗本願寺派の信仰が認められなかったかもしれません。
三河一向一揆で一揆側に寝返った家臣達
- 石川康正…石川数正の父
- 伊奈貞平…たねの兄弟
- 加藤教明…後の「賤ヶ岳七本槍」加藤嘉明の父
- 酒井忠尚…酒井忠次の叔父
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- 夏目広次…三方ヶ原の戦いでは家康の身代わりに…
- 蜂屋貞次…徳川十六神将の一人
- 本多正信…どうする家康では松山ケンイチが演じます。
- 本多正重…正信の弟
- 渡辺守綱…徳川十六神将の一人で槍の半蔵と呼ばれています。
一度は、一揆に加担しますが、終結後に帰参が許され再び迎え入れられた者の多くは、名誉を回復するべくより一層の奉公に励んだと言います。
こうして、一揆を鎮圧し三河国の影響力を強くした家康ですが、いまだ三河国内に影響力を残していた今川氏真との戦いが残っていました。