戦国大名の誕生と大名家の国家戦略
戦国大名は、合戦に勝利し領地を広げる事だけを考えていた訳でありません。
治める領地と領民を守り繁栄させるために、大名達は領国経営と外交政策にも力を入れていました。今回は、そんな戦国大名達の出所を紹介しつつ将来の事を考えた戦略を紹介していきたいと思います。
戦国大名の誕生
室町幕府での地方の統治は、守護大名と呼ばれる【幕府から任命された】者が統治を行っていました。幕府の後ろ盾の下で地方を支配していたので、将軍の権威が失墜した応仁の乱以降は、守護大名達の権威も失墜していきました。
この守護大名達のかわりに地方で力を付けたのが戦国大名で、室町幕府の将軍などの中央権力とは一線を画して独自の力で領地を支配し、軍事行動や外交も自身の裁量で行っていました。
戦国大名として名を上げた武将には大きく分けて3つのパターンがあります。
- 守護大名 → 戦国大名
- 守護代 →(下剋上)→ 戦国大名
- 国人 →(下剋上)→ 戦国大名
この戦国大名のパイオニアとして有名なのが北条早雲で1493年に伊豆の堀越公方の子・茶々丸を討ち、伊豆を乗っとり守護に任命されずに支配した事から始まりました。
この早雲を祖とする北条氏は、守護大名以外での成り上がりの戦国大名家として、秀吉による北条討伐まで続くことになります。
北条氏のように成り上がりの戦国大名家もあれば、元々守護大名や守護代や国人領主、また秀吉のように足軽から成りあがった者もいます。
守護大名から戦国大名へ
室町幕府から任命され両国を支配していたのが守護大名で、この権力基盤を独自に強めて戦国大名化したパターンです。代表的な大名家として今川氏・武田氏・大友氏・島津氏などがあげられます。
今川義元は駿河の守護大名で寄親・寄子を設けて軍事改革を行い、遠江から三河まで領土を拡大し戦国大名化していきました。
守護代から戦国大名へ
守護大名は、京都に屋敷を構え中央政務に関わるものが多かったので、家臣の中から代官を任命し現地へ派遣し領国経営を行わせたのが守護代です。この守護代が世襲化していき実質的現地の統治者になり、戦国大名になるケースが出てきました。
越後の長尾氏(上杉氏)・越前の朝倉氏・尾張の織田氏・阿波の三好氏などがいます。
国人領主から戦国大名へ
国人領主は、国衆や在国衆とも呼ばれ、鎌倉時代の地頭の流れを汲む武士でした。その国人たちが守護の支配から自立を図り、衰退した守護大名にとって代わりその領地を治めるようになります。
こうした下剋上により、毛利氏や長曾我部氏・竜造寺氏・浅井氏などの戦国大名が誕生しました。
戦国大名達の未来戦略
私は戦国大名=天下統一のイメージがありましたが、必ずしも天下統一だけが戦国大名の最終目標ではなかったようです。諸大名達は自らの力や状況に合わせて将来の設計図を描いていきました。
- 天下取りの戦略
- 領土拡大の戦略
- 領土保全の臣従政策
- お家存続戦略
と大きく4つの戦略に分けられます。どんな戦略だったのかという解説と共に、その戦略を採った代表的な武将達を紹介していきます。
天下取りの戦略
天下取りの戦略を採用していた武将の代表格と言えば、やはり織田信長。1568年、足利義昭を奉じて上洛を果たします。
織田信長は岐阜城に入り天下布武を掲げて以降、ひたすら天下取りの最終目標のため合戦を繰り広げていました。当時の天下統一とは、日本全国を自分たちの支配下に置くのではなく、天皇の権威を利用し朝廷のある京都を中心に天下に号令を下すというものでした。
ですが、実は天下取りの戦略を掲げ、成功したのは信長が最初ではありませんでした。足利義輝将軍の時代に畿内の覇を唱え、朝廷を意のままに掌握していた三好長慶も同じ手法を取り、信長が上洛する前に畿内を制圧し天下に号令を下していました。
領土拡大戦略
天下取りの野望を持っている大名家と同じ、好戦的に領土拡大をしていましたが、その理由が家臣達に知行を与えるためだった家もありました。自国を守る事が出来ない君主は、家臣の下剋上にあいその座を奪われる危険があったので、その力を誇示する意味合いもあったようです。
この領土拡大戦略を掲げていたのが土佐国の長宗我部元親で「我は四国の蓋になる」と言い、1585年に四国統一を果たしています。甲斐国の武田信玄は「国を広げてこそ家臣達に恩賞を与え、喜ばせる事ができる」と考えており、領土の最大化を武田家の目標としていました。
実は、武田家の領土最大を誇っていたのは、信玄亡き後の勝頼の時代だったのはみなさんご存じでしょうか?長篠の戦で敗れ、武田家の滅亡をさせたキッカケを作った事で凡愚扱いしている節がありますが、実はとても有能な人物だった言います。
領土保全の臣従政策
時の天下人に臣従して、その政権下で登り詰めお家存続を目指した戦略もあります。前田利家や蒲生氏郷などがそれで、織田信長の小姓として仕えた利家は、最終的に豊臣政権下で五大老の一人なるまでなり加賀百万石の基礎を作りました。
蒲生氏郷は信長から秀吉に仕え、小田原攻め後には会津42万石の大名に出世しています。
お家存続戦略
武田氏や毛利氏のように大国であれば、領土の拡大化でお家を守る事も出来ますが、小大名家になると独自で侵略する事が難しく、リスクも大きいのでより強い力を持つ大名家に臣従する事で領土保全を行っていました。
このような小大名家の場合は、侵略よりも自国を守ることが先決で、お家存続のためには主君を変えるのは、この時代当たり前に行われていました。
戦国時代の転職王・藤堂高虎は浅井長政から始まり、七回の転職を経て関ケ原の戦い後には20万石の大名までに出世しました。
真田丸で有名な真田家は、武田家の家臣でしたが、信長に仕え、北条・徳川・上杉を天秤にかけながら豊臣政権では、領土安堵を勝ち取りました。関ケ原の戦いでは、真田家存続のために、父と子がそれぞれ東軍・西軍に分かれどちらが勝っても真田家が残るようにしていましたね。
以上のように戦国大名達は、お家存続のために自分たちの状況を見極めながら、あの手この手で生き残りを図っていました。しかし、関ケ原の戦い後の平和な世の中が始まってみれば、一番力を持っていたと思われた守護大名~戦国大名化した家は島津氏しか残らず、この時代の下剋上の凄さが伺えます。