同じおだでもここまで違った最弱大名の小田氏治の戦国時代
戦国大名とくれば、武田信玄・上杉謙信・織田信長などの名だたる人物が挙げられ、その功績は皆さんの知る処です。
しかし、逆に戦国一最弱な大名が存在していたのは皆さんご存じだろうか?
歴史マニアの中では、戦で何度も敗北しようがゾンビの如く復活を遂げる大名として人気があるようです。その人物の名は小田氏治で、それはもう戦国一の戦下手で巷では有名な人物でした。
某歴史シュミレーションゲームでも、小田氏治の野望と称しネタとなるほどでした。
今回はそんな屈指のマイナー武将・小田氏治について紹介していきます。
名門・常陸国の小田氏の没落
常陸国と言えば、鬼佐竹で有名な佐竹義重が有名ですが、そんな佐竹氏を後ろからちょっかいをかけてはボコられる人生を送った大名がありました。それが同じ常陸国の小田氏で、関東八屋形にも名を連ねる、鎌倉時代からの名門の家柄でした。
室町末期までは、370年に渡り常陸国筑波郡とその周辺を支配して大豪族でした。
しかし、その栄華も小田政治の代で地に落ちていくことになります。
1545年、北条氏康の名を轟かせた日本三大奇襲【川越夜戦】で、負け方に付いていた事で、小田氏の転落が始まったのでした。父・政治は戦でこそ討ち死にはしませんでしたが、その後ほどなくして死去して、嫡男・氏治が家督を継ぐことになりました。
日本一戦が下手な小田氏治
小田氏の一時代を築いた父・政治の跡を継いだ氏治が、他の関東大名のように優秀な人物だったら、関東の勢力図は変わってたかもしれませんが、彼はとてつもないスキルを持っていたのでした。
それは、【天才的にいくさが下手】だったのです。
それは、そんなに大兵力を持っていても、どんなに外交的に有利であっても小田氏治が指揮を取ったというだけで大潰走を引き起こすという、戦の天才・上杉謙信の逆を行っていたのです。
結城氏に攻められては敗北し居城を落とされ落ち延び、多賀谷氏を攻めよう物なら敗北し、逆に居城を奪われ、佐竹氏と戦うもまたもや居城を落とされると言うように、まさに百戦ゼロ勝でした。
何がそんなに悪いのかと言うと、氏治は頭に血が上ると冷静な判断が出来ず、行ってはいけない場所に突っ込んだり、一つの事に執着する癖がありそれを利用されて敵の策にはまってしまうと言う一軍の将として致命的な欠点があったのです。
なぜか人望があった氏治
あたまに血が上り自分が見えなくなる氏治ですが、なぜか人望だけはあったようで、400年近くに渡り小田氏に支配されていた良民たちは小田氏とよく慕っていました。家臣にも恵まれており、譜代の家臣である菅谷政貞・範治親子などは、敵方から称賛されるほどの人物でした。
それが証拠に、氏治が何度も戦に負けようとも、嫡男が討ち死にしようとも変わらぬ忠誠で氏治を支え続けた家臣たち。領民たちも新しい領主には中々頭を下げず、年貢を納めるのも拒否し、氏治だけに年貢を納め続けたと言います。
小田氏治の野望
1558年に、上杉謙信(景虎)が関東の戦いに介入すると、小田氏の敵対勢力はこぞって上杉方に付いた。氏治は、居城・小田城を数回落とされては取り返しと善戦はしますが、軍神とそれに対の所にいる氏治では結果は一目瞭然でした。
小田氏治は、上杉連合軍に敗北し降伏。
しばらくは、上杉の庇護の下で佐竹氏や宇都宮氏と共に、結城氏を攻めたり北条の小田原を攻めたりをしていたが、上杉謙信が越後に帰ると、今度は和議を結んだ佐竹氏から圧力をかけられ始めます。
1563年、佐竹のプレッシャーに耐え切れなくなった氏治は、上杉謙信を裏切り北条氏康に鞍替えをし、打倒佐竹に心を燃やすことに。しかし、この行動が謙信の怒りを買い、佐竹・宇都宮・上杉連合軍に攻められる事となり再び小田城を奪われ、領地の大半を佐竹に奪われました。
小田領を奪ったことで、佐竹義昭は常陸国の統一を目前としていましたが、1565年に若くして死去し、義重に家督が継がれることになりました。当主の変わるタイミングが一番狙い時と踏んだ氏治は、佐竹氏から奪われた旧領に攻め込み小田城を取り返しました。
氏治の動きは合理的でまさにその通りなのですが、この行動が義を重んじる上杉謙信の逆鱗に触れることになり、小田城は謙信によって落とされ氏治は土浦城に逃れていきまいた。
さすがの氏治も謙信の怒りにふれ降伏する事になったのだが、上杉に降伏したのであって佐竹の脅威はそのままだったのでした。
佐竹義重は、小田領に度々進出し領土を奪っていきました。
どうにもすることができない氏治は、上杉謙信に助けを求めますが、上杉と佐竹自体大事な同盟国なので取り入ってくれませんでした。戦が上手いのか下手なのか分かりませんが、その後、佐竹氏の太田資正・梶原景国・真壁氏幹と言った名将の猛攻を死守していましたが、やっぱり氏治なので、1573年には小田城が最後の落城を果たします。
小田氏治最後の戦い
1573年の戦い以降、氏治は小田城の奪還をすることができませんでした。
これだけ負けても、氏治の戦下手は治らず、小田城の奪還にこだわり、それを利用されて佐竹氏に良いように踊らされるだけで、負け戦が続きました。さすがにこうも負けが込むと、領地も物資も無くなり、残る拠点は藤沢城と土浦城となってしまいました。
それでも、この期に及んでも家臣たちの裏切りは少なく、ここが死に所と判断し最後の戦いに打って出ることに…
まずは、藤沢城が落ち、主将・由良憲綱、戸崎長俊等多くの有能な家臣たちが討ち死にしました。そして、最後の土浦城では佐竹軍に包囲されながらも家臣達が奮起し、沼尻播摩守が身代わりとなり、氏治とその子守治を城から脱出させると城に火を放ち城内で切腹しました。
滅亡寸前で…
忠臣たちのおかげで小田原へ落ち延びることができた氏治は、北条氏に息子を人質に差し出す条件で土浦城を攻めるように要請します。願いを聞き入れた北条氏は、氏房を派遣し土浦城を攻めます。
ところが土浦城には、佐竹氏に捕縛され降伏した旧小田家家臣・菅谷範政が入っていました。氏治が戻ってきたと知ると、範政は喜んで城をそのまま明け渡し、土浦城は戦わずして奪還をしたのでした。
1577年には、北条氏政が小田城を攻めるも退却するが、その混乱に乗じて氏治は、旧領を攻めある程度回復する事に成功しています。それでも佐竹氏は強大で氏治は、北条氏の援護を受けながら、佐竹氏を後ろから突いてみたり、協調したりとチクチク嫌がらせをしていました。
この頃の佐竹氏は、伊達氏とのにらみ合いをしており、北部に兵を集中してしたので氏治からしてみればチャンスでした。そして、今度こそ小田城奪還と思ったところで、ある出来事で関東の争いが終了してしまいます。
それは…
豊臣秀吉の小田原攻めです。
親秀吉側の佐竹と敵対してた北条氏の勢力下におり、小田城の事で頭がいっぱいで秀吉の下へ参じなかった小田氏は、北条氏滅亡後あっさりと改易処分を受けました。
こうして、時の権力者の鶴の一声で小田氏は一瞬で終わってしまいました。
その後の氏治は、娘が結城秀康の側室であったことから、秀康の下で客分として迎えられ宿敵・佐竹氏が関ケ原で西軍に付いたのを確認して1601年に越前で死去しました。
やっぱりすごい!?小田氏治
室町末期まで名家として君臨しておきながら、最後には何もかも失った小田氏治は、高い評価はされませんが、1564年に上杉謙信に敗れて小田城を奪われたのにもかかわらず、1年ほどで奪い返している事から、小田氏譜代の家臣達の団結力が凄まじく氏治の力量のなす業だと考えられています。
氏治の宿敵・佐竹義昭は上杉謙信の書状で「氏治の弓矢の腕は最近衰えているが、その腕前は源頼朝以来で、普通に才覚もあり譜代の家臣達も有能な物ばかり」と評価していることから、後世に言われるほど残念な人物ではないのかもしれません。