鎌倉殿の13人

鎌倉幕府三代目執権・北条泰時とはどんな人で何をした人??

歴ブロ

鎌倉殿の13人の主人公・北条義時はドラマ開始直後は純朴な青年として描かれていましたが、鎌倉での政権内の渦巻く陰謀で徐々に闇属性が現れそうな兆しが見えてきました。

史実を見ても頼朝亡き後は有力御家人を次々と葬り去っていることから、悪評も圧倒的に多いとも言われています。しかし、そんな悪評高い北条義時の息子・泰時はほとんど悪評がなく、その人柄は聖人にたとえられ政治家としても名君として評価されています。

親子で同じ立ち位置にいたのにもかかわらず、どうして義時と泰時の評価が異なっているのでしょうか??

今回は、3代目執権・北条泰時を追いかけながら父・義時との違いを比べてみましょう。

スポンサーリンク

北条泰時の誕生

まだ源平合戦の最中だった1183年北条泰時が生まれました。鎌倉殿の13人では新垣結衣が演じる【八重】の子供として生まれましたが、泰時の母親に関しては詳しいことはわかっていません。

泰時が元服した1194年は既に平家は滅亡しており鎌倉幕府も始まっていました。

その後、1202年に有力御家人・三浦義村の娘と結婚し子供にも恵まれました。4月24日の鎌倉殿の13人でも義村が八重に自分の娘を預けていましたが、その子がドラマでの泰時の結婚相手の伏線でしょう。

その頃の鎌倉幕府は頼朝亡き後二代目将軍・頼家に次ぎ三代・実朝に実権が移行するかという時期でした。北条義時同様、泰時も鎌倉殿の二代目・三代目に仕えることになります。

祖父・北条時政や父・義時の鎌倉幕府内での立ち回りをじかに見て育った泰時は、何か思うところがあったのでしょうか。将来自分が政権を掌握した時には彼らのようなやり方はしないと思ったのかもしれません。

 

鎌倉幕府内では父の命に忠実にこなしていく

若かりし日の泰時は、祖父や父には逆らわず黙々と勤めを果たしました。

和田義盛の乱で戦功をあげたり、承久の乱では叔父の時房と共に幕府軍を率いて最前線で働き実績を上げていきます。

承久の乱が終結すると、新しい役職の六波羅探題に時房と共に就任し京都に在中。このとき、泰時が京都の北側、時房が南側を担当していました。

源頼朝率いる源氏は、争いが絶えませんでしたが、身内とうまくやれていた泰時はこの時代の武士としては珍しい人材だったかもしれません。

北条義時の死と三代目執権の就任

承久の乱から3年たった1224年、父・義時が亡くなり泰時は鎌倉へ戻りました。

この時、執権職をめぐり北条家内でお家騒動が起きます。

義母・伊賀の方が「(実子の)政村を執権に擁立しよう」と伊賀氏の変を起こします。この時、北条政子と大江広元は協議をして泰時を執権とし、伊賀の方らを謀反人として処罰しました。

お家騒動後の義時の遺領相続について【兄弟たちとの争いを避けるために私の取り分は少なくして分割しようと思います】と提案して、北条政子を感心させる逸話が残っています。

泰時は和田合戦や承久の乱の戦功で恩賞として得た所領が十分にあり、父・義時もその時に受けた恩賞で受けた所領の一部をすでに泰時が持っていたようです。

そして、三代目・執権として四代目将軍・藤原頼経を支えることになります。

源氏の血が途絶え、藤原氏から将軍を迎えることになった鎌倉幕府。その功績も、実は泰時あってものでした。

執権職を継いでからしばらくは、北条政子と相談しながら政務にあたっています。

執権補佐役「連署」を設けて独裁色を弱める

1225年に鎌倉幕府を長年支えてきた北条政子と大江広元が亡くなり、幕府は大きな転換期を迎えることになります。

泰時を補佐して自分の後ろ盾をしてくれた政子の死は痛手でしたが、逆に言うとその束縛から解放されるという事でもありました。そこで、泰時は、頼朝から政子に至る専制体制に代わり集団指導制・合議政治を打ち出しました。

叔父である北条時房を呼び戻し、妥協と協力体制を確立させて【両執権】と呼ばれる複数執権体制が確立されます。この第二の執権の事をやがて執権の補佐役である【連署】と呼ばれ、北条氏の有力なものが担っていきました。

新しい鎌倉幕府の体制

さらに泰時は、三浦義村などの有力御家人や幕府事務官僚などの11人からなる評定衆を置いて、それに執権2人の13人体制の評定を新設して、これを幕府の最高機関として政策・人事・立法・裁判などを取り仕切りました。

また、幕府を大倉から宇都宮辻子に移して、鎌倉大番の制を整えています。

この幕府移転は小規模ながらも遷都であり、将軍独裁から心機一転を図り合議的な執権催事を発足させる出来事でした。これにより鎌倉殿=征夷大将軍は名目上の存在となるのでした。

しかし、泰時は鎌倉殿あっての幕府、執権であることを自覚し、評定で決められた事は常に鎌倉殿に報告し、幕府の最高権威はあくまでも鎌倉だのであると言う事は強調。泰時本人が主従関係の模範として行動していました。

御成敗式目の制定

こうして新しい体制での鎌倉幕府をスタートさせた泰時ですが、新たに任命した地頭の行動や収入をめぐり各地で紛争が起きており、集団指導体制を行うための指導理念が必要となりました。

これまで、こう言った紛争は慣例に基づいて裁決されていましたが、慣例とは誰もが知っていないと成り立ちません。一方の当事者が自分に有利な慣例を知っていて、もう一方が知らなかったとしたら、どうしても不公平が生まれてしまいます。

こうした、不公平を是正するために作ったのが【御成敗式目】でした。

法律の作成にあたり泰時は、京都に赴き専門家から法の勉強を学んだと言います。

出来上がった御成敗式目は、もちろん独断で決めたりはしませんでした。評定衆ときちんと相談したうえで編集し、1232年に全51か条からなる法律を完成させました。【貞永式目】とも呼ばれます。

御成敗式目は、慣習・倫理観の明文化という点で、律令や現代の法律とは大きく異なっています。日本のほとんどの法律は、諸外国に習って作られていますが、御成敗式目はそういった点がほとんどないのが特徴でした。

まさしく【武士による武士の為の法律】で、室町時代の【建武式目】戦国時代の【分国法】に影響を与え、その後400年に渡り武家社会の基本的法典の地位を確立しています。

北条泰時による鎌倉幕府の政策

北条泰時は、御成敗式目を制定しただけではなく、【土地】【建築】【係争】を重視した政策を行いました。

幕府関係の施設のほかに、鎌倉周辺の住宅・港・道路の整備、奈良の興福寺・滋賀の延暦寺の荘園へ地頭を置き統制を図ったほか、鎌倉周辺の腐敗した僧侶たちに対する綱紀粛正も行っています。

鎌倉時代は、新しい仏教の宗派が多く生まれた時代でもありました。

鎌倉仏教という用語が誕生するように、様々な形の仏教が登場してきます。法然、親鸞、一遍、日蓮、道元、栄西の6人は、よくテストなどに出るので宗派と共に覚えておくと良いでしょう。

こうして鎌倉は、政治的にも文化的にも少しずつ発展していきました。

朝廷との関係も改善し良好に…

泰時が名君と言われる所以か、当時の幕府と朝廷との関係はおおむね良好でした。

また、4代将軍・藤原頼経の父・九条道家が朝廷内で権力を持っていたことも大きな要因だともいえるでしょう。

そんな良好な関係からか、承久の乱から20年たったある日「そろそろ、流刑になった上皇様方が京都にお戻りになっても良いのでは?」と朝廷側からの申し出があったようですが、さすがの泰時も大反対したそうです。

この反対も幕府に逆らってほとぼり過ぎれば元に戻れるなら、また反乱を企ててやろうと思わせないための措置だったりします。

とは言っても泰時は、京都を決して軽んじているわけではありませんでした。

1238年に将軍・頼経が上洛した際にお供もし、朝廷との友好関係をしっかりと作っています。また、京都に篝屋(かがりや)という御家人の詰め所を数十ヶ所設置し、治安向上も図っています。

この篝屋は、室町時代も残っており、混乱期には篝屋にいた御家人たちが各地に駆り出された事もあったようです。

鎌倉時代の説話集「沙石集」でも称えられ

将軍・藤原頼経の実家である九条家では、順徳上皇の皇子を次の天皇に推挙しました。

しかし、順徳上皇は承久の乱の首謀者の一人で、また討幕軍を起こされるかもしれない危険がありました。そこで、北条泰時は、承久の乱に関与していなかった土御門上皇の皇子を強く推しました。

最終的に、泰時の意見が通り後嵯峨天皇として即位しています。

この頃から泰時は体調を崩しており、寿命を意識していたようです。後嵯峨天皇が即位してから三ヶ月後に出家。観阿と名乗ると、その翌月に亡くなっています。

享年60でした。

北条泰時は鎌倉幕府の執権の中でも名君と呼ばれていますが、悪評が全くなかったわけではありません。それ以上に好意的な評価のほうが多く残っているので、悪評がかき消されているようです。

やはり御成敗式目の制定によって、武士の行動基準を作ったことが大きいのでしょう。また、朝廷に媚びへつらわず、あくまで分をわきまえて行動したことも評価の理由と思われます。

鎌倉時代の説話集『沙石集』にも、泰時が公正な裁判を心がけて実行したこと、情に厚い人物であったことがうかがえる話が多く載っています。

一方で、強引な手で北条氏の権力を確立したのが父の北条義時。

もしかしたら息子の北条泰時は、父の反面教師で人の恨みを買わないように常に意識して動いていたのかもしれませんね。

ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
スポンサーリンク
記事URLをコピーしました