またしてもネタバレ注意の記事になります。北条家の人々です。
今回は家系図を交えながら簡単に。エピソードのたくさんあるような人物は改めて別記事でまとめていこうと思います。
目次
北条時政を中心とした家族関係
伊豆へ流刑となっていた源頼朝を支えた北条氏。娘の政子とのが結ばれたことで、後に執権となって鎌倉幕府をリードする一族となっていきました。

北条義時(1163〜1224年)
時政の次男。1163年生まれ。
青年期は父(時政)・姉(政子)・義兄(源頼朝)の二十一光り?でその地位を築いたイメージが強く、いまいち目立たなかった。
後々頼朝の死後、有力御家人との間で権力闘争が続いた時も積極的に動いたのは父の時政と言われており、この時も義時は父について動いていた感が強い。
が、義弟で友人でもある畠山重忠が排除の対象になった辺りから父との関係が悪化。姉と共に父失脚のために動くことになる。
- 1163年1歳北条時政の次男として誕生
- 1177年15歳姉の政子と源頼朝が結婚
頼家と実朝らが後に誕生 - 1180年18歳頼朝が挙兵
- 兄の宗時が没する
- 1181年19歳頼朝の寝所警護番になる
- 1183年21歳長男の泰時(生母は不明)が誕生
- 1185年23歳治承・寿永の乱での戦いの一つ『葦屋浦の戦い』で活躍し、平家を追い込む
- 1189年27歳鎌倉政権を安定させるために行った奥州合戦に参加
- 1190年28歳頼朝の上洛に従った
- 1192年30歳姫の前(比企朝宗の娘)と結婚
- 1199年37歳頼朝死去。十三人の合議制が発足し、義時も参加
- 1203年41歳比企氏の乱。
二代目将軍となった頼家の妻と頼朝の乳母も比企氏出身。頼朝と政子の間の次男実朝を将軍にして実権を握りたい時政との対立が激化し、発生した - 1204年42歳相模守となる
- 1205年43歳牧氏の変。父・時政を失脚させて2代目執権になる。
父母が政権を牛耳るために当時の将軍・実朝を廃して頼朝の猶子を新将軍にしようとする企てをしたため、義時と政子で阻止した。 - 1213年51歳有力御家人の和田氏の反乱、和田合戦が勃発。戦後は和田義盛に代わり侍所別当となる。政所も兼任し、北条氏の執権体制は盤石なものに。
- 1219年57歳源実朝が暗殺される
- 1221年59歳承久の乱で勝利
後鳥羽上皇が義時を打とうとして戦いが勃発した - 1224年62歳鎌倉にて急逝
北条時政(1138〜1215年)
義時の父。初代執権として鎌倉幕府の基礎を築いた人物。
大河で見せるとぼけた感じ(時たま頼りになるところも見えるが)とは裏腹に、謀略家として有名な人物。
平氏全盛期の時点で源氏と平氏を両天秤にかけていたという見方があるだけでなく、守護地頭の設置権を朝廷に認めさせた功績から交渉力にも長けていたとも言われている。
北条宗時(?〜1180年)
時政の嫡男とされている人物で若くして亡くなっている謎の多い人物。宗時の『宗』の文字から元服では時政の後妻牧の方(大河だと「りく」)の親族・牧宗親ではないかと考えられている。
北条政子(1157〜1225年)
やきもち焼きの時政の長女。母は義時と違う説で家系図を書いていますが、同母説もあります。頼朝の妻で20歳を過ぎてから結婚したと言われている。後に尼将軍とまで言われるほど幕政に影響を与えた。
息子の頼家・実朝らが将軍となった後に後見役につくも、頼家は父の時政に幽閉されて最後は誅殺。次男の実朝も孫の公暁に暗殺された。プライベートでは非情な形で息子たちに先立たれている。
後鳥羽上皇に義時を追討する宣旨を出された際には、政子が演説によって御家人たちを発奮させ承久の乱を無事に平定させることとなる。
北条時房(1175〜1240年)
義時の12歳年下の弟。後述する義時の息子・泰時を支えた(なお、泰時とは8歳しか変わらない)。
直系の源氏がいなくなったため、後鳥羽上皇の子を将軍に迎える折衝を担当し、後に初代六波羅探題として朝廷を監視する役目を負う。また、執権を支える初代連署となった。
伊東祐親(?〜1182年)
頼朝の監視役を務めた伊豆の豪族。娘が時政に嫁いで義時らを産んでいるので彼らの祖父にあたる。別の娘・八重が頼朝と結ばれて子ができたため、その子(孫にあたる)を殺害。頼朝のことも殺害しようとしたため、以後、頼朝は北条領に移った。
この後も伊東祐親は平氏方として戦いに身を投じていくことになる。
牧の方(不詳)
時政のかなり年下の後妻。平清盛の継母・池禅尼の兄弟とも言われている牧宗親の娘か妹。
時政との間に生まれた政範に後を託すつもりが若くして亡くなり、娘婿の平賀朝雅に期待をかけるようになった。時政と共に源実朝から平賀朝雅に将軍位をすげ替える計画を立てた『牧氏の変』で北条義時と政子らに失脚させられる。
阿波局(不詳)
時政の娘。義時や政子の妹で陰ながら2人を支えていたと言う。夫は阿野全成で義経とは同母兄弟、頼朝とは異母兄弟にあたる人物。頼朝と政子の次男・実朝の乳母でもある。
13人の合議制が始まった直後に合議制に参加した有力御家人の1人・梶原景時の弾劾のきっかけを作った他、牧氏の変の前には父・時政と牧の方の動向に注意するよう政子に伝えて実朝の保護を促していた。
義時を中心とした家族関係
北条義時と妻らの間には7男6女の子供達が生まれています。

北条泰時
文武両道の義時の長男。生母はよく分かっていないが、阿波局(叔母とは別の人物)とも言われている。和田合戦や承久の乱で活躍し、父・義時の死によって3代目の執権となった。
3歳で平氏が滅亡していて源平合戦の時代を知らない新人類?出身のリーダー。御成敗式目で有名。
北条朝時
女性問題で失脚した義時の困った次男だったが、戦で大活躍。兄と同じく和田合戦や承久の乱に参加して汚名返上となった。承久の乱では北陸軍の総大将を務め、後に執権や連署を助ける評定衆として幕政に参加していく。