
娘婿の畠山重忠を露骨に粛清した北条時政は、次第に多くの御家人達だけではなく、息子・義時の反感も買う事になりました。
そうした状況の中、時政によるの三代目鎌倉殿・実朝の計画が義時の耳に入ってくると、さすがの義時・政子姉弟がブチギレて父・時政を鎌倉を追放しました。
比企氏を排除して実質的に鎌倉幕府の実権を握っていた北条時政でしたが、息子・義時の手により、鎌倉から追放され伊豆へ流刑と言う結果に終わりました。
こうして、北条義時が、3代目鎌倉殿・実朝の後見人として政所別当に就任し、実質的な権力者となりました。
北条義時の粛清は牧の方の縁者
権力の座に就いた義時にも、邪魔な存在はいました。
それが、牧の方の娘婿である宇都宮頼綱でした。
やがて義時も、頼綱を謀反の疑いがあるとして討伐命令を出しました。この辺りの手口は、時政の時と一緒です。しかし、この討伐を命じた同じ国の豪族・小山朝政が『頼綱が親戚だから嫌だ!』と拒否したので未遂に終わりました。
その代わり、宇都宮頼綱が出家して恭順を誓う事で一件落着となりました。
こうして、3代目・実朝を頂点として、北条義時が実権を握る体制が整い鎌倉は数年ではあるが平穏な日々が続くのでした。
こうして13人で始まった合議制は、粛清と死没を経て半分になってしまいました。
ここまでの合議制メンバーが以下となります。

和田義盛と北条義時の対立
これまで、有力御家人が次々と粛清・逝去し、残りのメンバーは、大江広元や三善康信のような京出身の文官たちで、唯一、北条義時に抗えるものがいるとしたら、初代侍所別当・和田義盛でした。
北条義時が鎌倉幕府の権力を掌握しようとするならば、この和田義盛の存在が非常に邪魔であり、北条氏に権力を集中する事を懸念する御家人たちにとっては和田義盛と言うわけなのです。
この絶妙なバランスを保ちながら、北条時政失脚から約8年の月日が流れていました。
均衡が崩れたのが、1213年の事でした。
信濃国の泉親衡が頼家の維持を将軍に擁立すると言う謀反を企てた事件が発生。
事前に計画が発覚し、謀反に加担した330名以上が捕縛されると言う大捕り物となりました。その中に、和田義盛の子・義直と義重、甥の胤長が含まれていました。
これに驚いたのが和田義盛で、すぐさま実朝に直訴して赦免をお願いします。その結果、二人の子供は許されましたが、甥の胤長は許されませんでした。
翌日、義盛は一族98名を引き連れ直訴に伺うが、胤長の赦免にはなりませんでした。
それどころか、北条義時は、縛り上げた胤長を見せしめにするように和田一門の前で連れまわすと言う挑発行為を行いました。
結果、和田胤長は、陸奥国へ流罪となり拝領していた領地はいったん和田義盛に戻されましたが、一転して北条義時に与えられることになります。
こうした重ね重ねの挑発行為に、和田義盛も怒りを覚え両者の対決は避けるものが出来ないところまで来てしまいました。
和田合戦の始まり

なんとか両家の衝突を避けようと、将軍の使者が和田邸を訪ね謀反の有無を尋ねたうえで自重を促しますが、焼け石に水で和田義盛は合戦の準備を着々と進めていました。
合戦の準備中に三浦義村に一緒に戦う旨を約束し【起請文】まで書かせました。
三浦義村と和田義盛とは、従弟関係であっての事でしたが、義時もまた義村と母方の従弟と言う関係でもあったのです。その不安からの起請文を書かせたのでしょう。
そして、和田義盛の不安は見事的中し、三浦義村は早々に和田を見限り北条義時に和田のたくらみを告げたのでした。
5月2日の午後4時頃、後に引けなくなった和田義盛はついに挙兵をします。
150騎程の兵を集め、北条義時邸と大江広元邸を襲いました。その勢いで、実朝の居る御所に向かい、身柄を確保しようとしますがそれは果たせませんでした。
和田方の三男・朝比奈義秀が活躍しますが、幕府側の軍勢に押されその日の夜に由比ガ浜まで後退しました。
翌日も戦いが続き、和田軍は攻勢を強め若宮大路を攻めあがりましたがここまで、5月3日の夕方18時に和田義盛は討たれ、鎌倉の市街地を戦場にした和田合戦は終了しました。
三男・朝比奈義秀は、安房国に落ち延びたそうです。
結局13人でのこったのが北条義時以外ほとんど文官で、大江広元、三善康信、八田知家、足立遠元、二階堂行政となりました。
- 大江広元…鎌倉幕府ナンバー2としてその職務に就く。
- 三善康信…初代問注所執事として職務を全うし承久の乱後に没。
- 足立遠元…1207年以降の記述が無いが長生きしたとも言われてる。
- 二階堂行政…鎌倉幕府を支え嫡男・行光も政所執事として貢献した。
- 八田知家…詳しくはわからないが、忠実に職務をこなしていたとしている。
北条義時がついに覇権を…
2日の及ぶ和田合戦を制した義時は、これまで和田義盛が担っていた侍所別当に就きました。こうして、政所別当と侍所別当を兼務し、事実上の軍事と政策のトップになり、将軍を補佐する【執権】と言う地位が確立されました。
この時、義時は51歳で姉・政子と共に22歳の源実朝を支えていく体制がようやく完成した瞬間でもありました。
よもや、鎌倉幕府内では北条義時の権力を脅かすものはいませんでした。
その後しばらくは、幕府の支配体制を揺るがす事件は起きていません。
しかし、この日本にはまだ巨大な権力が北条義時の前にありました…
それは、後鳥羽上皇率いる朝廷です。
とは言え、この時点では朝廷も鎌倉幕府に敵対する動きを見せておらず、義時自身も朝廷とは対立せずにこのまま行けるだろうと思っていたのではないのでしょうか?
ところがその目論見は、源実朝が暗殺される事件を境に崩れ去ることになります。
朝廷での権力者、後鳥羽上皇が天皇の親政復活を虎視眈々と狙っていました。
鎌倉幕府の最大の敵として、北条義時による最後の権力闘争である【承久の乱】がすぐそこまで迫ってきているのでした。
この戦いがなぜ起き、北条義時はどのようにして戦ったのかは、こちらの記事に書いていますので参考にしてみてください。