鶴岡八幡宮での源実朝の暗殺事件について考える
源頼家が失脚し、わずか12歳で3代目鎌倉幕府の将軍となった源実朝は、立派な若き将軍として成長していました。就任当初は北条氏の傀儡に過ぎなかった幼い実朝でしたが、徐々に自分の意見を持つようになります。
しかし、28歳と言う若き年齢で突然凶刃に倒れると、三代将軍・源実朝暗殺により鎌倉幕府に再び暗雲が立ち込める事になったのです。
ここでは源実朝の暗殺事件を探っていこうと思います。
成長を遂げた源実朝
年齢を重ねると共に源実朝は自分の意見を持つようになります。母・政子らが進めていた武士の娘との結婚を嫌がり、後鳥羽上皇の姻戚にあたる貴族の娘を妻にしていました。
その影響か和歌や蹴鞠などの京文化にハマっていた実朝は1209年に従三位になると、裁判を直裁する将軍として積極的に政治に関与するようになります。唯一の懸念材料は後継ぎがいない事でしたが、これは後鳥羽上皇の皇子を後継ぎにするという事で話がまとまっていたようです。
実朝の実母も乳母も北条家の人間で北条義時にとってはこれまでの将軍(頼家)よりは扱いやすい人物だったと考えられます。その一方で、後鳥羽上皇も京文化を理解し、自身に好意を寄せている実朝は憎らしい存在ではありませんでした。
ですが、実朝が自分の意見を持ち始めて政治家としての片りんを見せ始めたことで、順風満帆に思えた実朝の人生を悲劇が襲います。
源実朝の暗殺
1219年1月27日、実朝一行は右大臣就任拝賀の式典の為に鶴岡八幡宮を訪れていました。昼間の晴天が嘘のように雪が積もる寒い夜だったと言います。
式典が終わり、鶴岡八幡宮の長い石段を下りた時に、一人の僧が突然襲い掛かり実朝に一太刀浴びせると、すかさず首を切り落としたのです。こうして、アッサリと三代目鎌倉殿・実朝は命を奪われてしまったのです。この時、近侍していた源仲章も一緒に命を落としていました。
暗殺劇の犯人は2代目鎌倉殿・頼家の子で鶴岡八幡宮の別当である【公暁】でした。
殺害の動機は「実朝を親の仇」と思っての犯行だったと言います。しかし、これには北条義時の黒幕説、上皇黒幕説に加え、実朝ではなく本当は北条義時を狙った犯行だとも考えられています。
その真相は現在も明確にはわかっていませんが、犯人の公暁もまたその日に討ち取られており、事件の真相は闇の中となりました。
公暁が実朝を暗殺する背景
1204年7月に公暁が5歳の時、父である二代目鎌倉殿・源頼家を亡くしました。さらに父だけではなく、兄の一幡や母方の比企一族も滅亡しました。
わずか5歳にして、身内を無くした公暁は鶴岡八幡宮別当に弟子入りし出家しました。その後、18歳にして八幡宮の四代目の別当に就任しました。
ところが、別当に就任直後に公暁は、「宿願※である」と言い、一千日の参篭※に入ってしまいます。一切姿を出さなくなった公暁はひたすら祈り続け、出家してたのにもかかわらず、髪を伸ばし続けていたと言います。
※宿願とは…神社や仏堂などに昼夜問わず引きこもり祈願すること
※参篭とは…かねてからの願望のことをいいます。
その対応に「公暁は父と兄の仇として実朝を呪詛し殺したのち還俗して将軍になろうとしているのではないか?」と噂になりました。
そんな折に公暁の庭である鶴岡八幡宮にて、実朝の右大臣拝賀の儀式が行われることになったのです。
源実朝暗殺の謎
この実朝暗殺事件は、源頼朝の死と同じく鎌倉時代の謎として研究されてきました。
事実としてわかっているのは、
- 1219年1月27日の夜の暗殺された
- 場所は鶴岡八幡宮のどこか
- 犯人は公暁
実朝の暗殺に関して、上記の事実以外は多くの謎に包まれています。
まずここで疑問に思うのが『本当に一人で犯行を行ったのか?』という部分。
源実朝たちが武装していなかったとしても、わずかの時間で実朝と近臣の仲章を殺害するのは公暁一人で実行するのは難しいと考えられます。当然、当時も共犯者がいたと考えられており、事件後に八幡宮の神宮寺の僧が数人関与を疑われ取り調べを受けますが、嫌疑は晴れたのでした。
結局のところ、単独犯か複数犯かは謎のまま現代に至っています。
また、犯行動機も「父の仇」とされていますが、公暁の父・源頼家を実朝が殺したわけではありません。
頼家は北条氏と比企氏の権力争いの末に最終的に北条氏の手の者によって暗殺されたとされています。公暁の犯行動機が「父の仇」と言うのなら実朝を排除したい何者かが「頼家は実朝の命で殺された」と吹き込んだ可能性も否定できません。
そうした背景から源実朝の暗殺劇には黒幕が存在するのではないか?といくつかの説がありますので、簡単に紹介していきましょう。
北条義時黒幕説
源氏を滅ぼしたい北条義時が黒幕だという説です。
実は北条義時は実朝と共に鶴岡八幡宮に向かったとされますが、途中で体調不良を訴え、侍従の役を源仲章に代わってもらっています。
そのため、源仲章は実朝と共に殺されてしまいました。
「義時は公暁が事前に知っていたのではないか?」と言う疑念から北条義時が黒幕ではないのかと考えられています。
公暁の父・頼家が殺されたのは、実朝がまだ12歳の時でした。
先述した通り、公暁にとっての仇は実朝よりも北条氏というのが納得できる考え方です。そのため、公暁的には源実朝の首と同時に北条義時も討ちたかったのではないでしょうか?
しかし、現実には源仲章が義時と間違われて公暁に殺されてしまったというのが、事の真相なのかもしれません。
三浦義村説
鎌倉殿の13人でもラスボスは三浦義村ではないかと言われているのですが、この実朝暗殺劇も裏で義村が糸を引いていたという説があります。
幕府のナンバー2であったのにもかかわらず、鶴岡八幡宮に三浦義村は参加していません。
三浦義村の妻は公暁の乳母であったと言われ、公暁と三浦氏とは近い関係にありました。
そこで三浦義村が公暁を使って、源氏・北条氏を打倒し、権力の座を手に入れようとした可能性が否定できないのではないかと思われます。実際に、公暁が実朝を葬った後、真っ先に三浦義村に連絡をとり「私はやったぞ!これで将軍だ!」と言う内容の書面を送っています。
実際に、三浦義村も兵を準備し自邸に身を潜めていたと言われています。
ところが、蓋を開けてみれば実朝こそ葬り去りましたが、北条義時と源仲章が入れ替わっており、義時は難を逃れていました。義時を討ち損じたと知った義村は公暁を見限り「迎え位の兵をよこします」と嘘を付くと同時に、義時に「犯人は公暁です」と告げたのでした。
北条・三浦共同説
北条義時と三浦義村が結託して公暁をけしかけたとする説で、先述した義時と義村のやり取りが全て二人の計画通りだったという説です。
この頃の実朝は次第に力をつけ始め、朝廷との連携も視野に入っていたとされています。
朝廷と将軍に連携されると、すでに鎌倉で実権を握っていた北条氏の権力が小さくなるので、政権の中心にあった北条と三浦が手を取り合ったのではないかと言われています。
後鳥羽上皇説
後鳥羽上皇は、隙あらば幕府転覆を狙っており、そのトップである実朝を排除しようとしたのではないかと言う説です。
「朝廷の権力を取り戻す」という動機としては十分ですが、上皇は公武融和路線を取る実朝に好意的であったとされています。しかし、公卿の地位争いに実朝が介入した事件で二人の関係が悪化したとも。
公暁単独犯説
最後は公卿の単独犯説です。
三浦義村に「これで私も将軍だ」と言ったように、実朝の次に征夷大将軍の座を少なから狙っていたのは間違いなさそうです。
また、側近の大江広元は実朝が八幡宮に出発する際に「衣装の下に腹巻をつけてください」と意味深な発言をしていることから刺客が来ることを知ってたかもしれません。
完全に裏を取っていないにしろ事前に何らかの兆候があったという事なので、公暁の単独犯だとしても突発的な犯行ではなく、相談者がいて計画的な犯行だったと言えるでしょう。
その後の公暁と源実朝の首はどこに!?
実朝の首を抱えたまま、公暁は三浦義村の迎えを後見人の下で待っていたそうです。
しかし、義村からの迎えは一向に現れず、待ちきれなくなった公暁は直接三浦邸に向かいました。途中、追っ手に会いますが果敢に戦い何とか三浦邸に到着。中に入ろうとしたところで討ち取られてしまいます。
まさかの義村が裏切っていたと知らずに公暁はその命に幕を閉じました。
一方で、実朝の首は吾妻鑑によると所在不明となっていますが、他の情報では公暁が逃げていた山中の雪の中から発見されたという事です。なぜ、吾妻鑑にはその記載がされていないのでしょうか??
北条氏にとって何か不都合な事でもあるのかもしれませんね。