桶狭間の戦いで今川義元を討った毛利新介と服部小平太
1560年5月19日に尾張の弱小大名だった織田信長と駿河・遠江・三河を支配する大大名、今川義元が桶狭間の戦いで衝突しました。以前に取り上げた記事に詳細は書きましたが、一般的には25000以上の今川軍を5000の兵で今川義元を打ちとったのは、誰もが知っている史実だと思います。
この桶狭間の戦いで、今川義元の首をあげたのが、服部小平太と毛利新介とされています。
歴史好きなら、名前くらい聞いた事のある両名ですが、彼らのその後について知っている人は、少ないと思います。そこで今回は、服部小平太と毛利新介の生涯を描いてみたいと思います。
服部小平太と桶狭間の戦い
服部小平太=【服部忠一】の生まれは尾張で生まれたことくらいしか分かっていませんが、良家の子として奉公に出されて、信長の馬廻に取り立てられ1560年時点では18歳~20歳くらいだったされています。
馬廻りとは、身体を張って君主の盾となる役目で体が強く、武芸にも秀でていたと推測されます。
合戦の記録は桶狭間の戦いで登場しますが、1558年11月2日の織田信行の暗殺や1559年2月2日の足利義輝との謁見に同行した可能性もあります。
さて小平太は、桶狭間でどんな活躍をするのでしょうか?
桶狭間の戦いでも小平太はその武力で勇猛果敢に敵陣に斬りこんで、今川義元の陣に一番槍をつける大手柄を立てたものの、義元の反撃に合い膝を負傷します。小平太が態勢を崩すと、形成は逆転しあわや斬られそうになったところを、同僚の毛利新介に助けられます。
一番槍をつけた小平太でしたが、義元の首を上げたのは最終的に二番槍の毛利新介でした。
桶狭間の後遺症があったのかは分かりませんが、以降の目立った働きは見られませんでしたが、弟の小藤太は織田信忠に仕え各地を転戦していたようですが、これが本能寺の時に命運をわけました。
弟・小藤太は、本能寺の変で織田信忠と共に二条城で討ち死にしました。
豊臣秀吉に仕え城持ち大名に!?
本能寺の時に小平太が何をしていたかは不明ですが、小平太が記録に登場するのは、羽柴秀吉に仕替えたと記載されています。
後に、秀吉の黄母衣衆に抜擢されていることから、傷もスッカリ癒えて活躍をしていたのでしょう。そして、秀吉が天下を取ると小平太は長年の功績を認められて、従五位下采女正の位を授かりました。
1591年の小田原討伐での功績によって伊勢国一志郡に3万五千石を得て松坂城に拠点を構えて、城持ち大名となりました。
豊臣秀次失脚と服部小平太の悲劇
城持ち大名となった小平太は、秀吉の甥である秀次の補佐役に抜擢され、秀次の一字をもらい【忠次】と改名しました。※本名は服部一忠
1592年の文禄の役では、朝鮮国都表出勢衆の八番隊に所属し、浅野幸長と共に漢城(現・ソウル)に進軍し、その後も伊達政宗や加藤清正と各地を転戦しました。一年以上の朝鮮での激戦の末、日本に帰国した小平太のもとへ秀吉の男児誕生の知らせが届きます。
この拾丸(ひろいまる)後の豊臣秀頼の誕生で、それまで後継者とされていた豊臣秀次の立場が危うくなります。通説では、可愛い我が子を後継者にしたい秀吉によって、秀次はあれこれと難癖付けられ、出家させられ高野山に蟄居後に切腹にまで追い込まれます。
この時に、秀次の補佐役であった小平太も、とばっちりで所領没収をされ五大老の上杉景勝に身柄を預けられ、切腹を命じられます。
この時、1595年7月の事で享年50歳前後とされています…
小平太には、男子がおり次男の服部勝長が、後に福島正則に仕えたのち紀州徳川家に仕えたと記録に残っています。
毛利新介と桶狭間の戦い
服部小平太の次は、今川義元の首をあげた毛利新介について紹介します。
毛利新介=【毛利秀高】の生まれは尾張国と言われていますが、その出生は定かではありません。小平太と同じ、若くして信長の馬廻となっていることから、小平太と同年代と考えられています。
一説によると、信長の小姓とも言われ、容姿端麗だったとも言われています。
桶狭間の戦いでは、小平太に一歩遅れを取りましたが、追い付いてみると小平太が切られる直前の場面でした。わが身に槍を突き立てられた今川義元は、怒りで周りが見えず小平太のみを睨み据えてる状態でした。
これを千載一隅の好機と見て義元に斬りついた新介ですが、我に返った義元は新介に掴みかかり指を食いちぎる執念を見せます。
最終的には、新介が義元の首を上げるのですが、小平太ともども満身創痍で膝を切られ歩行困難に、新介は指を食いちぎられ刀を握る力が入らない、後遺症が残る激しい戦いでした。
とはいえ、織田家の存続をかけた戦いの勝利ですから、家中はいばし祝賀ムードでした。
毛利新介はその功績から、左衛門尉を与えられたので通称を新介から【新左衛門】に改め、本名も秀高から良勝に改めました。
織田信長の秘書としてサポート役に…
1567年に馬廻衆の中でも選抜された【母衣衆】が作られると、新左衛門も黒母衣衆に在籍し信長の側で仕えます。かつて共に今川義元と戦った小平太と新介ですが、この頃から出世に差が出始めますが、新介も指を食いちぎられているため、母衣衆の中でも武勇に関しては後れを取っていたようで、信長の秘書的な役割を担う事が多くなりました。
1569年の大河内城攻め、1582年の甲州討伐でも信長に付いて、身辺整理や文章管理などの秘書業務を務めました。一説によると、小姓とて夜伽も命じられていたのではと考えられています。
本能寺の変と毛利新左衛門
1582年の上洛を期に織田信忠の側近として仕える事になります。
6月2日に起きた本能寺の変では、二条城から信忠を逃がすべく小平太の弟・小藤太らと共に説得しましたが、信忠は【明智方にとらわれ生き恥を晒すよりこの場で腹を切る】と聞かないために、押し問答をしているうちに脱出の機を脱してしまいます。
かくなる上は時間を稼ぎ、信忠の最後を汚さぬようにお守りしようと言う事になり、新左衛門達は奮闘の末に討ち死にしますが、信忠が自害するまで時を稼ぐことが出来ました。
享年は40歳前後で、子供の記録がなく毛利新介の嫡流は、ここで絶えることになります。
最後に…
桶狭間の戦いの後に信長時代に出世の遅れをとり、秀吉の時代で城持ち大名となった服部小平太と織田家で順調に出世を成し遂げたが本能寺の変でその生涯を閉じた毛利新介。
出世の感じを見ると、信長は義元の首を上げた毛利新介を評価したように感じますが、これは服部小平太の一番槍があってこその勝利だと思います。対照的な人生でしたが、共に死力をつくし今川義元を討ち取った事は、彼らにとってかけがえのない出来事だったことでしょう。