日本史

満州事変とは何だったのか 柳条湖事件からはじまる日本の孤立

歴ブロ

満州事変(1931〜33年)は、1931年9月18日の柳条湖事件を契機に関東軍が満州で軍事行動を拡大し、占領へ進んだ一連の過程を指しています。のちの満州国成立や国際的な非難、日中関係の悪化にもつながるため、昭和前期の転換点として重要な出来事です。

この記事では、背景を押さえたうえで、柳条湖事件から満州国成立(1932年3月)と日本の承認日満議定書、同年9月)、日本の国際連盟脱退までを、時系列でまとめていきます。

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なぜ満州が問題になったのか/背景を探る

朝鮮をめぐる対立関係から日清戦争が発生し、清の敗北を見た列強は日清戦争の講和条約【下関条約】で日本が手に入れた遼東半島を清国に戻すよう介入(=三国干渉)した見返りや日本に払う賠償金の貸し付けの見返りとして租借地鉄道敷設権を次々とむしり取っていきます。

この時、諸事情でアジア進出に出遅れていたアメリカのジョン・ヘイが1899年と1900年に門戸開放宣言を発表しました。ここで、いったん中国分割は落ち着いています。

その後の清国(中国)事情

清国内では列強への反発から義和団事件(1900~1901年)が起こり、清王朝もこれに乗って列強各国に宣戦布告します。対して列強は八カ国連合軍で鎮圧し、以後、清国はさらなる干渉と負担増を招きました。

その後、清国は近代化改革などで立て直しを図りますが、孫文ら革命勢力による辛亥革命(1911年)が起こり、翌1912年に清朝の皇帝が退位し、中華民国が成立します。なお、革命派は「外国勢力に好き勝手させない」「共和制で統一する」という目標でまとまっていました。

孫文は中華民国の臨時大総統に就任しますが、清の皇帝の退位を確実にし、北洋軍(後述)との衝突を避けて全国統一へ移行するため、袁世凱に臨時大総統職を譲りました。

ところが、袁世凱はしだいに権力を集中させて革命派との対立が深まります。政権の中心は北京に置かれ続け、孫文は対抗勢力を再編して1914年に中華革命党を結成、のちの1919年に中国国民党として改組しました。

こうした中で袁世凱が1916年に死去すると、中央の統制が弱まり、各地で軍事勢力が割拠する軍閥時代に突入します。北京政府でも直隷派・奉天派などの軍閥が政権中枢の主導権を争う状況が続きました。

れきぴよ
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清末、政府公認の地方軍が“私兵的”性格を強め、のちの軍閥割拠につながります。北洋軍もその代表例で、袁世凱の軍事基盤となり、死後に北洋系が軍閥化しました。

軍閥時代には、各勢力が軍事力を維持するため資金・武器・外交的承認を必要とし、列強側も権益確保のために特定勢力に借款や支援で接近することがありました(例:日本の西原借款、満州の奉天派への接近など)

ただし、支援関係は固定したものではなく、軍閥側も利害で相手を選び直したために利害関係は複雑化します。

満州では奉天派張作霖張学良が勢力基盤を築きました。張作霖爆殺事件(1928年)は、そうした利害の複雑化の末に起こった事件で、満州をめぐる政治状況をさらに不安定化させています。

一方、孫文の死後、後継者の蒋介石が軍閥勢力を倒そうと1926年から北伐を開始。張作霖爆殺事件は、蒋介石による北伐で華北へ進撃され北京が危うくなっている状況下、北京を放棄して満州に行こうとした局面で起こりました。

張作霖が奉天派のバックについていた日本だけでなく、米英との関係を模索し始めていた時期と重なるため、日本の関東軍(後述)の関与が疑われる事件として語られています。

※同時期、中国共産党(ソ連/コミンテルンの影響など)も台頭しますが、ここでは割愛します。

張作霖の死後、張学良は日本との決定的な衝突は避けつつ、外国勢力の介入を良しとしない蒋介石率いる国民政府に帰属を表明する一方、満州での実権を維持する体制を認めさせました。

日本の事情

同時期、日本の対外関与で満州と直結する転機になったのが日露戦争(1904~05年)です。この戦争は日本の勝利に終わり、アメリカのセオドア=ローズベルトの仲介でポーツマス条約(1905年)を締結。

このポーツマス条約で日本は南満州の権益を獲得しました。

  • 日本の韓国における優越的地位の確立
  • 遼東半部南部(旅順・大連)の租借権の獲得
  • 東清鉄道支線南部(南満州鉄道)の利権獲得
  • 南樺太の領有権獲得

一方で、莫大な戦費を回収するための賠償金は獲得できませんでした。日本は満州進出への足掛かりを得た反面、権益からの収益確保や安全確保を強く意識せざるを得ない状況になります。

れきぴよ
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日本側では、満州を朝鮮防衛と連動する安全保障上の“緩衝地帯”とみなす見方もあり、権益問題が軍事・外交と結びつきやすい状況にありました。

列強が中国で権益を競うなかで、門戸開放(機会均等)を唱え、特定国が排他的に権益を強める動きに警戒しているアメリカにとって、日本が朝鮮・満州へ関与していく事態は面白くありません。

日本では権益の維持・拡大が不可欠というのっぴきならない国内事情となりつつありましたが、国際社会のなかでは列強間の利害が交差する問題として扱われていったのでした。

満州事変とは?(1931~33年)

日露戦争後に得た権益の中核となったのが、南満州鉄道(満鉄)でした。

満州事変は、1931年9月18日の柳条湖事件をきっかけに、満鉄の警備を名目として関東軍が軍事行動を拡大し、満州の占領へ進んだ一連の過程(1931~33年)を指します。

柳条湖事件とは

柳条湖事件は、1931年9月18日夜、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近で南満州鉄道の線路が爆破された事件です。

南満州鉄道路線図イメージ
南満州鉄道路線図イメージ

爆破による線路の損傷は小さく、列車の運行は短時間で可能だったとされます。ところが、関東軍はこの爆破を中国側(張学良の東北軍)による破壊工作だと発表し、同夜から奉天周辺で軍事行動を開始します。これが満州事変の直接の発端となりました。

なお、爆破は関東軍による自作自演が有力です。

柳条湖事件がなぜ満州事変へ拡大したのか

柳条湖事件という線路爆破を契機に、関東軍の軍事行動が短期間で満州全域へ広がりました。事件の計画・初動は関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが主導したとされ、資料集の解説でも「満州全土の占領計画を立てた上で」実行したとされています。

爆破のあった翌日には、奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が奉天市長として軍政を敷いており、計画的に行なったことをうかがわせます。

ところが、この行動は統帥権を持つ昭和天皇や日本政府の事前承認を得ない形で行われたもの。第二次若槻礼次郎内閣(1931年4月~12月)が不拡大方針を発表するも、関東軍は奉天の西側に位置する錦州を爆撃し、さらに戦線を拡大。現地の動きを止めることができず、既成事実のみが積み重なっていきました。

錦州を爆撃してから二週間と少し経った頃に国際連盟理事会から満州撤兵の勧告を受けますが、1931年11月には北満州のチチハルまで到達。約5か月で満州全域を支配するに至っています。

この急拡大の背景には、以下のような点を抑えておく必要がありそうです。

  1. 日本側には南満州鉄道や付属地、関東州といった既得権益があり、現地ではその維持・安全確保を最優先にするという意識があった
  2. 中国側で統一の動きが進み、日本側の権益を奪われる可能性が不安につながった
  3. 世界恐慌後の不況で満州に活路を求める空気感が強まっていた

③の空気感も①②を後押ししたところがあったのでしょう。そのうえで、軍部を止められないシステム上の問題もあり、満州事変として急拡大していきました。

一方で日本以外の要因も見逃せません。世界恐慌によって各国が自国経済優先に傾き、国際協調が弱くなっていたことや、国際連盟の限界になりつつあったことなどから国際的に止めにくい状況に陥っていました。

1931年時点でイタリアではすでにムッソリーニ政権下にありましたし、ドイツでも1933年にヒトラー政権が成立。国際的に止めにくい環境というのは、日本以外の国にも当てはまっていたようです。

満州事変への日本政府の対応/五・一五事件~国際連盟脱退まで

満州事変が陸軍主導で行われている間、政府が何をしようとし、だれが主導していたのかをここでは見ていこうと思います。

若槻礼次郎内閣(1931年4月~12月)

先ほどもお伝えしたように、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件が起こった時の総理大臣は若槻礼次郎でした。彼が不拡大の方針を発表しても止められずに瓦解。柳条湖事件の約3か月後に総辞職しています。

若槻内閣の総辞職後、次に成立したのが犬養毅内閣でした。

犬養毅内閣(1931年12月~1932年5月)/五・一五事件

内閣成立の翌月には米国務長官が日本の満州での行動を不承認(スティムソン・ドクトリン)とする声明が発表しています。当然ながら満州事変に対する反発はアメリカだけに留まりません。

もっとも反発したのは当然ながら中国でした。対日感情の悪化により激烈な反日運動が展開されています。特に激しかったのが上海で、海軍陸戦隊を中心に日中で軍事衝突しました。これは第一次上海事変とも呼ばれています(この上海事変では同年に停戦協定が決まりました)

さらに柳条湖事件の発生直後に中華民国国民党政府が国際連盟に事件の報告・提訴し、事実関係の調査を求める要求が聞き入れられ、日本や中華民国、満州へ事実関係を調べる調査団(リットン調査団)が犬養内閣の時に派遣されています。

中国とも欧米とも直接交渉し、摩擦を最小限にしようという意図が見える気がしますね。

ところが、中央では騒動を最小限に抑えようとする一方、現地の満州では執政愛新覚羅溥儀を据えて満州国建国を宣言しました。

当然、犬養内閣はこれを認めませんでしたが、摩擦を抑えようとするほど世間からは弱腰とみられます。そんな弱腰の外交をみた海軍の一部で不満が高まっていきます。海軍は、満州国建国以前からロンドン海軍軍縮会議(1930年/浜口幸雄内閣時)で決められた戦艦の制限や上海事変で多くの犠牲を出していたためです。

結局、そうした不満を積み重ねた海軍の青年将校らが五・一五事件を起こし、犬養毅は暗殺されて内閣は瓦解しました。

斎藤実(1932年5月~1934年7月)/軍出身の内閣総理大臣の誕生

五・一五事件という暴力による政権を瓦解させる事件が起こった結果、支配者層に恐怖が広がります。議会の多数派から総理大臣が選ばれる政党政治も終わりを告げ、続いて選ばれたのは元海軍大臣を務めた斎藤実でした。

彼の代で日本政府は日満議定書に調印し、満州国を承認する動きを見せています。これはリットン調査団の報告書が発表される直前のことでした。

リットン報告書では「満州国」が自発的な民族運動によって成立したとの日本側の主張を否定しており、満州に対する中国の主権を認める旨が記載されています。同時に日本の権益の保障と少数の憲兵隊(他の部隊は撤退)を置くことも提案していました。

要は「今のような形の満州国は認められませんよ」ということです。

そうした国際社会の声を無視するかのように、関東軍は熱河作戦を開始。国際連盟を大いに刺激しました。同年同月、国際連盟から満州の主権が中国にあること、自治政府の樹立、そして日本軍撤退の勧告が42対1で可決されると、日本を代表して会議場にいた松岡洋右(1880~1946年)は退場。国際連盟脱退を通告し、国際的な孤立へ本格的に突入していったのでした。

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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