五・一五事件はなぜ起こった?犬養毅首相の暗殺とその影響
昭和時代初期頃は、三・一五事件、四・一六事件、三月事件、十月事件、二・二六事件や五・一五事件などのたくさんの事件があり非常に覚えずらいです。
でも、歴史の授業では必ず習う需要な出来事なので覚えないわけにはいけません。
そこで、数回に分けて○○事件について触れていきたいと思います。
第一回は、五・一五事件について説明していきます。
五・一五事件とは?
まずは、そもそも五・一五事件とはどんな事件だったのでしょうか?
五・一五事件とは、1932年(昭和7年)5月15日に海軍の青年将校たちが首相官邸などを襲い、犬養首相を殺害した事件の事を言います。五・一五とは、5月15日を指します。
若槻首相に代わって首相になった犬養毅は、満州事変には反対せず戦争縮小路線を行きませんでした。そのため、軍部との関係は良好だったのですが、海軍将校に殺害されてしまいます。
では、なぜ犬養毅が殺害されてたのでしょうか??
五・一五事件の背景
この時期、日本経済は世界恐慌の煽りで経済が縮小し、多くの人々が生活破綻に追い込まれていました。その中で、思想家・大川周明の主導で農民のために起こされたのが五・一五事件です。その大川思想が海軍青年将校を犬養暗殺に駆り立てのです。
経済縮小は、農村部にも多大な影響を及ぼし、農産物の価格が下落し生糸の対米輸出が特に激減し価格が暴落していました。さらに、都市部の失業者が農村部に戻ったため、さらに困窮が進みました。
地方によっては、児童や女性の身売りが行われ、東北地方では不況と凶作と津波が重なり、他の地方より悲惨な状態でした。
このように国民の生活が困窮し、正義感にかられた海軍の青年将校と陸軍士官候補生が中心となって事件が実行されました。
政府も、不況策は出していたのですが、主に銀行や大企業の救済策で庶民の対策に腰が上がらない政治への強い不満が募っていたのです。
大川周明と五・一五事件のキッカケ
大川家は代々医者の家系で、1886年に山形県で生まれました。
中学生のころ、福岡県に八幡製鉄所が建設され、第二次産業革命が始まり、重工業が発展しました。それと同時に、資本主義が発達し、資本家とそれに雇われる労働者側の経済格差が非常に大きくなっていきました。
大川は、こうしたお金儲け主義の世の中に強く反発していました。
ある日、キリスト教会に行った時、寄付を求める行動に大川は疑問を持っていました。
【人間は、お金を持つ人と持たない人に分けられていてはいけない。人間は、何より平等でなければいけない】
と考え、段々と社会主義思想に向かっていきます。
大川は、東京帝国大学に入学しました。
そこで、歴代の天皇の伝記をまとめる機会がありました。この時、大川は天皇家の史料を調べ日本の中心は天皇であるべきだと言う思いを強くしていきました。
【日本は奈良・平安の昔から明治維新までの千数百年、公家や侍が次々と天下を取り、様々な時代があった。しかしどの時代でも、政治を行うものは誰もが天皇を守ってきた。日本の歴史は、天皇一本でつながっている。こんな国は世界にほかにはないだろう。ところが今はどうか。天皇の周りや下には、腐敗し堕落した財閥や政治家たちがむらがり、彼らが日本をねじ曲げようとしてるではないか。だから腐敗した財閥や政治家を取り除いて、天皇と国民が直接結びつく国にしなければならないのだ】
と述べたそうです。
五・一五事件後の影響
この一連の事件は、支配層を恐怖に陥れました。
五・一五事件によって犬養毅は暗殺され、犬養内閣は終わりを告げ、議会で多数を取った政党勢力から総理大臣が選ばれるという政党制のしくみも、太平洋戦争の終戦まで行われませんでした。
今でこそ、政党基盤と言うのが普通に思いますが、明治~大正初めまでは当たり前ではなかったようです。この事件以降、海軍大将斎藤実を首相とする挙国一致内閣が誕生し、護憲三派内閣以来8年間続いた政党内閣はここに終わりを告げます。
事件の首謀者、青年将校たちの処遇
五・一五事件の裁判は、横須賀の軍事法廷で行われました。
判決は、だれもが死刑だと大方予想していましたが、実際の判決は最高で【禁固15年】中には数年と言う人もいました。
事件を起こした軍人らの処罰は異常なまでに軽いと言う結果でした。
犬養首相は、事件当日乱入してきた将校たちを応接室に通し、【話せばわかる】と言い話し合いに持ち込もうとしますが、【問答無用】と言って殺害されました。
まとめ
この五・一五事件は、とても重要な事件で歴史の授業でほぼ出てきますので、簡単にまとめてみました。
- いつ起きたのか? → 1932年5月15日
- 誰が? → 犬養毅首相が
- どこで → 首相官邸、銀行、警視庁、政友会本部で
- 誰によって → 海軍の青年将校
- どうした? → 殺害された