室町時代

室町幕府はいつ滅んだのが正しいのか??

一般的に日本史では、将軍・足利義輝が謀殺され、その弟である義昭を織田信長が奉じて上洛するとされ、NHK大河ドラマ麒麟がくるでも、同じ解釈で演じられていました。

しかし、信長と義昭の関係は長続きせず、お互い折り合いがつかぬまま義昭は流浪の将軍となり、京を追放されてしまいました。

これが1573年の事で一般的には室町幕府滅亡となっています。

 

 

——1573(天正元)年には、将軍権力の回復をめざして信長に敵対した義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼし(以下略)

引用 山川出版社『詳説日本史』

 

有名な山川日本史にも織田信長が義昭を追放して室町幕府を滅ぼしたと書かれています。

しかし、最近の研究では少し違った見方がなされています。

まずは、復習のために私達が認識している室町幕府の滅亡流れを少し見てから、本題に入っていく事にしましょう。

 

一般的な室町幕府滅亡の流れ

1573年4月に第二期信長包囲網で中心的人物だった武田信玄が、上洛途中で死去します。

九死に一生を得た信長は、大軍を率いて包囲網の元凶である足利義昭の元へ上り降伏を迫りました。為す術がない義昭は信長に下りますが、その直後御所から脱出し槇島城に立て籠もり抵抗をしましたが、織田信長に城を包囲され足利義昭は降伏しました。

この時、義昭は2歳となる嫡男・義尋を人質として差し出し、京を離れました。

その後、枇杷荘、河内若江城、和泉の堺、紀伊の興国寺、田辺の泊城へと放浪を重ね、最終的には毛利輝元を頼り、鞆の浦に身を置くことになります。教科書の記述にあるように、天正元年・1573年に足利義昭が京を離れた段階で【室町幕府の滅亡】とされています。

 

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私たちが考える幕府の定義は曖昧だった!?

ここで話が飛びますが、幕府と言うものについて少し考えていきたいと思います。

私が認識しているのは、1185年※に武家の棟梁である源頼朝が鎌倉の地に幕府を開き、大政奉還まで約650年の長きに渡り将軍による武家政権が続いたと私は認識しています。小学校から高校までの歴史の授業ではこれが前提で習っています。

しかし、調べてみると征夷大将軍をトップとした武家政権を【幕府】と指したのは、これまで日本になかった新しい政権を実行した事平氏政権との違いを明確にするために江戸時代後期~明治時代に取り決めたそうです。

同じ武家政権でも、平氏政権との違いとは平家はその一門の多くが朝廷の官職を得て、各国の国司に任命される、古代律令国家を継承しているかいないかの違いです。

※私の年代ですと、1192年に源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開くと習いましたが、近年では、源頼朝に守護・地頭の任命権を認めた文治の勅許が出た1185年が鎌倉幕府の成立したとも言われています。

 

そもそも幕府とは、武家政権の事を指しているのではなく官位の唐名でした。

唐名とは、律令時代に意識高い系の貴族が日本の官位を中国(唐)の官位名を付けたことに由来します。分かりやすい例としては、中納言を【黄門】と呼び、水戸黄門は水戸の中納言と言う意味になります。

 

この幕府の日本での官位名は【近衛大将】の事を指します。

日本の律令官制度では、宮中の警護などを司る官位で、左右の近衛大将が存在しました。武官の賜る官位としては最高職とされ、鎌倉幕府を開いたとされている源頼朝も任命されています。

また、足利義満や義政、織田信長、徳川家康・秀忠も任命されていることから、近衛大将を経て将軍となった者の政権を【幕府】と指してもよさそうですが、平安時代までさかのぼると藤原道長も左近衛大将になっていることから、近衛大将の政権=幕府と言う単純な話ではありません。

 

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現在、1185年が鎌倉幕府の成立と言うのが有力であることから【征夷大将軍=幕府】と言うのも少し違うような気がします。そうなると、公家から分離した武家に擁る政治体制を幕府とするのが良い気がします。

私が考えるに征夷大将軍はあくまでも政治体制を作るため権威付けみたいなもので、豊臣秀吉は関白と言う官位で独自の武家政権を作ったのではないのでしょうか?

そうなると、織田信長は安土幕府・豊臣秀吉は大阪幕府と付けても良いかもしれません。

 

室町幕府の滅亡=義昭の追放ではない

歴代朝廷の職員録である『公卿補任』では、足利義昭は征夷大将軍を辞してはいないし、剥奪もされていない。

実際に義昭が正式に将軍を辞しのは、豊臣秀吉の時代になってからの天正16年1月13日の事で、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられる「准三后」となったため、将軍職を解かれました。

 

足利義昭の兄である13代将軍・義輝は、三好長慶との争いで京都を追い出されていた時期もあります。この時も、追放=幕府滅亡とはなりませんでした。

 

では何をもって室町幕府の滅亡と解釈されるのでしょうか?


実は追放した織田信長本人も当初は、義昭と完全に手を切るつもりはなかったようです。

少なくても京を離れた直後は和睦をしようと本気で思ってたようです。

 

信長からの和睦交渉を蹴った足利義昭

義昭が京を離れた直後に信長は、和睦交渉のために羽柴秀吉を派遣しました。

飾りとは言え、将軍と敵対する事で世間から逆賊扱いされるのは信長も望んではいなかったと考えているようです。従来の信長のイメージでは考えられませんが、近年の研究で信長の人物像が見直されているそうで、型破りな革命児や魔王と言った物ではなく、先例を重んじる政治家だったとされています。


この和睦交渉の結果次第では、義昭が京にもどる可能性は十分にあり、信長もそれを望んでいました。しかし、義昭は交渉の場で【和睦の証として信長側から人質】を強く要求しました。

この時代、人質と言うのは【弱い立場】の者が【裏切らないと誓うため】に出すもので、徳川家康が幼少期に今川家に人質として預けられたのは有名な話です。信長包囲網が崩壊し信長に負け、嫡男を人質に預け、圧倒的弱い立場にあったはずの義昭が信長に対して人質を要求したのです。

これを聞いた交渉役の秀吉は激怒して和睦交渉が打ち切られ、身の置き所を失った義昭は、先に述べたような放浪の生活へと進んでゆくのでした…

 

この和睦交渉を考えると、信長はまだ、義昭将軍の権威を利用して日本を動かそうとしていたのは間違いない事から、義昭追放=幕府の滅亡とは少し違う気がします。また、義昭の息子を人質に取っており、義昭ではどうにもこうにもならなかったらその息子を擁立して将軍とする気もあったのかもしれません。

 

鞆の浦幕府と安土の幕府

実際の追放後の義昭の動きを見ると京都でなくても幕府みたいな事をしていた事が記録に残っています。

京を追放された義昭は、まだ征夷大将軍の職にあり、毛利領の鞆の浦に御所を構えました。

麒麟がくるの最終回でも、【毛利領のにいる公方様を…】と言っていましたね。

 

鞆の浦の御所には、奉公・奉行衆などの家臣達や将軍の世話する者たちが50人以上常駐しており、その家族や関係者たちを合わせると数百人規模にも及ぶ大所帯でした。そこで義昭は、毛利輝元副将軍に据えたうえで、栄典や諸免許などを授与し、毛利氏の重臣上級幕臣に相当する御供衆や大外様衆に加え、幕府機構に組み込んでいきました。

また、幕府直轄の寺院にはトップの住職を任命する事例を発行し、その見返りに援助も得ていました。現役将軍のいたこの鞆の浦では、規模は縮小したものの政治権力としての幕府は存続しており、ただ将軍が身を置いていた場所ではなかったようです。

要するに、室町の御所があった幕府は滅んだが、鞆の浦幕府がそこに存在していた事になります。

 

一方で義昭を追放した信長は独自路線を引くことになり、安土城を中心とした独自の政権を作っていきました。1573年~1582年本能寺の変までの約9年間は、事実上の足利将軍率いる幕府と織田信長率いる幕府が存在し、しのぎを削っていたと考えられます。

確かに一向一揆や本願寺との戦いや長篠の戦い・松永久秀・荒木村重の謀反などの信長に降りかかった戦いは、全て鞆幕府の足利義昭の代理戦争と解釈する事が出来ます。

 

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解釈の違いで時代の節目が変わるかもしれない

室町幕府京の室町に御所を構えた幕府と言う意味ならば、確かに義昭が京を追放された時点で滅亡したでよいのですが、将軍家・足利氏の当主が開いた政治機構ととらえるのであれば、幕府の滅亡と言うのは早計でしょう。

当時の日本では、信長が治める領地以外、得に東北や九州などでは、征夷大将軍の権威はまだまだ高かったといいます。

 

よって、私たちが習った歴史では【幕府=御所を構えた場所】での解釈ではないかと思われ、義昭追放=室町幕府の滅亡となっていると考えます。しかし、当の本人たちは室町幕府を滅亡したとかしてないなどの意識はしていないので、流れ的には1573年~1582年の9年間は、南北朝時代のように二つの政権がにらみを利かせていたと考えるのがシックリ来るかもしれません。

 

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歴ブロ
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