平安時代

藤原北家・五男の藤原道長はどうやって出世をしていったのか?

歴ブロ

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平安時代の摂関政治の代表的人物と言えば、藤原道長です。

父・藤原兼家の五男として生まれた道長は、有力な兄たちがいたためさほど目立った存在ではありませんでした。ようするに、父は摂政として権力を握っていたが、有力な兄たちがいたため、出世の見込みがない人生をおくるはずでした。

 

藤原氏による権力の掌握を見ると摂関政治がわかりやすくなる 平安時代のイメージとして思い浮かぶのは、 貴族社会で華やかな時代 国風文化の時代 合戦のない平和な時代 ...

 

しかし、歴史を見れば、一族から立て続けに3人も入内させて天皇の后にして、国風文化のパトロンとして後世の芸術に間接的ではありますが影響を与えています。

また、彼らの子孫は膨大な数になり、血筋上でも朝廷や日本にも残り続けています。皇族や源氏・平氏の次に日本を形成した人とも言えるのではないのででしょうか?

今日は、そんな出世の見込みがなかった藤原道長がどうやって出世していったのかを紹介していきましょう。

 

わかりやすい平安時代の国風文化の特徴 7世紀以降の日本では、大陸から優れた文化を積極的に取り入れてきましたが、9世紀後半からの日本と大陸間の関係が大きく変化すると、貴族社...

 

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藤原道長の出世街道への道

出世の見込みが無いとは言われてもそこは、天下の藤原家ですから、権力は握れないまでも25歳の時には正三位権大納言の地位までになっていました。

この頃までに道長は、源倫子を正妻として迎えていました。

実は、この結婚に源家自体はあまり乗り気ではなかったようでしたが、ここで渋って行き遅れるより道長に望みをかけましょうと、倫子の母が言ったとか言わなかったとか…

結果、倫子の娘たちが天皇に嫁いだおかげで道長は出世できたようなものなので、生涯道長は倫子とその母に頭が上がらなかったかもしれませんね。

兄・道隆が死去し、右大臣から左大臣へ

藤原家北家の五男として暮らしをしていた道長でしたが、29歳の時に日本の歴史を変える出来事が起きます。

長兄である、道隆が病のために関白を辞職し、その後すぐに亡くなります。関白職は、道隆の子・藤原伊周が引き継ぐかと思われましたが、若年のため、道隆の弟・道兼が関白に就任します。

しかし、道兼もすぐに病死してしまいます。

残された藤原伊周は当然、次期関白を狙いますが、道長は伊周が権力を握れば世が乱れると思い、自らが摂政となろうと考えていまいた。

こうして伊周と道長は対立していく事になります。

しかし、伊周と弟・隆家兄弟が御忍びで女性の元へ通っていた花山法皇を恋敵と勘違いして矢を射かけてしまう政治的なミスを犯してしまい、兄弟ともども左遷されてしまいます。

この事件を機に道長が藤原家を継ぐことになり、右大臣から左大臣に昇格しました。

 

藤原道長の権力掌握への道のり

左大臣に昇格し、藤原氏長者になったのにも関わらず、関白にはならず内覧と左大臣の地位にとどまり続けました。

関白と言う職には、決裁権はなくあくまでも最高決裁権を持っている天皇の後見的な役割を持った役職でした。そのため、天皇との相性でその権限が左右されるリスキーな性質を持っていました。

そこで道長は、自分の孫が天皇になるまでは太政官の事実上トップである左大臣と関白に近い権限を持つ内覧をうまく使い最高権力をふるうことにしました。

 

関白と摂政どっちが偉くてどこが違うの!? 摂政と関白と聞くと、聖徳太子が推古天皇の摂政となり活躍をした。豊臣秀吉が関白に就任したと思い浮かぶ人が多いのではないのでしょうか? ...

 

自分の孫を天皇にするために、長女・彰子をときの帝である一条天皇に入内させ、中宮に押し上げました。しばらくして二人の間に敦成親王(後一条天皇)が誕生し、道長は外戚としての立場を確立しました。

天皇は一条天皇から、三条天皇になり皇太子に敦成親王(後一条天皇)を立てました。

道長は三条天皇と叔父・甥の関係ではありましたが、成人後の連携も薄く天皇自身も親政を望んでいたため三条天皇の関白就任を断り現在の地位に居続けました。

道長は三条天皇にも次女・妍子を、四女・威子を後一条天皇に入内させ、やはり中宮にすると、威子の立后を祝う宴で例の歌が詠まれました。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

結果的に三代続けて天皇が娘婿になりました。

 

この頃の道長は現天皇の三条天皇との確執があり対立色を強めていきます。

そんな時、三条天皇が眼の病を患った事で事態が急変します。道長は、目の病のため政務に支障をきたすと三条天皇に譲位を迫りました。最初は首を縦に振らなかった三条天皇でしたが、1015年に「三条天皇の第一皇子・敦明親王を皇太子とする」条件で譲位を認めました。

晴れて自らの孫である敦成新王が【後一条天皇】として誕生。三条天皇との約束通り、皇太子として敦明親王を立てました。

しかし、三条上皇が崩御した頃に、道長はここぞとばかりに敦明親王に様々な圧力をかけていきます。この圧力により身の危険を感じた敦明親王は、皇太子の辞退を申し出ることにしました。

こうして、皇太子には、道長の望み通りの敦良親王(御朱雀天皇)が立てられることになります。

後一条天皇即位後すぐに、道長は摂政の宣下受けましたが、1017年に摂政ともに家督を息子・頼通に譲り後継体制を整えつつ、息子を後見して権勢をふるいました。

 

藤原道長は結局何をした人??

以上のように出世の見込みがなかった藤原家五男がどのようにして太政大臣まで上り詰めていったかお分かりだと思います。しかし、自分の娘を天皇に嫁がせて出世しただけでは、教科書に載るような有名人ではなかったことでしょう。

同じ手法で出世したと言えば、父である藤原兼家もそうでしたし、道長が生まれる100年前の藤原良房も同じことをしているのです。では、なで道長だけがここまで有名人となったのでしょうか?

 

歴史の教科書に載るくらいですから「天皇の権威を利用してさぞかしの良い政治を行ったのでは?」と思います。しかし、平安時代の貴族たちは世の中のために政治を行うと言う感覚自体持ち合わせていませんでした。

この時代は、【どの役職に誰をつけるか?】が権力者のお仕事でした。

〇〇をして経済を潤した…などの政治的な事をしたと言えば疑問が残ります。

厳しいことを言えば、藤原氏自体の繁栄をもたらしただけと言う事です。実際に摂関政治の崩壊後も彼らの子孫が代々摂政・関白を世襲していったのですから。

 

では、なぜ歴史の教科書に取り上げられるのか?と言うと…

有力な貴族が天皇に娘を嫁がせる過程で、天皇が自分の娘の所へ足しげく通ってもらうために色々な仕掛けをします。その一つが【女房】と言うお世話係の存在です。

一条天皇娘・彰子を嫁がせるときに、道長は優秀な女房たちを集めました。

あの源氏物語』の作者・紫式部もその一人。ほかにも、和泉式部、『栄花物語』の作者・赤染衛門などのメンバーが居ました。道長の兄・道隆の娘・定子も一条天皇に嫁いでおり、その娘の【女房】には『枕草子』の作者・清少納言が居ました。

紫式部と清少納言の二人は仕える主人がライバル関係と言う間柄…かと思いきや定子がだいぶ先に亡くなっているため、そこまでではなかったようですね。紫式部と清少納言も直接同じ職場で働いていたわけではないのでライバル関係とは言えなかったようです。

 

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平安時代は、漢字から【ひらがなとカタカナ】が生まれ、日本語に大きな影響を与えた時代でもあります。

漢字の一部から【カタカナ】が生まれ、漢字の草書体をさらに崩してできたのが【ひらがな】でした。当時、【漢文は男性が身に着ける教養】とされていることから、男性は漢字とカタカナ、女性はそれらを学ぶことが避けられたため【ひらがな】で文章を書くようになりました。

清少納言や紫式部達以外にも、世間体を考えて隠していただけで、漢文や漢字に精通していた女性は数多くいたはずです。この考え方を緩和させたのが藤原道長で、自分の娘を教育するために詩や物語の才能がある女性をかき集めました。

漢文を学ぶ女性が多数派になるような事はないですが、少なくとも和歌の技術を磨くために和歌集を詠んだり、歌作でも字を書きつけると言った習慣は定着しました。

このような環境を作ったのが道長であり、紫式部の【源氏物語】が出来上がっていくのです。女流作家たちが存在しなかったら、【ひらがな】が存在してなかったかもしれません。

間接的ではあるにせよ、この時期の日本独自の【国風文化】が花を咲くきっかけを作った功績は大きいと思います。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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