源氏物語を書いた紫式部とはどんな人物なのか??
源氏物語と言えば平安時代書かれた世界最古の長編小説です。その作者が紫式部なのは多くの人が知っていることでしょう。
日本の作品が世界最古なんて少し誇らしく思えるのは私だけでしょうか??
数日前に2024年の大河ドラマで紫式部が題材になるとyahooニュースになっていたので、今回は源氏物語の作者・紫式部について書いてみたいと思います。
謎多き女性・紫式部
源氏物語の内容は知っていても作者である紫式部はあまり知らないという人がほとんどだと思います。
実際にいつ生まれ、亡くなったのかもわかっていませんし、紫式部という名前が女房名という官職名なのは分かっていても本名は全く判明していません。
それもそのはず、紫式部はそれほど身分の高い人物ではなく、天皇の正室である藤原彰子の世話をするお役目を担った【女房】として宮廷で仕えていただけの人物です。数いる女房の中で彰子のお気に入りではあった様ですが、それでも身分の低い女房の記録が残されていることは、この時代あり得ませんでした。
どうして紫式部が有名なのかは『源氏物語』の筆者だからです。
紫式部の由来
式部とは、大学管理を行う部署で学識の高い人物が働いていた式部丞のお役所の名前から来たのではないかとされています。彼女の父・藤原為時が式部に努めておりそこから【式部】の名前が採用されたと考えられているのです。
【紫】については、紫式部の名字が『藤原』であること、源氏物語の重要人物に紫の上が登場するので「そこからきているのでは?」と言われています。藤色=紫ですからね。
父の影響が大きかった紫式部
紫式部の父・藤原為時は漢文などの学問に秀でており、花山天皇の頃は天皇に漢文を教え、読書係も務めていました。
藤原氏の中でも家柄の高い北家の出身で、エリートだった事がわかります。
しかし、986年に花山天皇は藤原兼家の陰謀により譲位させられ、学問係だった為時も一緒に失脚してしまいました。その後、約10年の無職状態が続いた藤原為時は紫式部を連れて越後国の受領となります。
当時、一流の貴族たちは平安京に住むのが当たり前だった頃、受領は中流貴族の仕事であり、越前の赴任は為時にとっては左遷してしまった事になります。
そんな中で紫式部は父から漢文を習得しました。当時の女性が漢文に堪能であることは珍しく、「女性らしくない」と言われることもしばしばあったようですが、このスキルが後の人生に大きな影響を与える事になります。
夫の死がキッカケで執筆活動をスタート
プライベートでは藤原宣孝と結婚します。父は硬派でお堅い人でしたが、対象的に夫は歌を詠み、オシャレな軟派な人でした。しかし、結婚生活は3年ほどしか続かず、1001年に藤原宣孝が他界してしまいます。
紫式部が源氏物語を書き始めたのは、夫が亡くなった後のことです。
夫の死後、沈んだ生活をしていた紫式部が出会ったのが物語でした。どんな物語だったのかは分かっていませんが、内容を友人と話している時は辛いことを忘れられたと言っていたようです。
そんな夫の愛情を確かめながら彼女は自ら物語の作成に取り掛かりました。
こうして生まれたのが『源氏物語』です。
夫の死という悲しい現実を乗り越えるために、ある種の現実逃避から生まれた作品ともいえるかもしれません。
藤原道長との出会い
作家のイメージとして一人部屋にこもり執筆活動をしていたわけではなく、友人にその内容を見せてはお話ししながら書いていたようです。それが宣伝効果になり、源氏物語のうわさは広まります。結果、時の権力者である藤原道長の耳にも入ったようです。
こうして、紫式部は藤原道長をスポンサーに執筆活動を行うようになりました。
藤原道長と出会いにより彼女の人生は大きく変わります。
道長もよほど源氏物語が気に入ったのか、周りから見て紫式部に入れ込みすぎじゃね?と言うほどだったと言います。
紫式部日記の内容が面白い!!
紫式部は執筆活動の傍らで日ごろの生活を日記に書き綴っていました。
紫式部日記と呼ばれ、今でもその内容を知ることができ様々な書籍が販売されています。藤原彰子が念願の男子を産んだ1008年~1010年の間の宮中生活を書き綴ったものです。
※ネタバレが含まれますので知りたくない人は飛ばしてください。
内容を少し紹介すると、紫式部がほかの女房と馴染めずにいた頃の悩みや彰子の妊娠に人生をかけている藤原道長の狂気が書かれています。
また、同僚の悪口や当時の生々しい話や女性としての思いなどが詰まっています。
そして、何より「清少納言は自分の知識を引け散らかしているけど、中身はてんで空っぽな女だ!!あんな上っ面な女の最後は良いわけがない!!」とディスっているのが面白かったです。
『枕草子』の筆者で同じ時代の作家同士有名だった清少納言。そんなライバル心むき出しの紫式部ですが、二人の関係はどんなものだったのでしょうか??
紫式部と清少納言
一条天皇には藤原定子と藤原彰子という2人の正妻がいました。
藤原定子には清少納言が、彰子には紫式部が女房としてついています。
この定子と彰子はライバルで、清少納言と紫式部もそうなのかというとそうでもありません。藤原定子は1000年に亡くなっており、そのタイミングで清少納言も宮中を離れています。紫式部が彰子の女房となるのは1006年なので時間差があります。
しかし、紫式部日記で清少納言を猛烈に意識していることは間違いないので、紫式部と清少納言の関係性を問われると、紫式部の方が一方的にライバル視していたと見るのが正しいかもしれません。
では、なぜ紫式部は清少納言をディスるまでライバル視していたのでしょうか??
紫式部は、日記の中で
【彰子様の性格は消極的で、その周りの女房達も上品で気風のある人たちだけど、引っ込み思案の所があるようです。そんなこともあり、後宮の男性たちから『以前は普通の会話でも気の利く女房がいたけど、最近は少ないな~』と評判になっている。】
と『彰子の周りの女房の評判が男性陣からよく思われていなかった』という旨の内容を書いていました。
男性が喜んだ定子時代を引き合いに出して主人である彰子を悪く言う世間が、プライドの高かった紫式部のは許せなかったのだと思います。日記にも実際に「女房はこうあるべき」「今の女房はもっと頑張りましょう」などと書かれており、定子時代を強く意識していたようです。
そんな定子時代の女房代表格が清少納言だったのです。
紫式部がおのずと清少納言を意識するのはそれほど不自然な事ではなかったのかもしれませんね。
そんな風に紫式部から意識されていた清少納言もまた漢文に堪能でした。
この枕草子は清少納言が宮中を離れた後も読まれ続け、確実に紫式部も読んでいるはずです。同じ境遇の女流作家として、清少納言を意識するのは必然の事だったのでしょう。
紫式部日記を読んでみると、とても人間味のある人物だという事がわかりますし、日記の愚痴を見ていると、今も昔も人の悩みは変わらないものだと知らされます。
出生などは謎多き人物ですが、紫式部日記を読むことで彼女の人柄を詳しく知ることが出来ます。そういった意味では、ほかの人物より身近に感じることが出来るかもしれませんね。
2024年の大河ドラマ【光る君へ】が始まる前に興味のある方は読んでみてください。