藤原氏による権力の掌握を見ると摂関政治がわかりやすくなる
平安時代のイメージとして思い浮かぶのは、
- 貴族社会で華やかな時代
- 国風文化の時代
- 合戦のない平和な時代
平安末期には、源平合戦などの争いが起きるのですが、一般的には上記のようなイメージを持っている人が多いのではないのでしょうか?
武家政権の時代に比べると、激しい武力衝突は多くはありませんが、平安時代にも権力をめぐる壮絶な争いはありました。この権力争いに勝ち、貴族政治の頂点にたったのが藤原氏でした。
こうして藤原氏は、摂関政治を確立させ政治の実権を握っていくのですがどのような形で権力を掌握していったのかをこの記事で紹介していきます。
藤原氏とは?
摂関政治を書く前に藤原氏とは何ぞやと言う事を確認してみます。
藤原と言う氏を最初に名乗ることが許されたのは、中臣(藤原)鎌足です。わが国が律令国家へと歩むきかっけとなった大化の改新で、中大兄皇子(天智天皇)と一緒にクーデターを起こしたあの人です。
そんな中臣鎌足の功績を評価して与えられてのが『藤原』です。この鎌足が藤原氏を中央政界に進出するキッカケを作ったのです。
藤原氏が権力を掌握する前
平安初期の段階では、桓武天皇や嵯峨天皇が強い支配力を発揮していましたので、貴族が国政に強くかかわるようなことがありませんでした。そんな状況で藤原北家※は、天皇家と強い結びつきを強めていきます。
藤原北家とは、藤原鎌足の次男である不比等の4人の息子が興した藤原四家の一つ。
そんな藤原北家の藤原冬嗣は、嵯峨天皇の信頼を手に入れ、天皇の側近(秘書的)である蔵人頭の就任を果たします。また、天皇家との姻戚関係になることにも成功しています。
この姻戚関係というのが摂関政治の肝と言えます。
藤原冬嗣の息子、藤原良房の代になると、数々の政変を起し権力掌握に打って出ます。
842年 承和の変で伴氏・橘氏排斥※
嵯峨上皇没後の皇位継承をめぐり、伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)が皇太子恒貞親王を擁立して、謀反を企てたとして双方流刑となる。
排斥(はいせき)とはおしのけ退けるという意味だそうです。
866年 応天門の変で伴氏・紀氏排斥
平安宮応天門が放火炎上した事件で処理にあたった藤原良房は、政治的に対立していた伴氏、紀氏を排斥。事件後に清和天皇は、良房を正式な摂政とします。
これにより藤原良房が人臣初の摂政となりました。
887年~888年 阿衡の紛議で橘氏排斥
宇多天皇が即位する際に、橘広相と藤原基経が対立します。広相の娘と宇多天皇との間には2人の皇子がいました。基経は、広相が起草した詔勅の文言に難癖をつけ、自分の娘を入内させることで決着した。これがきっかけで、藤原氏の権力の強さを知らしめ、天皇が事実上の飾りである事が証明された瞬間でした。
901年 昌泰の変で菅原道真を排斥
宇多天皇や醍醐天皇の信頼が厚く、右大臣まで上り詰めた菅原道真は、藤原時平の謀略により大宰府に左遷されます。
969年 安和の変‥源高明を排斥
藤原氏による排斥事件最後です。源高明の娘婿・為平親王は、冷泉天皇の皇太子の有力候補であったため、藤原氏の弟を擁立します。高明を失脚させるために、謀反の疑いありと噂を流し成功します。
上記のように、数々の排斥事件を起こして相手を陥れます。当時の権力争いは、武力衝突ではなく、謀略の限りを尽くして相手を落としいれる作戦をとっていたようですね。その甲斐あってか藤原氏は9世紀半ばころから摂政・関白の地位に就くようになり政治をリードしていきました。
摂関政治の仕組み
目まぐるしい権力争いは、外側だけではなく藤原摂関家の中でもありました。しかし、藤原道長の時代になるとそれも収束して藤原氏が全盛期を迎えます。
藤原道長は、天皇家との密接な関係を最大限に利用して、4人の娘を次々と皇后・皇太后とすることに成功します。
この時代は、妻は結婚後も父の庇護を受け、かつその子供は、母方の祖父が教養する習慣がありました。そのため、子どもが天皇になった時も育ての父として強い影響力を発揮することができたのです。
このような母方の外戚として天皇に近づいて権力を得ることを外戚政策と呼びます。
道長の子頼道も父に見習い親子で3天皇50年にも及ぶ絶対的権力を保ちました。
ここで摂政と関白について少し触れていきます。
摂政・関白は公卿会議と天皇との間で伝達の役割を担っています。
- 摂政…天皇の幼少期に政務を代行
- 関白…天皇の成人後に後見役として政務を補佐
- 公卿会議…政治の方向性を決める政策会議
仕組みとしては、公爵会議で決定した政策を天皇に伝達するのですが、その間に摂政と関白が窓口となります。
例えば、まだ幼い天皇の場合だと政策を伝達したところで判断が出来ないので、結果的に摂政が判断することになります。関白の場合でも、関白である藤原氏が天皇の外戚であったなら実質的な決定権が関白側にあったと考えられます。
天皇であっても祖父や父親から言われたら逆らえなかったと言う風習を逆手にとっての事だったのでしょう。
藤原道長が関白にならなかった理由
摂政と関白に触れましたが、実は藤原道長は【関白】にはなりませんでした。
摂政や関白は、律令制に規定のない特殊な職でした。地位が高く政策決定に関与は出来ますが、律令制の規定が具体的に伴っていなかったのです。
関白は公卿会議で決定したことを天皇に伝えるだけで、政策を決定する会議そのものには出られませんでした。
そうなると、道長は貴族の人事権をもつ左大臣でいる方が良いと考えたのです。
当時、太政大臣が空席だったため、左大臣と右大臣が実質的に政治を取り仕切るのですが、右大臣より左大臣の方が立場は上となっています。
肩書的には、関白や摂政の方が天皇に近いのですが、実質的な権力を手中に収めるのならば、左大臣や太政大臣の方が動きやすかったと考えたのです。さらに道長は、内覧と言う地位にも得ていて、天皇に奉る文章や天皇が発する文章にあらかじめ目を通す権利も得ていました。
摂関政治の後は天皇による親政が始まる…
以上のように藤原道長は、有名無実よりも無名有実の職を選んでいたのです。
道長・頼道父子による政治が50年続いたのち、徐々に摂関政治に陰りが見え始めます。
1068年に後三条天皇が即位して170年ぶりの藤原氏の父を持たない天皇が誕生します。皇太子時代から藤原北家との確執があった後三条天皇は、摂関家の勢いを奪うべく政策を行います。
詳しくはこちらの記事に書きました。↓↓
その後、藤原氏内での後継者争いも起き、幼い天皇と関白誕生したことで上皇が補佐をするようになり権力が上皇へ集中していきます。これにより、摂関政治が衰退していき院政へと移行していくのです。