イギリス史
現在のイギリスは、イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの4つの地域から構成されています。
ですが、これらの地域が最初から一つの国としてまとまっていたわけではありません。中世まではそれぞれ異なる政治的な歩みをたどり、その後、征服や同君連合、合同などを経て、現在のイギリスにつながる国家が形づくられていきました。

イギリス史では、ノルマン征服やマグナ・カルタ、宗教改革、清教徒革命、名誉革命などを通じて、王権と議会の関係が大きく変化していきます。さらに18世紀以降は産業革命を経験し、19世紀には大英帝国として世界各地へ影響力を広げました。
その一方で、国内では選挙法改正や労働問題、アイルランド問題などが続き、20世紀には二度の世界大戦を経験します。戦後は福祉国家の整備とともに帝国の解体が進み、ヨーロッパ統合との関係も大きな課題となりました。
このページでは、イングランドを中心に、スコットランド・ウェールズ・アイルランドとの関係にも触れながら、現在のイギリスがどのように形づくられてきたのか、その大きな流れを見ていきます。
| 時代 | 大まかな流れ |
|---|---|
| 古代~11世紀 | ローマ支配の後、アングロ=サクソン諸王国が成立。ヴァイキングの侵入を経て、1066年のノルマン・コンクエストでノルマン朝が始まる |
| 11~13世紀 | ノルマン朝からプランタジネット朝へ。王権が強まる一方、マグナ・カルタや議会の発達によって王権を制約する動きも進む |
| 14~15世紀 | 百年戦争でフランスと長期戦を続け、その後はバラ戦争による王位争いを経てテューダー朝が成立 |
| 16世紀 | ヘンリー8世の宗教改革によってイングランド国教会が成立。エリザベス1世の時代には海外進出も進む |
| 17世紀 | ステュアート朝のもとで王権と議会が対立。清教徒革命、王政復古、名誉革命を経て議会の地位が強まる |
| 18世紀 | 1707年の合同でグレートブリテン王国が成立。責任内閣制が発達し、海外での勢力拡大も進む |
| 18~19世紀 | 産業革命によって工業化・都市化が進み、社会構造が大きく変化。選挙法改正など政治改革も進展 |
| 19世紀 | ヴィクトリア朝のもとで大英帝国が拡大。一方、労働問題やアイルランド問題、社会改革も重要な課題となる |
| 19世紀末~1918年 | 帝国主義時代の列強外交に関わり、日英同盟などを経て第一次世界大戦へ参戦 |
| 1918~1945年 | 第一次世界大戦後は帝国のあり方が変化。世界恐慌や宥和政策を経て第二次世界大戦を戦う |
| 1945年以降 | 福祉国家の整備と帝国解体が進み、EC・EUとの関係を深める一方、21世紀にはBrexitへ至る |
古代ブリテンからノルマン征服へ(古代〜1066年)
ブリテン島には古くからケルト系の人々が暮らしていましたが、1世紀にはローマ帝国が南部を中心に支配しました。
そのローマ軍が撤退した5世紀以降、アングル人・サクソン人・ジュート人などが渡来し、各地に王国を築いていきます。これらは後に「アングロ=サクソン七王国」と呼ばれ、なかでもウェセックスがしだいに勢力を強めました。
しかし8世紀末以降はヴァイキングの侵入が本格化し、イングランド各地が大きな影響を受けます。
11世紀にはデーン人のクヌートがイングランド王となるなど北欧勢力の支配も経験しました。その後、アングロ=サクソン系の王朝が復活しますが、1066年に王位継承をめぐる争いが発生。ノルマンディー公ウィリアムがヘースティングズの戦いで勝利し、イングランドを征服しました。
このノルマン・コンクエスト(ノルマン征服)によって、イングランドの王権や貴族社会は大きく再編され、中世イングランド史の新しい段階が始まります。
皇帝クラウディウスの時代に征服が進み、ブリテン島南部を中心にローマ支配が広がりました。
ローマ支配の終焉後、アングル人・サクソン人・ジュート人などが進出し、各地に王国を築きました。
北欧からの襲撃・移住が続き、アングロ=サクソン諸王国の政治状況にも大きな影響を与えました。
デーン人のクヌートがイングランドを支配し、のちにデンマークやノルウェーも支配下に置きました。
ノルマンディー公ウィリアムがイングランド王ハロルド2世を破り、イングランド征服を決定づけました。
ウィリアムがイングランド王として即位し、ノルマン・コンクエストによる支配体制の再編が始まりました。
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ノルマン朝とプランタジネット朝(1066〜1337年ごろ)
1066年のノルマン・コンクエストによってイングランド王となったウィリアム1世は、土地を家臣へ分配しながら王を頂点とする支配体制を整えました。さらに全国的な土地調査を行い、その結果をドゥームズデイ・ブックとしてまとめています。
12世紀になると、フランスのアンジュー伯家出身のヘンリー2世が即位し、プランタジネット朝が始まりました。ヘンリー2世はイングランドだけでなくフランス西部にも広大な領地を持っており、その支配領域は後にアンジュー帝国と呼ばれるようになります。
しかし、フランス王との対立や王位継承をめぐる争いが続き、ジョン王の時代には大陸領の多くを失いました。さらに重い負担への反発から諸侯との対立が深まり、1215年にはマグナ・カルタを認めることになります。
13世紀後半には、聖職者や貴族だけでなく騎士や都市の代表も参加する議会が開かれるようになり、イングランドでは王権と議会の関係がしだいに形づくられていきました。
全国的な土地・財産調査の結果がまとめられ、王権による土地支配の把握に利用されました。
ヘンリー2世が即位。イングランドとフランス西部にまたがる広大な領域を支配しました。
ジョン王が諸侯の要求を受け入れ、王権にも一定の制約があることを示す重要な文書となりました。
貴族・聖職者に加えて騎士や都市代表も招集され、後の議会発達につながりました。
エドワード1世が各身分の代表を招集し、後のイングランド議会につながる形に整備され始めます。
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百年戦争とバラ戦争(1337〜1485年)
プランタジネット朝のイングランド王は、フランス国内にも領地を持ち、その領地についてはフランス王の封臣という立場にありました。こうした複雑な主従関係や大陸領をめぐる争いによって、両国の対立は長く続いていきます。
14世紀になると、イングランド王エドワード3世が母方の血筋を根拠にフランス王位への継承権を主張しました。こうした長年の対立も重なり、1337年から百年戦争が始まります。戦争前半はイングランド側が優勢となり、フランス国内で勢力を広げました。
しかし15世紀に入ると、ジャンヌ・ダルクの登場などをきっかけにフランス側が反攻し、イングランドはカレーを除くフランス領のほとんどを失います。
さらに、百年戦争の終結後、イングランドでは王位継承をめぐって、ランカスター家とヨーク家が争うバラ戦争が起こりました。長く続いた王位争いは、1485年のボズワースの戦いでランカスター派のヘンリー・テューダーが勝利したことで大きな転機を迎えます。
ヘンリーはヘンリー7世として即位。テューダー朝を開いたことで中世後期の王位争いは収束し、イングランドは次の時代へ進んでいきました。
エドワード3世がフランス王位への継承権を主張し、長年の英仏対立も重なって戦争が始まりました。
フランス側の反攻を象徴する出来事となり、その後イングランドは次第に劣勢となりました。
イングランドはカレーを除くフランス領のほとんどを失いました。
王位継承をめぐり、イングランド内でランカスター家とヨーク家の争いが本格化しました。
ヘンリー・テューダーがリチャード3世を破り、王位争いの大きな転機となりました。
ヘンリー・テューダーがヘンリー7世として即位し、新たな王朝を開きました。
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テューダー朝と宗教改革(1485〜1603年)
バラ戦争後のイングランドでは王権の立て直しが進み、テューダー朝のもとで国内統治が安定していきました。16世紀に入ると、宗教改革によって国内の宗教体制が大きく変わり、海外進出も本格化していきます。
ヘンリー8世は男子の後継者を得られず、王位継承に強い不安を抱えていたために王妃との婚姻を無効にしようとします。ところが、ローマ教皇との交渉はまとまらず、最終的に1534年の首長法によって国王をイングランド教会の首長と定め、ローマ教皇の権威から離れたイングランド国教会が成立しました。
その後のイングランドでは、君主によって宗教政策が大きく変化し、カトリックとプロテスタントの間で揺れ動く時期が続きます。
メアリー1世はカトリック復帰を進め、スペイン国王フェリペ2世と結婚しました。1558年に即位したエリザベス1世は国教会体制を整え、宗教問題やネーデルラント情勢、海外進出をめぐってカトリックの大国スペインとの対立を深めていきます。1588年にはスペインの無敵艦隊を退けました。
この時代にはイングランド商人や航海者の海外活動も活発になり、北アメリカへの進出や海外貿易の拡大が進みました。こうした動きは、のちのイギリスの海外進出へとつながっていきます。
ヘンリー7世の息子・ヘンリー8世が国王をイングランド教会の首長と定め、ローマ教皇の権威から離れました。
プロテスタント色の強い宗教改革が進められました。
カトリック復帰を進め、宗教政策が再び大きく変化しました。
国教会体制を整え、宗教政策の安定化を進めました。
スペインとの対立の中でイングランドが勝利し、海外進出の動きも強まっていきました。
アジア貿易への本格的な進出が始まりました。
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ステュアート朝と17世紀の革命(1603〜1689年)
1603年、エリザベス1世の死後、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し、ステュアート朝が始まりました。これによってイングランドとスコットランドは同じ君主をいただくようになりますが、両国はまだ別々の国家でした。
17世紀のイングランドでは、国王が強い王権を主張する一方、議会は課税や宗教政策などをめぐって反発を強めていきます。チャールズ1世の時代には対立が決定的となり、1640年代に清教徒革命が始まりました。
議会派を率いたクロムウェルらが国王軍を破り、1649年にはチャールズ1世が処刑され、王政は廃止されます。その後は共和政が成立しましたが、クロムウェル死後に政局が不安定となり、1660年には王政復古が行われました。
しかし、王政復古後も王権・宗教・議会をめぐる問題は続きます。1688年の名誉革命ではジェームズ2世が追放され、翌1689年には権利章典が成立。国王が議会の同意を無視して統治することが難しくなり、王権を議会と法律によって制約する形の立憲政治が大きく前進しました。
スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し、両国が同じ君主をいただく「同君連合」になりました。
議会がチャールズ1世に対し、議会の同意なしの課税などを行わないよう求めました。
国王派と議会派の対立が内戦へ発展しました。
国王が処刑され、イングランドでは王政が廃止されました。
チャールズ2世が即位し、ステュアート朝の王政が復活しました。
ジェームズ2世が追放され、ウィリアム3世とメアリー2世が王位につきました。
国王の権限を制約し、議会の権利を確認する内容が定められました。
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グレートブリテン王国と議会政治の発展(1707〜19世紀初頭)
17世紀末の名誉革命を経て、イングランドでは国王の権力を議会が制約する政治体制が定着していきました。さらに1707年、イングランド王国とスコットランド王国が合同し、グレートブリテン王国が成立。1714年にはハノーヴァー朝が始まりました。
国王が政治の実務から距離を置くようになるなか、議会の多数派を基盤とする閣僚が政治を担うようになります。特にウォルポールの時代には内閣を中心とする政治運営が進み、のちの責任内閣制につながる仕組みが発達しました。
一方で、18世紀のイギリスは重商主義のもとで海外貿易や植民地の拡大を進めます。フランスなどと通商・植民地をめぐって競争を続けるなか、七年戦争では優位に立ち、北アメリカやインドで勢力を拡大しました。ところが、18世紀後半には北アメリカ13植民地の独立を認めることになり、これらの植民地を失いました。独立した13植民地は、アメリカ合衆国を形成しています。
さらに1801年にはアイルランド王国とも合同し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立しました。
こうして18世紀のイギリスでは、国内で議会政治が発達する一方、海外では植民地・通商網を広げ、のちの大英帝国につながる基盤が形成されていきました。
イングランド王国とスコットランド王国が合同し、一つの王国となりました。
ステュアート家の血筋を持つ神聖ローマ帝国のハノーファー選帝侯でもあったジョージ1世が即位し、ハノーヴァー朝が始まりました。
ウォルポールを中心に内閣政治が発達し、のちの責任内閣制につながる仕組みが形成されていきました。
フランスとの植民地・通商競争で優位に立ち、北アメリカやインドで勢力を拡大しました。
北アメリカ13植民地が独立を宣言し、イギリスとの戦争が続きました。
パリ条約で13植民地の独立を認め、アメリカ合衆国の成立が確定しました。
アイルランド王国と合同し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立しました。
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産業革命と19世紀前半の社会
18世紀後半から、イギリスでは綿工業や製鉄業を中心に産業革命が進みました。蒸気機関の利用が広がり、生産の機械化や工場制が発達すると、都市へ人口が集まり、社会のあり方も大きく変化していきます。
その一方で、急速な工業化は長時間労働や低賃金、劣悪な都市環境などの問題も生みました。こうした変化のなかで、労働者や中産階級の政治参加を求める動きも強まっていきます。
1832年の第1回選挙法改正では、工業都市の一部に議席が与えられ、中産階級へ選挙権が広がりました。その後も政治参加の拡大を求める動きは続き、労働者を中心としたチャーティスト運動も広がっていきます。
工業化が進むと、都市で暮らす人々が増え、安い食料を求める声も強まりました。地主層を保護するため輸入穀物に高い関税をかけていた穀物法は1846年に廃止され、イギリスは自由貿易へ向かう政策をさらに進めていきます。
こうして工業化と社会改革が進むなかで、19世紀イギリスの政治・経済の枠組みが形づくられていきました。
綿工業や製鉄業を中心に機械化が進み、工場制や都市化が広がりました。
工業都市の一部に議席が与えられ、中産階級を中心に選挙権が広がりました。
労働者を中心に普通選挙など政治参加の拡大を求める運動が広がりました。
輸入穀物への高関税が廃止され、自由貿易へ向かう動きが進みました。
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ヴィクトリア朝と大英帝国(1837〜1901年ごろ)
1837年にヴィクトリア女王が即位すると、イギリスは工業力と海運力を背景に世界各地との貿易を拡大し、19世紀半ばには「世界の工場」と呼ばれるほどの経済力を持つようになりました。さらに、海軍力や金融・貿易網を背景に国際社会で大きな影響力を持ち、この時代はパクス・ブリタニカと呼ばれることもあります。
国内では選挙法改正や労働・社会政策が進み、政治参加の範囲も少しずつ広がっていきましたが、都市の貧困や労働問題は依然として大きな課題でした。中でもアイルランドでは土地所有の偏りや農村の貧困が続いており、1840年代のジャガイモ飢饉で状況がさらに悪化しました。人口減少と大量移民が進み、土地問題や自治要求も強まっていきます。
海外ではインドをはじめ各地で支配を広げ、19世紀後半には大英帝国として世界各地に広大な領土と影響力を持つようになります。1857年のインド大反乱を経て東インド会社による統治は終わり、1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝となりました。
このように、繁栄と帝国拡大が進む一方で、国内外にはさまざまな社会・政治問題も抱えていました。
ヴィクトリア朝が始まり、19世紀イギリスの繁栄と帝国拡大の時代へ入ります。
深刻な飢饉によって人口減少と大量移民が進み、アイルランド問題がいっそう深刻化しました。
東インド会社支配への大規模な反乱が起こり、翌年からインドはイギリス政府の直接統治へ移ります。
都市労働者の一部に選挙権が広がり、政治参加の範囲がさらに拡大しました。
イギリスによるインド支配が帝国統治の重要な柱となりました。
農村部の労働者にも選挙権が広がり、選挙権拡大がさらに進みました。
帝国主義時代から第一次世界大戦へ(19世紀末〜1918年)
19世紀末になると、ドイツやアメリカなどが急速に工業化し、イギリスの経済的な優位はしだいに相対的に低下していきました。列強による植民地獲得競争も激しくなり、イギリスは従来の「光栄ある孤立」から外交方針を転換していきます。
1902年には日本と日英同盟を結び、1904年には英仏協商、1907年には英露協商が成立するなど、フランス・ロシアとの関係改善も進めました。こうした外交関係の変化によって、イギリスは第一次世界大戦前にはフランス・ロシアと協調する立場を強めていきます。
1914年に第一次世界大戦が始まると、イギリスも参戦しました。戦争は長期化して総力戦となり、兵士だけでなく国内の産業や労働力、植民地・自治領の人々まで広く動員されます。
1918年、ドイツが休戦を受け入れて第一次世界大戦が終結すると、イギリスは戦勝国となりました。しかし、人的・経済的な負担は大きく、戦前と同じ優位を保つことは難しくなっていきます。さらに戦時中にはイースター蜂起などアイルランドでも独立を求める動きが強まり、戦後の連合王国のあり方にも大きな影響を与えました。
イギリスは日本と同盟を結び、「光栄ある孤立」から外交方針を転換していきます。
フランスとの植民地問題を調整し、両国の関係が改善しました。
ロシアとも協調関係を築き、英・仏・露の三国協商が成立します。
ドイツ軍のベルギー侵攻を受け、イギリスはドイツに宣戦しました。
アイルランド独立運動が大きな転機を迎えます。
ドイツが休戦を受け入れ、ヴェルサイユ条約では軍備制限や賠償などが課されました。イギリスは戦勝国となったものの、人的・経済的負担は非常に大きなものとなりました。
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└ 世界史視点から見た日露戦争(1904-1905年)の背景
└ ヨーロッパの火薬庫となったバルカン半島で起こった一連の出来事
第一次世界大戦後から第二次世界大戦へ(1918〜1945年)
第一次世界大戦後のイギリスでは、戦争による財政負担や国際競争の激化によって、かつての圧倒的な経済的優位が弱まっていきました。1920年代には失業問題が続き、1929年に始まった世界恐慌もイギリス経済に大きな影響を与えます。
また、戦時中から続いていたアイルランド独立運動も勢いを増し、1922年にはアイルランド自由国が成立しました。
※北アイルランドは連合王国に残り、現在につながる領域の枠組みが形づくられていきます。
1930年代になると、ドイツの再軍備や領土拡大に対して、イギリスはフランスとともに宥和政策を進めました。しかし1939年、ドイツがポーランドへ侵攻すると、イギリスはドイツに宣戦し、第二次世界大戦へ参戦します。
1940年にはチャーチルが首相となり、ドイツ軍による空襲に耐えながら戦争を継続しました。戦争はヨーロッパだけでなく世界各地へ広がり、イギリス本国だけでなく帝国や自治領も再び大きく動員されます。
1945年に戦争が終わると、イギリスは戦勝国となりましたが、国力の消耗は大きく、戦後には福祉国家の建設と植民地帝国の解体が進んでいくことになります。
アイルランドの大部分が自治領となり、北アイルランドは連合王国に残りました。
世界的な不況がイギリスにも広がり、失業や経済停滞が深刻化しました。
ドイツの再軍備や領土拡大に対して、イギリスはフランスとともに譲歩を重ねました。
ドイツのポーランド侵攻を受け、イギリスはドイツに宣戦しました。
ドイツ軍の空襲を受けるなか、戦争継続を主導しました。
イギリスは戦勝国となりましたが、国力は大きく消耗し、戦後の福祉国家建設や帝国解体へ向かいます。
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└ ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
└ ファシズムの台頭とは?第二次世界大戦前夜まで
└ 世界恐慌から第二次世界大戦へ
└ 第二次世界大戦の開戦から太平洋戦争への経緯
戦後イギリスから現代へ(1945年〜現在)
第二次世界大戦後のイギリスでは、戦争で疲弊した社会を立て直すため、福祉国家の建設が進みました。1945年に成立したアトリー労働党政権は、主要産業の国有化や社会保障制度の整備を進め、1948年には国民保健サービス(NHS)が発足します。
その一方で、戦後は植民地の独立が相次ぎ、かつての大英帝国はしだいに解体されていきました。イギリスは植民地との関係を英連邦(コモンウェルス)という新しい枠組みに組み替えながら、国際社会での立場を模索していきます。
1973年にはヨーロッパ共同体(EC)へ加盟しましたが、1970年代には経済停滞や物価上昇、労使対立などが大きな問題となりました。1979年に首相となったマーガレット・サッチャーは、国有企業の民営化や規制緩和を進め、戦後の経済政策を大きく転換していきます。
1993年にはECを基礎としてEUが発足し、イギリスも加盟国となりました。その後も、ヨーロッパ統合との距離をめぐる議論が続きます。2016年の国民投票ではEU離脱が多数となり、2020年にイギリスはEUから正式に離脱しました。
この一連の動きは、Britain(イギリス)とexit(退出)を組み合わせたBrexit(ブレグジット)と呼ばれています。
こうして戦後のイギリスは、福祉国家の建設、帝国の解体、経済政策の転換、ヨーロッパとの関係の見直しを経験しながら、現在の国家像を形づくってきました。
福祉国家建設や主要産業の国有化が進められました。
医療を広く保障する制度が整えられ、戦後福祉国家の象徴となります。
インドをはじめ各地で独立が進み、大英帝国はしだいに解体されていきました。
イギリスはヨーロッパ共同体に加盟し、ヨーロッパ統合に加わりました。
民営化や規制緩和などを進め、戦後の経済政策を大きく転換しました。
マーストリヒト条約の発効によってEU(ヨーロッパ連合)が発足し、イギリスも加盟国となりました。
EU離脱が多数となり、Brexitが現実の政治課題となりました。
イギリスはEUから離脱し、ヨーロッパとの関係が新たな段階に入りました。
