クロムウェルとイギリス議会政治の確立<イギリス/各国史>
以前の記事でクロムウェルを中心とした独立派が派閥争いを制し、議会をないがしろにしていたチャールズ1世を処刑した『イギリス革命(ピューリタン革命/清教徒革命)』を起こしたところまでお話ししました。
独立派は、下のような考え方を持つ派閥です。
・イングランド国教会や長老派のような全国的な組織を作らないこと
・地域ごとで信仰の自由を保障すること
・国王なしの共和政にすること
ここでは独立派がどんな政治を行ったのか?その後のイギリスはどのような政治体制に移行したのか?についてまとめていきます。
クロムウェルら革命政権が行ったこととは?
色々とありますが、
- 水平派の弾圧
- アイルランドとスコットランドの征服
- 重商主義的な通商政策の推進
あたりが有名です。簡単に解説していくことにしましょう。
水平派の弾圧
水平派は、独立派よりも更に民主主義的な考え方を持つ派閥で「男子普通選挙で庶民も政治参加できる共和政」を目指しており、下級兵士たちからの支持を集めていました。ちなみにクロムウェルはジェントリの出身です。
ヘンリー8世の側近でイングランドの宗教改革を行ったトマス・クロムウェルの甥の直系の子孫です。
王党派を抑え込むために水平派の要求を多少修正したうえで受け入れていましたが、政権を握ると水平派は弾圧されてしまいます。
そもそもアイルランドやスコットランドの反乱がキッカケのイギリス革命でいずれ両者を抑える必要があることから、軍の内部に受け入れがたい思想があってまとまらないと不味いと考えたのかもしれませんね。
アイルランドとスコットランドの征服
クロムウェルはアイルランドとスコットランドの反乱がイギリス革命の前段階で既に起こっていたため征服することを決意し、1649年「カトリック教徒が多いうえに王党派の拠点になっている」としてアイルランドに侵攻しています。
その過程でドロヘダやウェクスフォードでの虐殺や寺院の焼き討ち、非武装の団体の乗ったボートを沈めるなど凄惨な事件を起こしています。こうした悲劇の上でアイルランドはクロムウェルに征服され、事実上の植民地とされたのでした。
遠征で支払いきれない兵士たちの給与に代わって(大規模な土地没収を強行して)土地を恩賞として与えた他、その後もイギリスの安価な食糧・原材料の供給基地として扱われたためイギリス統治に対する不満が長らく残ることとなります。
続く1650年にスコットランドにもクロムウェルは侵攻し、勝利。この時、チャールズ1世の息子・チャールズ(後の2世)がスコットランドに拠点を作っています(そもそもステュアート家はスコットランド王家で、スコットランドとアイルランドでは王として認められていました)が、国王軍の敗北を見てフランスに亡命しています。
重商主義政策
弾圧・征服といった武力行使だけでなく、政権を担った以上は内政も行っていきます。その革命政権の内政で特徴的なのが重商主義政策です。
その重商主義政策の柱として制定されたのが1651年には航海条例。これは後々【航海法】となっていきます。
「イギリスとその植民地への輸入品はイギリスか原産国の船で輸送しければならない」という内容です。この条例は、中継貿易で世界各国と交易を行い経済的に覇権を握っていたオランダ排除を目的に制定されました。
※19世紀に強まった自由貿易論により1849年に航海法は廃止されています
なお、ここまであからさまな経済対策を行ったのにはヨーロッパにおける小氷期の到来と寒冷化や大航海時代以降の好景気が終わりを遂げたなどの背景が見え隠れしています。
こうして起こったのがイギリス=オランダ戦争(英蘭戦争)で、第一次では勝利したものの第二次、第三次ではほぼ敗戦のような状況でした。
なお、第二次以降はクロムウェルが亡くなった後の話になります。
人気商品が香辛料からインド産の綿織物や中国産のお茶などに移り変わったほか、経済的な覇権を握っていたオランダでは商品を作る際の人件費が高騰。そうなると商品の価格も上がってしまうことから国際競争力を失っていったようです。
加えて、資本主義経済の自由な発展を妨げていた特権商人の独占権も廃止するなどもしており、イギリスでは市民層が立場を強めていったのです。
チャールズ2世と王政復古
さて、革命政権は上記のような政策をとりましたが、国王の処刑と共和政の樹立後に軍事力を背景にしたクロムウェルの独裁政権に入っていきました。1653年には終身の護国卿となっています。
当然ながら独裁となれば過去の国王と同じですので、国民たちの不満が高まります。1658年にクロムウェルが亡くなると政権は大混乱。「結局、自分が独裁者になりたかっただけだ」「それなら、しっかりした国王の方がずっといい!」という声も出てくるようになりました。
そこで迎えられたのが、フランスに亡命していたステュアート朝のチャールズです。チャールズ2世(在位:1660-85年)として即位し、再び王政の時代へ戻ります【王政復古】。
彼の治世下は黒死病の再流行(1655年)やロンドン大火(1666年)といった災害が起こっています。
議会との対立
チャールズ2世は議会を尊重することを約束して戻りましたが、やがてチャールズ2世も議会と対立しぶつかるようになっていきます。
彼はカトリック教徒で絶対王政最盛期を築いたルイ14世の治世下にフランスへ亡命していた時期があり、強い影響を受けていました。カトリック勢力の復興を狙って信仰の自由に関する宣言を行ったのです。
これに対して議会派1673年に「官吏はプロテスタントである国教徒に限定する」という内容の審査法を制定しました。さらに追加で1679年に「不当な逮捕・投獄を禁じる」人身保護法も制定して市民の自由を保障しています。
議会の変化
専制政治をはじめたチャールズ2世に議会は対抗しようとしますが、この後、議会の方が2つの派閥に分かれることになりました。
それが国王の権威を重んじ後に保守党となるトーリ党と、議会の権利を主張し後の自由党となるホイッグ党です。
どちらもプロテスタントの国王をつけたかったようですが、チャールズ2世はポルトガル王女キャサリン(カタリナ)との間に子ができなかったため弟のジェームズをつけるかどうかの王位継承問題が生まれたのでした。
多くの愛人と庶子を持つ陽気な王様で、国民たちから愛されていました。
なお
- トーリ党:地主階級の利害を代表して国教会を擁護する傾向
- ホイッグ党:商工業者や非国教徒の立場も配慮する傾向
があったようです。
結局、1685年にチャールズ2世が亡くなって跡を継いだのは弟で、ジェームズ2世として即位しました。
ちなみにチャールズ2世は死の直前にカトリックに改宗したという話もあるそうです。
名誉革命
新たに即位したジェームズ2世もまた、カトリックを重視する姿勢を取りました。そのため、議会と対立。
最終的に議会が1688年にジェームズ2世の甥でもありオランダ総督ウィレムと、彼と結婚していたジェームズの長女で新教徒でもあるメアリを国王として招致しています。これに対して、ジェームズ2世は危機を覚えて亡命。国民の支持も失っていたため、抗戦を諦めていたのです。
※イギリスとオランダは戦争までするほど険悪な仲になっていましたが、この時期にはフランスがオランダ侵略戦争を起こし危機感を募らせていた時期です。1677年にオランダ総督ウィレムとメアリは結婚し英蘭戦争を終わらせています。
こうして1689年には議会がまとめた権利の宣言を受け入れてウィリアム3世とメアリ2世として即位することとなりました。
権利の宣言では、王よりも議会が優位であることが宣言されています。これに両王が署名し、翌年には国民たちに対して権利の章典として発表したことで、議会主権に基づく立憲王政が確立しました。
これら一連の革命は戦闘らしい戦闘がなかったことから名誉革命と呼ばれています(一方で、アイルランドなどの周辺国に対しては王位を守るための武力行使を行っています)。