イギリス国内における王位継承戦・バラ戦争の流れを追っていこう
前回の『イギリスの内戦・バラ戦争の背景にあったイザコザとは?』では百年戦争から続くイギリス内部のゴタゴタをまとめていきましたが、今回はいよいよバラ戦争本番です。
バラ戦争では、およそ30年の戦いを
- ランカスター家 vs. ヨーク家 の争い
- ヨーク家内部の争い
- ヨーク家 vs. テューダー家(ランカスター家の傍流) の争い
の3期に分けることが出来ます。
バラ戦争が終結した結果、興ったテューダー朝は絶対王政という新たな局面に入る王朝でもあるため、③については別記事でまとめる予定です。
ということで、今回は第2次内乱までの流れをまとめていきます。
※『イギリスの内戦・バラ戦争の背景にあったイザコザとは?』の記事から一週間開いているので、ランカスター家とヨーク家の家系図も載せておきます。リチャード2世で断絶したプランタジネット朝から王位を簒奪したヘンリー4世からランカスター朝が始まりました。
ランカスター家 vs. ヨーク家!一進一退の攻防【第一次内乱】
1455年、ロンドンの北方にあるセント・オールバンズでついに戦端が開かれました。百年戦争が終わった年が1453年10月なので百年戦争の約2年後の出来事です。
この戦いでランカスター派の主軸達は死亡(他の兵たちは50人程度が殺された程度で人数的な被害は少なかった)し、ヘンリー6世は精神異常をきたしたまま捕えられてロンドンに戻されています。
これを機に国政はヨーク公が握りますが、翌年にはヘンリー6世が回復し親政を開始。王位を狙っていたとは言え、まだ当時の情勢では貴族層は国王派が優位だったためリチャードが王位につくことはできませんでした。
一方で夫の回復を機に王妃マーガレットが宮廷派をまとめ上げてヨーク公と対立。一進一退の攻防を続けることになります。
※サンセット公→サマセット公の間違いです。ウォリック伯は後にキングメーカー(味方に付いた側がキングになれる)と言われるほどで薔薇戦争において超重要人物になります。
この時、ヘンリー6世の「全面衝突を避けたい」という意向から両者共に妥協しつつ多少の衝突もしつつ政権運営していきました。
その間にリチャードは自らの拠点であるアイルランド※に行って軍備を増強。また、リチャード最大の支援者であったウォリック伯のリチャード=ネヴィルもフランス領地にあるカレーの司令官を務めるようになっています。
※時は百年戦争の真っただ中。成人して親政を始めたヘンリー6世は「戦争反対」の和平派に傾き、継続派の意見を蔑ろにするように。継続派のリチャードは冷遇され、やがて干されてアイルランドに飛ばされました(1447年)。
なお、カレーは対フランスの最前線でイギリス最大の常備軍を有する地です。
勿論、マーガレットはマーガレットで色々と準備をしていたので、こんな状態でギリギリの攻防が長く続くわけもなく...
1459年に召集された評議会でとうとうマーガレットがヨーク派を弾劾。武力衝突へ発展しました。
リチャードの死
この翌年にスコットランドの支援を取り付けた国王派との戦いによりヨーク公リチャードが戦死すると息子のエドワードが逆襲して1461年にロンドン入り。貴族達に推戴されてエドワード4世として即位し、ヨーク朝が成立しています。
一方でランカスター家の3人はスコットランドへ亡命。ところが、ヘンリー6世は1465年に捕らえられてロンドン塔に幽閉されてしまいました。
スコットランドへいられなくなったマーガレットとエドワード王子は海路でフランスへ渡り、再度亡命生活を送りつつ雌伏の時を過ごすことになります。
ヨーク家の内紛【第二次内乱】
無事ヨーク朝による統治で収まるかと思いきやそうも行きませんでした。今度はヨーク家の中で内乱がはじまったのです。
ヨーク家で内乱がはじまった背景とは?
第一次内乱の時にエドワード4世を国王にまで即位させた陰の立役者リチャード=ネヴィルですが、彼は第一次内乱を経て最も影響力を持つ大貴族となっていました。
彼はカレーの司令官となった際にフランスとの関係も深めていた中で、ヨーク朝を盤石にするためフランス国王ルイ11世(在位1461-1483年)の王妃シャルロットの妹ボナとエドワード4世の結婚話を進めていきます。
ところが、エドワード4世はリチャード=ネヴィルがボナとの結婚話を進めている間にランカスター派の貴族の未亡人で身分もだいぶ違うエリザベス・ウッドヴィルと内緒で結婚してしまいました。
当然、リチャード=ネヴィルの面目は丸つぶれ。さらにエリザベスの親族を重用したことから、ますますネヴィルとエドワード4世の仲は拗れます。
そこでネヴィルが結んだのが王弟のジョージ=プランタジネットでした。
ジョージは出来るやつでしたが野心も強く、ネヴィルから次期王になる餌を撒かれていた他、外交政策でもエドワード4世と考え方の違いが生まれ始めていたようです。
この二人が結ぶと王位を脅かされると考えたエドワード4世は婚姻に大反対でしたが、裏でジョージとネヴィルの娘はこっそり結婚。
こうしてエドワード4世とリチャード=ネヴィルの仲は決定的に悪化してしまいました。
第二次内乱の結果は・・・?
とうとうネヴィルとジョージは1469年に反乱を起こすよう扇動。エドワード4世はこの鎮圧のために軍を率いて反乱を起こした地へ。
一方のネヴィルはフランスの最前線・カレーから軍勢を率いてエドワード4世の軍と衝突します。
イギリスで最も軍備が整っていた地だけにエドワード4世はネヴィルの軍に敗れ、捕らえられ幽閉されてしまいました。
ところが、ネヴィルは反逆者の烙印を押され国王なしでの政権運営は出来ず、カレーへ逃げ込むことも敵わなくなります。そこで頼ったのがフランス国王のルイ11世です。
ルイ11世はブルゴーニュ公と完全に敵対関係にあり、エドワード4世の妹を介してブルゴーニュがイギリスと同盟関係にあることを快く思っていませんでした。
そこで以前から保護していたヘンリー6世の妻マーガレットとリチャード=ネヴィルを引き合わせて
それぞれの子供を結婚させることで同盟を仲介しています。この動きにはヘンリー6世の再登板させようという意図が隠されていました。
この狙いは大成功。ランカスター家と結んだネヴィルはエドワード4世を国外追放し、ヘンリー6世を復位させています。
さすがキングメーカー...!!
ところが、その翌年に対フランスで危機感を覚えたブルゴーニュ公の援助を受けたエドワード4世が再度イギリスへ侵攻すると、ジョージの裏切りもあってウォリック伯・リチャード=ネヴィルは敗死。ヘンリー6世とエドワードも処刑されてマーガレットもロンドン塔へ幽閉されました。
ヘンリー6世の復位により王位につく野望が途絶えてしまったクラレンス公ジョージが弟のリチャード(後の3世)の説得によってヨーク派に鞍替えしていたのです。
こうしてランカスター家の王位継承者はほぼ根絶やしにした状態で再度王位についたエドワード4世は息子も生まれ、治世は安泰。そのままヨーク朝が続くかと思われたのですが…
エドワード4世のあとを継いだ人物とは?
これまでのランカスター家 vs. ヨーク家の戦いは一時収まりました。ところが、今度は兄弟間でも関係が変化してきてしまいます。
クラレンス公ジョージはリチャード(3世)と遺産相続の件で揉めるようになり、さらに以前ネヴィルについたこともあってエドワード4世からもあまり優遇されませんでした。ジョージと国王の二人の仲は不和になっていたのです。
ということで、ネヴィルの相続の大部分はリチャード(3世)が相続して大勢力を築き上げました。一方のジョージは謀反の嫌疑で処刑までされてしまいます。
そんな感じでエドワード4世の治世は進んでいったのですが、若い頃からの暴飲暴食が祟って1483年に急死。次期王となる息子のエドワード5世は僅か12歳でした。
王太子が12歳と執政能力に疑問がある時に決まって出てくるのは親戚たち。
エドワード4世は生前に末弟のリチャード(3世)に護国卿(摂政)へ任命し任せようとしていたのですが、エドワード5世の母エリザベスの親戚ウッドヴィル家が出てきたことで両者は対立するようになりました。
元々ランカスター派...しかも身分もそこまで高くない家柄ですから反対派も多い上に、エドワード5世へのウッドヴィル家の影響が大きすぎる。
そんな背景もあってリチャード(3世)自らが王位につくことを望むようになり、エドワード5世の母后方のウッドヴィル一族を粛清しています。
更にリチャードはエドワード5世を畳みかけます。
議会がエドワード5世の王位継承権が正当かどうかの疑問を投げかけたのです。「エドワード4世とエリザベス=ウッドヴィルは重婚のため結婚が無効だったのでは?」という疑念です。
死人に口なし。
元々彼らの結婚が「秘密結婚」という形を取っていたのもあって、エドワード5世の王位は剥奪。弟と共に二人はロンドン塔へ幽閉され、リチャードが国王リチャード3世として即位しています。
ただし、リチャード3世はこの即位までの間に協力者と対立して処刑するなどかなり強引な手法を取ってていたため多くの貴族から反発を喰らいました。
その反発した貴族たちの支持を受けて立ち上がったのが後のテューダー朝の創始者であるヘンリー・テューダーだったのです。