明治時代

急速な変化に対して起こった新政府への反乱とは?<明治時代>

歴ブロ

明治時代に移るにあたり、農民にもかつての武士たちにも新たな負担が増えたことで政府に対して不満を持つようになります。

そうした大きな変化を伴ったうえで、特定の藩が優遇される形の藩閥官僚らによる政治体制も不満の声が上がる一因となっていました。

当然ながら明治政府に対して反乱を起こすようになるものも出てきます。ここでは、そうした明治政府に対して起こした人々の反乱についてまとめていきます。

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農民たちによる反乱の発生

明治初期の国家財政での歳入の大部分は地租だったということで、政府の諸政策は農民の負担の上で成り立っていました。

1873(明治6)年に地租改正(租税制度改革)が行われても農民たちへの重い税は変わらないうえに、同年には

  • 徴兵制度による兵役の義務
  • 教育制度の改革で小学校設置に伴う経済負担と労働力の流出

新たな負担が負わされたことを不満に思い、一揆を起こします。

76(明治9)年には、地租改正を反対する大規模な反乱が、三重・岐阜・愛知・堺と広範囲にまたがって起こったことから翌年地租率を3%から2.5%に引き下げています

士族による反乱

戊辰戦争で新政府軍に加わって戦った士族の中にも

  • 急速すぎる近代化政策国民生活の実情から離れすぎていることに不満を持つ者
  • 財政改革士族の特権廃止などで不平を持つ者

達が出てくるようになりました。

むしろ味方したにもかかわらずかつての特権を廃止されたり、特定の藩のみを優遇するような状況が続いたりしていれば、反発するようになるのは当然です。政府への不満の機運がかなり高まっていきました。

政府内の力関係の変化

士族の反乱に関しては政権内部の動きと連動している部分もあるので、そこから解説していきましょう。

日本と李氏朝鮮の関係は1811年以降、両国の財政難を理由に行われなくなっていました。その後の李氏朝鮮は鎖国政策を取り続けていたのですが、明治維新で王政復古した日本は1868(明治元)年に

使節
使節

幕府による統治ではなく天皇がトップの国に変わりましたよ

と対馬藩の宗氏を通して使節を派遣し伝えています。

ところが、李氏朝鮮は明治政府の交渉態度に不満をいだいて国交要求を再三拒否。

なぜ李氏朝鮮は明治政府との交渉を拒否したの??

かつて江戸幕府があった頃には将軍と李氏朝鮮が対等な関係を築いていましたが、明治政府に代わり

明治政府
明治政府

日本のトップが将軍の上の天皇に変わったんだから日本の方が立場は上

という風潮が生まれていました。それは国書の中身にも表れており、「勅」や「皇」の文字が使われていたため李氏朝鮮が不満を持ったようです。

李氏朝鮮
李氏朝鮮

いやいや。
うちは明からの正当な儒教の伝統を継承している国なのに、和夷が何を言ってるんだ(=小中華思想)

どちらも互いに相手の国を下に見ていた感じでした。

Q
小中華思想とは?

朝鮮はを大中華としていましたが、1644年に明は既にに滅ぼされていました。

そこで朝鮮の儒者たちは自分たちの国を「中国の正当な儒教の伝統を継承している国・小中華」であると自認するようになります。

1650-59年に在位していた孝宗の時代には『尊明排清』の北伐論が起こるほど。以降、清を夷狄(いてき)と見做し「文化的には朝鮮の方が伝統を残し、維持している」と自負していただけでなく、近代に入ると西洋を洋夷、日本を倭夷と見做すようになっています。

加えて、当時の李氏朝鮮は大院君の下で攘夷を掲げていたこともあり、西洋化を進める日本に不信感を持っていたという理由もあったようです。

さらに、日本が1871(明治4)年に李氏朝鮮の宗主国である日清修好条規という対等な関係の条約が締結されたことで上下関係を明確にしようという動きが日本側に強まりました。こうして、ますます両国の関係は悪化。朝鮮との国交樹立が日本にとって重大な懸念材料となっていきます。

一方で日本側の内部は1871~73(明治4~6)年の間まで明治政府首脳陣らが外交のため岩倉使節団として欧米12か国に派遣されて不在、西郷隆盛板垣退助江藤新平らによる留守政府が組織される体制が整えられていたという状況でした。

この岩倉使節団の欧米派遣前に一度は朝鮮問題には手を付けないことを同意すると日朝の問題は実質上の棚上げ状態になったのですが...

あまりに停滞しすぎたため、国内で朝鮮に対して強硬路線を取ろうという征韓論が高まります。

留守政府を預かった人物として上述した西郷隆盛、板垣退助、江藤新平の他、後藤象二郎副島種臣ら参議も征韓論を唱えており、実際に西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣。国交要求が通らなければ武力行使もやむなしという方針を唱えています。

この裏には士族層による政府への不満をそらす目的もありました。

一方で外に出ていた岩倉使節団入りしていた者達は

  • 内部の状況(士族の不満)を留守政府側よりも把握していなかったこと
  • 欧米先進列強の著しい発展を見て、内治が優先と考えていたこと

から征韓論を唱える者たちと対立するようになっていきます。

こうして両者の対立は激化し、1873年には明治六年の政変という西郷ら参議たちが一斉に辞職する出来事が起こっていたのです。

民選議院設立の建白書(1874年)の提出

征韓派に与して政府を辞職した板垣退助らが民撰議院設立の建白書を提出。国会開設を要求した他、『有司専制(特定の藩閥政治家数名で政治が行われていること)』だとして政府に残っている政治家たちを攻撃しました。

実際に起こった明治政府への反乱とは?

士族反乱は一つだけではありません。佐賀の乱をはじめ、敬神党の乱秋月の乱萩の乱、そして最終的に最も大きな内乱となった西南戦争も士族反乱です。

佐賀の乱(1874年)

1874年に士族最初の反乱として1か月ほど続いたのが佐賀の乱です。

佐賀の乱(Wikipedia)より『皇国一新見聞誌 佐賀の事件』(月岡芳年画)

反乱がおこる直前の佐賀では征韓論を巡って明治六年の政変が起こった後、職を辞した元佐賀藩士らが同氏を集めて征韓党と呼ばれる組織を結成していました。

その征韓党に佐賀出身で元参議の江藤新平と副島種臣は「帰郷して指導に当たって欲しい」と誘われます。二人は重鎮たちから東京に残るよう慰留されますが、江藤は誘いを受け入れました。

元々は不平士族たちをなだめるために地元に戻った江藤でしたが、思った以上に不満が強い中で政府の強硬姿勢を見た江藤は、同じく不平士族をなだめようと地元に戻っていた島義武と共に反乱を起こすことを決意。江藤新平が征韓党の首領となって佐賀の乱を起こしたのでした。

敬神党の乱(1876年)

神風連の乱(Wikipedia)より『熊本暴動賊魁討死之図』(月岡芳年画)

熊本県で起こった神風連の乱とも呼ばれる反乱です。旧肥後藩の士族たちによって結成された敬神党が廃刀令反対を訴えて乱を起こしました。

太田黒伴男(おおたぐろ ともお)ら約170名が立ち上がりましたが、首謀者の太田黒が銃撃を受けて重傷を負い自刃。指導者を失った敬神党側は一日で鎮圧されました。

秋月の乱(1876年)

敬神党の乱に呼応し、敬神党の乱発生から3日後に福岡県秋月(現・朝倉市秋月)で起こったのが秋月の乱です。宮崎車之助ら約400名(230~240人とも)により引き起こされています。

なお、この秋月の乱を収めたのは乃木希典が率いた大日本陸軍の部隊、熊本鎮台です。

※鎮台とは…明治初期の常備陸軍のことで、熊本鎮台は1873年に置かれました。
     1888年以降は師団と改称されています。

萩の乱(1876年)

秋月の乱の翌日に起こったのが、元参議・兵部大輔前原一誠を指導者とした萩の乱です(その戦力には諸説ありますが、約200~2000名とかなり幅があります)

一か月近く続いた反乱で、乱には松下村塾の塾生や吉田松陰の親族も事件に関わっており、その影響で一度松下村塾は閉鎖されました(その後、再興しています)

西南戦争( 1877年)

西南戦争
西南戦争(Wikipedia)鹿児島暴徒出陣図 月岡芳年画より

明治時代には上記のような不平士族たちと政権を離れた元参議などの有力者たちが結びついて数々の反乱が起こりましたが、中でも最大の反乱が西郷隆盛による西南戦争でした。

西郷隆盛といえば明治維新最大の功労者の一人で、江戸無血開城にも絡んでいましたね。

詳しい内容は別記事にもあるので割愛しますが、この西南戦争は戊辰戦争以来の大きな規模の内乱となりました。

8か月近い歳月と両者合わせた兵力は10万人規模で、勝敗の行方も分からない状況でした。勝敗の行方が決定的になったのは西郷軍による熊本鎮台の攻略が失敗してから。

最終的に新政府軍の勝利に終わり、西郷ら指導者はいずれも戦士・自殺、処罰されました。この後も大久保利通暗殺事件や西南戦争の恩賞に不満を抱いた近衛兵の反乱事件・竹橋事件なども起こりましたが、いずれも関係者の検挙のみで解決しています。

こうしてようやく明治政府による全国統治が安定化していくこととなったのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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