明治時代に行われた財政改革と秩禄処分を詳しく解説!
明治維新以降、中央集権体制が強化され各種改革が断行されました。版籍奉還で藩を天皇に返上し、廃藩置県ですべての藩を廃止しする改革が行われていきます。
版籍奉還で藩主は統治していた領地を返したことで経済基盤を失いますが、その地の長の地位にそのまま収まり新政府から家禄を支給されて政治に臨みました。さらに元藩主に仕えていた士族たち(元藩士たち)にも家禄が支給されています。
その後の廃藩置県で知藩事は東京に住むことが決められますが、仕事を失った後も家禄は受け取り続けました。他の士族たちも同様です。
いきなりクビにされたのに、給料まで取られたら反乱しますからね。新政府はかなり慎重になりました。
家禄などの俸禄は国家財政の30%を占めるほどだったといいます。新政府は彼らに対する支出を何とか減らしていかなければなりませんでした。
ここでは、新政府がそんな財政の悩みをどう解決していったのかについて解説していきます。
秩禄奉還の法
政府の大きな負担になっていた華族や士族への俸禄を減らすために行った政策のことです。
ここでいう俸禄には2種類あり
- 家禄:家格に応じて支給された俸禄のこと
- 賞典禄:討幕に功績のあった公卿や大名、士族への俸禄のこと
両者を合わせて秩禄と呼んでいます。
この秩禄を減らすため、政府は「武士から農民や商人になるなら一時賜金(しきん)として禄高の5年分渡すよ」という制度を作ったり「樺太や北海道に移住して開拓するなら禄高7年分を渡すよ」という制度を作ったりしていました。
そんな中で1873年1月には徴兵制が施行されて士族階級が軍事職を独占する状況が崩れ、家禄を支給する名分がなくなります。
そうした制度が度々出ているものですから、華族や士族たちは
いつか秩禄は廃止されるかもしれない
と薄々感づいていたのでしょう。
徐々に制度が変わって士族たちも危機感を抱きはじめた頃、いよいよ秩禄奉還の法が定められます。「4~6年分の俸禄を一時支給する」というものです。うち半分の2~3年分の俸禄を現金で支払い、残り半分を公債証書手渡すという形で士族の約3割ほどが応募したと言います。
※なお、前払い金のうち半分は米で支給することとなっていました。
公債とは国や自治体が歳出の財源や不足した分の資金を得るために借り入れる債務(=借金)のこと。公債証書は「政府にお金を貸しましたよ」という証明書のようなものですね。お金を貸した利子として毎年8%分が公債証書を持つ者に渡されました。
公債は「借金」ですから当然、明治政府はお金を返さねばなりません。
この返済時期に関しては「7年間のどこかで全額支払いますよ」という明治政府の都合ありきで決められるものでしたが、思っていた以上に希望者が多く制度の維持が不可能になってしまったのでした。
一方で明治政府からお金を受け取った士族たちは自立した生活に向けて新規事業を立ち上げますが、商業に従事しても「士族の商法」と揶揄されるほどお粗末な商売を行ったため公債のほとんどは高利貸し達に吸収されることになります。
秩禄処分
前回の失敗を踏まえて明治政府はもう少し負担の少ない形で秩禄を廃止する方向に進みます。1876年の秩禄処分です。
前回は希望者に対して秩禄奉還を行わせたものでしたが、今回は強制的に廃止を決定しました。
- 秩禄は強制的に完全廃止。
- 代償として5~14年分の額面を明治政府に貸し付けたこととして、公債を発行する。
- 公債の返済期間は最大30年。
- ここで公債を証明する証書は『金禄公債証書』と呼ぶ。
- 利息として5%~10%を金禄公債証書を持つ者に支払う。
- 貸付金の金額が少なければ利息高めだけど、多い人は低めに設定。
といった感じのものでした。
返済は5年据え置き、6年目から抽選によって抽選で全額を…というもので、返済期間が30年以外は前回とそう変わらないように見えますが、低金利の公債にしたりインフレの進行で明治政府の負担は小さなものになりました。
大卒の銀行員の初任給が8円の時代にお金を40円借りたとしたら給与5か月分に利子を加えて返さないといけません。が、額面が同じまま現代に返すとなると、40円に多少利子があったところで簡単に返せてしまいます
上の例ほど極端ではないにしろ、秩禄処分では同じようなことが起こります。
当時はインフレがすごかったことから、30年も経てば借りたはずの額面の価値がかなり低くなっていたため、政府の負担がかなり減ったのでした。
明治政府にとっては良かったのですが、秩禄を打ち切られた士族たちは年々上がる生活費に苦しめられることとなったのでした。
秩禄処分の結果
秩禄処分で経済面で苦しんだこと、廃刀令や徴兵制により武士の存在意義を失ったことなどから江戸時代に支配者層だったはずの士族たちは完全に没落しました。
当然ながら怒りの矛先は明治政府に向かい、数々の士族反乱がおこりました。
佐賀の乱や秋月の乱など九州で相次ぎ、最終的には1877年西南戦争まで引き起こすこととなったのでした。