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最盛期を築いたスレイマン1世とは?【オスマン帝国】<人物伝>

歴ブロ
スレイマン1世
スレイマン1世(Wikipedia)より

初代皇帝オスマン1世から始まったオスマン帝国。国存続の危機がありながらもバヤズィト1世メフメト2世ら歴代スルタンらが版図を拡大していました。

征服王と呼ばれたメフメト2世の死後まで生き残った王子はバヤズィト、ジェムの二人のみ。メフメトが最も目を書けていた皇子は病死しています。

2人はそれぞれスルタンの後継者候補として別の地域で太守の立場につきながら様々な事を学んでいた中でメフメト2世崩御の知らせを聞きつけました。この時に最も早く駆け付けたのがバヤズィトです。

彼はバヤズィト2世として即位し、父王メフメト2世の代での急激な変化に折り合いをつけ国力を蓄えていきます。このバヤズィト2世の後を継いだセリム1世、そしてスレイマン1世の時代にオスマン帝国の領土は更なる発展を遂げたのです。

今回は、そのオスマン帝国の全盛期を築いた「壮麗王スレイマン1世について詳しくまとめていこうと思います。

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スレイマン1世って何をした人?

第10代オスマン帝国皇帝のスレイマン1世。1494年に第9代セリム1世の子として生まれ、母はクリミア・タタールのメングリ・ギライ・ハンの娘とされてきました。スルタンと正式に結婚した最後の王族出身の女性です。

最近では、本当の母親は元キリスト教徒の奴隷出身のハフサ・ハトゥンではないかと言われています。

王子時代に次期スルタンとしての経験を積むために太守となったのが、クリミア半島の都市・カッファだったことから生まれた一説のようです。

Q
クリミア・タタールとオスマン帝国の関係とは?

モンゴル帝国系統のキプチャク=ハン国から分裂した国家の一つが、クリミア半島にできたクリミア・ハン国。そこのテュルク系ムスリム住民を起源としたのがクリミア・タタール人です。

オスマン帝国は、クリミア・ハン国の内紛に介入してクリミア半島南岸を自国領土とした上に他地域を従属させました。この国のハーンの一人がメングリ・ギライ・ハンです。そもそもメングリ・ギライ・ハンがハンの座についたのはオスマン帝国の支持があった上でのことで、両者は非常に近い関係でした。

ちなみに、後々スレイマン1世の正式な皇后になったヒュッレムも、クリミア・タタール人と言われています。

父のセリム1世はマルムーク朝を滅ぼし、シリア・エジプト地域まで領地を広げて聖地メッカと第二の聖地・メディナをオスマン帝国の保護下に置いていました。続いてベオグラード(現セルビア)とエーゲ海に浮かぶロドス島攻略を目指すも病に倒れ、即位期間わずか8年で崩御しています。

ベオグラードへの侵攻は、それまでオスマン帝国へ恭順の証として払っていた貢納金を新しく即位したハンガリー王が拒んで敵対した末に起こっています。

また、もう一つのロドス島はロドス騎士団の本拠地で、アナトリア半島沿岸部に浮かぶ島。ロドス騎士団が地中海交易を行うイスラーム船団を襲い略奪をしていた他、メッカへの巡礼船を攻撃していたため侵攻したのです。

25歳で即位したスレイマン1世は、直後から父の代で達成できなかったベオグラードに攻め込み、ハンガリー進出への足掛かりを築きました(ベオグラード包囲戦)

ベオグラードはオスマン帝国からキリスト教圏の要所で毎回侵攻を止められていた場所ですが、オスマン側に寝返ったキリスト教徒からの助言を受け城壁最大の塔を爆破すると、僅かな期間で攻略。

さらに、父が狙っていたロドス島にもスレイマン1世は狙いを定めます。

過去にマルムーク朝、メフメト2世と撃退してきたヨハネ騎士団でしたが、スレイマン1世は約5ヶ月の戦闘の末に陥落させました(ロドス包囲戦)

その後も、1526年にドナウ川岸のモハーチの戦いでハンガリーへの支配領域を広げ、1529年にはハンガリーを巡りハプスブルク家率いる神聖ローマと対決したウィーン包囲が行われています。

キリスト教圏とは他にもバルバロス・ハイレッティンと呼ばれる北アフリカ一帯の海を支配した海賊を登用し、こちらもハプスブルク家、ローマ教皇、ヴェネツィア率いるキリスト教と軍とぶつかり勝利しました。これがプレヴェザの海戦です。

これ以降、オスマン帝国は地中海の制海権を握っていきました。

最終的にスレイマン1世は46年の治世下で、ヨーロッパ方面に加えて東にあるサファヴィー朝(現在のイラン・アゼルバイジャン・イラクの辺り)を警戒して東方面にも遠征を繰り返します。こうして地中海だけでなく黒海も事実上統治下におくことに成功させ、歴代のオスマン帝国でも名の知られるスルタンとなったのでした。

なお、複数の国家と対立しなければならないヨーロッパ遠征には他国の協力も欠かせません。ヨーロッパ遠征の時に同盟を結んだのはハプスブルク家に囲まれる場所に位置するフランスです。

オスマン帝国はフランスとの同盟を結ぶ際、通商特権(カピチュレーション)の恩恵を与えて政治的にも経済的にも連携することにしました。

が、このカピチュレーション。

租税免除や領事裁判権も含むものでした。領事裁判権は日本の不平等条約にも含まれていた条項で問題視されていた内容です。

同盟時には特権を与えたオスマン帝国側の国力がフランスよりだいぶ強かったため、特権を与えても意にも介さなかったのですが...

後にヨーロッパが力を持つようになると、このカピチュレーションが足を引っ張るようになっていくのでした。

立法者・スレイマン

スレイマン1世には、もう一つの異名がつけられています。それが「立法帝」や「立法者」というもの。

法典の編纂を行い帝国の制度を整備して内政を整えたことから、その名がつけられました。

曾祖父・メフメト2世以来続けられたスルタンへの権力集中の為の諸制度を、オスマン帝国の国教・イスラム教スンナ派の観点からも問題なく運用できるように体系化させています。

そもそもオスマン帝国の統治はどんなもの?

そもそも、オスマン帝国の地方は30余りの州・エヤーレトに分けられており、この州の総司令官にベイレルベイを任命、その下の行政区分・県(サンジャク)に軍司令官サンジャクベイを置く形で、完全に軍事的色彩の強い統治方法を取っていました。

また、建国時から最小の封土保有者である騎士シパーヒーに対してティマールと呼ばれる軍事封土を授与する代わりに戦時には従士を率いての出征を義務付けたティマール制によって、士気を高め支配地域を増やすことに成功しています。

※土地は国有ですが、シパーヒーは徴税権を持っていました。

なお、このティマール制を施行する場所はバルカン半島・アナトリア半島・シリアの直轄領に留まっており、それ以外の納税だけを義務付けられた間接統治領とは分けられていました。

そして特徴的なのがイェニチェリの存在です。

イェニチェリとは元キリスト教徒の捕虜の中から選抜された者が改宗と訓練を経て、忠誠心の篤い少数精鋭の皇帝直属となった歩兵集団のことを指しています。

また、各県にはカーディーと呼ばれるイスラム法官が置かれ、法による秩序の維持と地方行政の維持が図られていました。

スレイマン1世の統治下での変化とは?

上記のような統治がなされていたオスマン帝国。スレイマン1世は、その統治法令集を信頼できるウラマー(イスラム諸学を修めた知識人)たちの元で編纂させ、官職者などに関する様々なルールや軍人の義務規定など基本的なルールを新たに規定させました。

また、スルタンが定める法【カーヌーン】がイスラム法のもとにあることを明文化しています。

こうした一連の整備を経て、軍事・行政・宗教の均衡のとれた聖俗一体の専制君主制を築き上げたのでした。

その一方で、スルタンの直属兵イェニチェリには変化が見られ始めます。スレイマン1世の治世下では軍事技術の革新で各国、火器を装備した常備歩兵が重要視されるようになったことで拡充の方向に向かっていたのです。

こうして軍事組織が最も円滑に機能し、他国を圧倒し時代を築き上げていたように見えていたのですが、イェニチェリの急速な拡大の裏でティマール制が崩れ始め、バランスが崩れていきました。

後々軍事的な衰退へ進むきっかけになっていたと言われ、スレイマン1世の治世後半には地方勢力の没落と反発が見られ始めます。

ちょうどティマール制が崩れ始めていた頃のオスマン帝国では、交易の中心であるイスタンブルを擁して人の往来が増加していました。文化や芸術、学問、作法などの宮廷文化が発達しただけでなく、庶民文化も活発となっています。

広場では盛大な祝祭が行われ、そこでは、仮面舞踏、仮装行列、山車などの古くからありそうな賑わいだけでなく、ブランコや観覧車まであったそうです。

ティマール制の崩壊により没落しはじめた地方のシパーヒーたちにとって中央の華やかさは目に毒になったかもしれません。彼らの反発は想像できてしまいます…

というわけで、スレイマン1世の時代は非常に華やかな黄金時代が築かれた一方で、矛盾が生まれ始めた時代でもありました。

この後は統治能力にかけるスルタンが続いたり、ヨーロッパで大航海時代が始まりアメリカ大陸からの大量の銀流入でインフレが起きたりと内部が混乱し始めることになります。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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