ヨーロッパ

元代に伝わった宗教と各ハン国のその後【各国史/13世紀~16世紀】

歴ブロ

モンゴル帝国の出現した13~14世紀のユーラシア大陸はタタールの平和(=パクス・タタリカ)とも呼ばれる政治的秩序がもたらされ、平和で安定的な時代を築いていました。

14世紀初めに起こったハイドゥの乱で交通が妨げられたこともありますが、基本的には東西交通や貿易が盛んな時期となっています。

東西の文化が交じり合ったり違う文化が導入されたり...と、これまでとは少し違った文化が出来上がっていきました。もちろん、モンゴル帝国から派生した各ハン国でも各地域でその文化と同化し独自性を強めていくこととなります。

今回はモンゴル帝国に入ってきた宗教や各ハン国のその後について簡単にまとめていきます。

 

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元に伝わってきた宗教には何があったの?

非常に広大な範囲にまたがる帝国でしたから、いわゆる世界宗教と呼ばれる仏教、キリスト教、イスラム教はしっかりと元の中に入っていました。

特にフビライなど歴代のハーンたちはチベット仏教を保護して完全に定着。現在でもチベット・内モンゴル、ネパールなどに残り続けています。

が、モンゴル帝国は他民族で文化も宗教も全く異なる場所を統治していました。キツイ締め付けでは成り立ちません。仏教を絶対視せずに宮廷内にもシャーマン・キリスト教徒・ムスリムと宗教関係なく重要な役割を持たせるほど寛容な宗教政策をとりました。

 

モンゴルとキリスト教

王室はチベット仏教を信仰するようになりましたが、そもそも初代のチンギス=ハンがモンゴル高原を統一した時の国民の半分以上はキリスト教のネストリウス派だったとも言われています。

ネストリウス派はかつてローマで度々起こっていた宗派を巡る論争の結果、異端とされてローマにいられなくなり、東方の国々へと布教活動を行って広まっていきました。

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そのネストリウス派の影響を最も受けていたのがイル=ハン国。モンケ=ハンが弟フラグに命じて西アジアへ侵攻しアッバース朝を倒した時に出来た国です。

アッバース朝はモンゴル帝国が出来た時にはその領土を極端に減らしていましたが、8~9世紀には非常に広い範囲を支配していました。ここで見て欲しいのがアッバース以前の『ササン朝ペルシア』。7世紀以前にイラン高原の一地方から勃興した広い範囲を支配する国で

イスラーム諸王朝とキリスト教国家

このササン朝にもキリスト教のネストリウス派が多数入り込んだと言われています。

アッバース朝はカリフが治めたイスラーム帝国ですが、ネストリウス派の教徒たちはその圧政下でも信仰心を持ち続けながら暮らしていました。同じ宗派を信仰する人達も多いモンゴル人達を彼らは歓迎しています。イル=ハン国はそうしたネストリウス派のキリスト教徒たちの政治力や経済力を必要とし保護する方向に向かったのです。

さらにイル=ハン国では隣接するマルムーク朝(イスラーム勢力)と敵対したこともあって西ヨーロッパのキリスト教世界とも接近。イギリスやフランス国王、ローマ教皇と使節を交換したのでした。

 

勿論、イル=ハン国だけではなくモンゴル帝国の首都カラコルムにもキリスト教会からの使節は送られています。

バトゥの西征で十字軍遠征の際に散々苦戦したイスラム勢力の一部が倒されたことやワールシュタットの戦いを見て無関心でいられるわけがありません。

そんな国からの再侵攻への恐れとイスラーム対策も兼ねてローマ教皇のインノケンティウス4世(在位1243~54年)フランシスコ修道会プラノ=カルピニ(1182頃~1252年)を使節として派遣させました。

ちなみにインノケンティウス4世は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世が亡くなった時の教皇です。

歴ぶろ
歴ぶろ

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また、教皇だけでなくフランスからも国王ルイ9世がフランシスコ教会のルブルック(1220~93年頃)をカラコルムのモンケ=ハンの元に派遣させています。

 

イスラム教から影響を受けた場所は??

これまでは主にキリスト教のお話をしましたが、続いてイスラム教についても触れていきます。

  • 統治した場所や隣接地域にイスラム圏が多かったこと
  • 支配階級として重用した色目人の多くがイスラーム教徒だったこと
  • イスラーム商人が多数やってきていたこと

から場所によってはキリスト教よりもイスラームの影響を大きく受けています。

モンゴルの統治

13世紀半ばのチャガタイ=ハン国ではイスラーム教を保護していましたし、元に伝わったイスラーム教は清新教と呼ばれるようになり、大都をはじめムスリム商人が多くいる交易の拠点となるような港市の泉州、広東など各地にモスクが作られています。

 

ヨーロッパに伝わったこととは??

十字軍遠征以降目覚ましい経済発展を遂げていたイタリアの商人たち。中でも最初にイタリアとモンゴルの商業路を確立させたのがヴェネツイアの商人ニコロとマフェッツォ=ポーロの兄弟でした。

この兄弟と共に中央アジア経由で元の大都へ訪れたのがニコロの子、マルコ=ポーロです。元の大都ではフビライ=ハンに仕えています。

彼は帰国後に東方見聞録をまとめヨーロッパに中央アジアや中国に関する詳細な記録を残すと、後に多くの写本が生み出され大航海時代に活躍した者達の原動力となりました。

大航海時代のキッカケになった出来事 タイトルは思いっきり世界史ですが、18~19世紀に外国船が頻繁にやってきたことに繋がる出来事でもあります。その度重なる外国船来航によ...

 

各ハン国のその後はどうなったの?

14世紀に入ると、ハイドゥの乱をはじめとした内紛や天災が相次ぎました。ちょうど中世温暖期から小氷期への移行期が14世紀に当たります。

気候変動による天候不順で農作物が不作となると、人々の栄養が十分取れなくなりました。結果、疫病が流行し始めます。

14世紀のペストと言えばヨーロッパでの惨状が有名ですが、その大元を辿ると最初に大流行したのは元朝末期の1320年頃~1330年頃にかけての中国でした。この流行が中央アジア、ヨーロッパへと飛び火し猛威を振るっていたのです。

この混乱の中、元では明が起こってモンゴル高原へ追われたように各ハン国も分裂・崩壊の道へ進みます。

年号 首都 備考
チャガタイ=ハン国 1227年
~14世紀後半
アルマリク チンギス=ハンの次子チャガタイが中央アジアに建国した国。

ハイドゥの乱の後にオゴタイ(チンギスの三男でハーンとなった人物)の旧領を併合すると、住民のトルコ人の影響から国もトルコ化・イスラーム化した。

最後は内紛で東西に分裂した後、チャガタイ=ハン国に仕えていたティムールに征服された。

キプチャク=ハン国 1243~1502年 サライ ヨーロッパへ西征したバトゥが帰途に南ロシアで建国。チャガタイ=ハン国と同様、住民がトルコ系であったことから急速にトルコ化・イスラーム化。

黒海に通じる交易路を抑え、陸路で繋がるロシア諸侯に朝貢させる以外にも海路を通じてマルムーク朝やビザンツ帝国ともかかわりを持つ。

が、15世紀に入ると内政の腐敗により衰退。イヴァン3世のモスクワ大公国の独立によって崩壊。

イル=ハン国 1258~1353年 タブリーズ 第4代モンケ=ハンが弟フラグに西アジア遠征を命じたのを機にイラン中心に建国。

シリアをマルムーク朝と、カフカス(コーカサス)キプチャク=ハン国と争った。フビライが建てた元朝と同じトゥルイ家出身だったこともあり友好関係を築いた。

14世紀半ばごろから王権を巡る争いが生じ、国内が分裂。チャガタイ=ハン国から起こったティムール王朝に征服されている。

こうしてモンゴル帝国は解体していくことになったのです。

ちなみに各ハン国を建国した王達の関係図が下になります。

チンギスハン家系図

以前書いた記事に誰がどこを支配していったのか記載したので良かったら確認してください。

チンギスハン家系図
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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