キエフ・ルーシ~ロマノフ王朝誕生まで【中世ロシア史】
前回、ロシアの地理をまとめたのでいよいよ本番「ロシア史」に入ります。
ロシアの始まりから中世までの簡単な流れをまとめていきます。なぜロシアとウクライナが「兄弟国」のように言われているのかが何となく見えてくる気がします。
ロシア史の中でもよく耳にするイヴァン3世や雷帝も登場です。
キエフ・ルーシの誕生(9世紀頃~)
4世紀頃から起こったゲルマン人の大移動が落ち着いてきた頃のこと。スラブ人が西・南・東へと移住するようになりました。
その後、8~11世紀になるとノルマン人の大移動が始まります。彼らはロシア方面へも進出していきました。
その時に作られたのがノヴゴロドという都市です。そこから更に南下し、ドニエプル川~キエフ~黒海~コンスタンティノープル(ビザンツ帝国)までの道『ヴァリャーギの道』を切り開いていきます。
こうして9~11世紀にはスラブ人のいた地域はノルマン人も入り込み、かつ、いくつもの小さな部族たちが土地を巡る争いを続けていくことになります。
次第に社会の安定を求められるようになっていた中で、ノルマン人の一派であるスウェード人を率いたリューリクという人物がやってくると彼を支配者として迎え入れました。リューリクはこの期待に応え、ノヴゴロド地方をまとめ上げていきます。
また、リューリクの死後には彼の遺児を支えたオレーグという人物がノヴゴロドだけに留まらず南下してキエフも占領。新しい拠点はキエフ・ルーシと呼ばれる大公国が誕生します。
- 大公国とは?
-
大公国(たいこうこく)は、君主制国家の一形態であり、大公(英語ではgrand duke, grand princeまたはarchdukeの3種類がある)によって治められている国を指す。
大公国(wikipedia)より
- 大公とは?
-
1 ヨーロッパの君主の一門の男子をいう語。 2 ヨーロッパの小国の君主をいう語。その国を大公国という。「ルクセンブルク大公」
大公とは―コトバンクーより
その後もリューリクの子孫がビザンツ帝国や東フランク王国のオットー大帝などとも交流を図りながらリューリク朝としてキエフ・ルーシを支配し続けていました。
ビザンツ帝国との繋がりとキリスト教の伝来
10世紀後半に入ると、さらなる勢力拡大を目指しビザンツ皇帝との親族関係を作り上げました。この時の婚姻によりロシアにキリスト教の教えがもたらされることになります。
ただし、この頃のキリスト教は東西で仲が悪く既に分裂の危機に陥っていた頃の話です。
当然、ロシアには東側の本拠地コンスタンティノープル教会を庇護下においていたビザンツ帝国からキリスト教がもたらされたため、東側の教義が入ってきています。
キエフ・ルーシの衰退
キリスト教が入った後のキエフ・ルーシでは法典(ルースカヤ・プラウダ)が作られるようになり、代替わり後には西ヨーロッパとの関係も強化。最盛期を迎えるようになったのですが...
キエフ大公の後継者争いをきっかけとして徐々に衰退(キエフ・ルーシは分割相続体制だったため、代替わりの度に争いが生まれ領地は小さくなり多数の諸公国が生まれています)。やがて10~15の公国の集合体のような国となります。
更にその衰退に拍車がかかるのですが、その原因にモンゴルの侵入と十字軍の遠征が挙げられます。危険を避けるため南北の交通が避けられるようになったのです。これに伴い、キエフを通る『ヴァリャーギの道』が廃れていきました。
13世紀に入るとキエフがモンゴル軍に占領され、キエフ・ルーシは事実上幕を閉じました(1240年)。いわゆる『タタールのくびき』と呼ばれるモンゴル支配下の時代へと移っていきます。
※ちなみにキエフ大公国としてのキエフ・ルーシは幕を閉じていますが、キエフ公国は残り続けます。
諸公国の台頭
モンゴルが侵入してくる前後の12世紀の半ばころ、現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ、一部ポーランドとラトビアには諸公国が出来上がっていました。いくつかの諸公国を見ていくこととしましょう。
ノヴゴロド公国
ノヴゴロドは沼沢地だったためモンゴルは侵攻を諦めており被害は受けていませんが、この地域は東からの侵攻はなくても西のドイツ騎士団やスウェーデンが攻め込んできていました。
モンゴルの支配は占領地を完全支配せず税を治めれば良しとしており、布教の心配もない。
ということで、バルト海に通じて経済力をつけていたノヴゴロド公国は自ら貢納し西からの侵攻に集中して徹底抗戦・撃破して国の安定に務めました。
これを実行したのがアレクサンドル=ネフスキーという中世ロシアの英雄です。
「税を治めれば良し」とするモンゴルが統治した時代は『パクス・モンゴリカ』とも呼ばれ、割と平和な時代だったとも言われています。
また、ノヴゴロドがバルト海を介して貿易を行っていたのはハンザ同盟の都市商人たち。木材・蜜蝋…そして欠かせないのが毛皮!です。四大商館の一つとして存在感を示していました。
アレクサンドル=ネフスキーはノヴゴロド公を経てウラジーミル公国も支配。ウラジーミル大公となっています。
モスクワ大公国とトヴェリ大公国
英雄アレクサンドル=ネフスキーの死後にはウラジーミル公国の大公位を巡ってモスクワとトヴェリ(ノヴゴロドの南方、ノヴゴロド―モスクワ間に位置する)が争うようになりました。豊かな土地をめぐる後継者争いのため親戚同士(アレクサンドルの弟の血筋と直系の血筋)でぶつかったのです。なお、この地はリトアニアも狙っており時に諍いに介入しています。
なお、モスクワ・トヴェリの両国とも
- モンゴルが故郷と同じような草原地域は強めの支配だったのに対して、モスクワ(森林地域)やノヴゴロド(沼沢地)は緩やかな支配だった
- ノヴゴロド~ヴォルガ川の重要地点に位置し、農耕地帯の豊かな土地=税収が豊富
こういった背景により豊かな国だったようです。
最終的に両者の対決はモスクワが勝利。モスクワ大公国は大きく成長していくことになります。そうは言っても後々また大公位を巡って内部分裂を繰り返すことになっていくのですが...この内紛をイヴァン3世(イヴァン大帝)が決着させています。
そんなイヴァン大帝はビザンツ帝国最期の皇帝の姪っ子ゾエと結婚し「第三のローマ」を主張できる根拠を作り上げていきました。
イヴァン3世の時代(1462-1505年)
イヴァン3世は結婚とビザンツ帝国の滅亡によって、いよいよ「第三のローマ」を主張できる立場となっていました。
「ローマ」というだけあってローマ教皇はロシアでローマの信仰が広まることを期待しましたが上手くいかず、そのまま東側の教会の中心がそのままロシアへと移るに留まっています(やがてロシア正教となっていく)。むしろ逆にカトリックを信仰するポーランド人やリトアニア人に対して反感を抱いていたようです。
そうした中でイヴァン3世はとうとうモンゴルの支配を終わらせ、強大国となっていた隣国のリトアニアと戦って屈服させています。
さらに新法典を作成、官僚による統治システムの構築を行いつつ、神聖ローマ帝国やローマ教皇庁、ハンガリー、オスマン帝国にイラン...と周辺諸国との友好関係を築き、安定政権を作り上げました。
そんな彼は「ツァーリ(古代ローマのカエサルのロシア語訳、皇帝)」を名乗ってモスクワ大公である自身が古代ローマの有力者と等しくなったことを示していきます。
ものすごい功績を残したイヴァン3世でしたが、晩年には息子達が(異母)兄弟間で対立。続けて、その次の代でもモスクワ大公国の政権内部での混乱が続いていったのです。
雷帝(1533-1584年)の即位と内部争いの勃発
イヴァン3世の次代としてモスクワ大公についたのはヴァシーリー3世でした。ヴァシーリー3世は前王の政策を受け継ぎ、領土併合・拡張政策を行います。
一方で最初の結婚では子に恵まれず、即位から21年後の再婚でようやく二人の息子を授かりました。50歳を過ぎた頃の子供でしたので長く生きることも出来ず、長男が3歳でモスクワ大公に即位することとなります。
この子こそがイヴァン4世(雷帝)。ロシア史でも暴君として知られた人物です。
モスクワ大公国の信仰していたロシア正教会の総主教はヴァシーリーの離婚→再婚に大反対。二人の間に生まれたイヴァンは「邪悪な子」として忌み嫌われました。
幼い頃から権力闘争の渦中で虐待じみた環境の中で育ったうえに母親が毒殺疑惑の中で命を落としたこともあって、イヴァン4世は非常に猜疑心が強く小動物を虐待するような歪んだ性格の持ち主に育ちました。
それでも本人は統治者としては有能で、
- 祖父イヴァン3世が名乗った『ツァーリ』の名称を本格的に使いはじめる
→これ以降、モスクワ・ツァーリ国を自称するように
- 後のシベリアとなるシビル=ハン国をはじめ、モンゴル由来の国々を支配
- ロシア正教会をツァーリの支配下に
- 腐敗した貴族政治の改革
これらによって中央集権的な政治体制を作り上げていきます。
※日本ではモスクワ・ツァーリ国ではなく、そのままモスクワ大公国やモスクワ国と呼ばれることが多いです
この功績の裏にはイヴァン4世の妻の精神的な支えがあったのですが、その彼女が死去。彼女の死に「妻の実家の敵対勢力(既得権益層の貴族達)が関与していた」と疑うようになると『雷帝』の由来となった恐怖政治に突入していきます。
その典型的な政策が『オプリーチニナ』と呼ばれる制度。
秘密警察のような存在を作り上げ、最終的にはツァーリと敵対する貴族や敵国と内通する都市の住民を殺戮するような死刑執行機関のようなものとなってしまいました。こうして主となる官僚を自身の意になる者たちで固めて軍事面でも改革を行っていったのです。
さらに農民の移動を制限し、農奴制の強化を徹底させました。
- ロシアにおける農奴制の始まり
-
農奴と呼ばれる半自由民の農民が領主に隷属し,領主から土地を分与されて耕作に従事,領主に対して賦役,生産物地代納入の義務を負っていた封建的身分・社会制度。農奴は奴隷と異なり,土地,耕作用具,役畜などの生産手段の保有と家族をもつことを認められたが,転住,職業選択の自由を禁止され,強い人身的制約下におかれた。
農奴制とは‐コトバンク‐より ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「農奴制」の解説農奴制が西ヨーロッパでペストの流行→封建制度の弱体化によって衰退しつつあった13~14世紀頃にロシアにも到達。徐々に農奴制が広まり、15~16世紀には法によって農民は一定時期以外の土地の移動を禁じられるようになっていました。
※西ヨーロッパが農奴制全盛期の頃は東への移住促進のためにロシアでは農民優遇政策がとられています
法により移動が制限され法を破った時に厳しい罰が課せられるようになっても「それでも逃亡したい」と考える農奴は当然存在していました。
最終的に現在のウクライナ~ロシア南方のヴォルガ川やドン川、ドニエプル川流域に住み着いていくのですが、この集団には農奴だけではなく犯罪者や没落貴族、都市部の貧民などやむを得ず流れ着いた者達も多くいたそうです。
彼らは「自由な人」を意味するコサックと呼ばれ、武装しつつ自分達で狩猟採集や略奪行為を行いながら税を払わない生活を営みました。
やがてロシア政府が無視できない程の集団となったため、反乱に目を光らせる一方でロシアの遠征にコサックを利用。シビル=ハン国への遠征では彼らが活躍したと言われています。
本人の性格もますます苛烈を極め、有能だと期待された長兄のイヴァンは父イヴァン4世の怒りを買った妊娠中の妻を庇って死亡。息子を殺害した罪の意識に苛まれながら約3年後にイヴァン4世は息を引き取ることとなります。
リューリク朝の断絶とロマノフ王朝の誕生
イヴァン4世の後にツァーリを継承したのはイヴァンの弟フョードルでしたが、彼は生まれつき病弱で知的障害を持っており、やがてフョードルの妻の兄ボリス・ゴドノフが政治の実権を握るようになります。
その後、フョードルが後継者を持たぬまま死亡。ボリス・ゴドノフが帝位を狙ったために暗殺されたのでは?と噂されました。
また、イヴァン4世が亡くなる二年前に7番目の妻との間に生まれたドミトリー(教会法で認められず庶子とされた)もフョードルの死以前の段階で謎の死を遂げていました。
こうしてリューリク朝は途絶えたため、ボリス・ゴドノフがツァーリを継承しています。そんな彼は雷帝のような独裁体制を敷こうと動き始めました。1595年に対スウェーデンで勝利した他、雷帝時代にポーランドなどとの戦争(リヴォニア戦争)で敗れて失った領地を奪い返していったのです。
ところが、そんな矢先の1600年頃のこと。ロシアは大飢饉に襲われてしまいます。
大飢饉をきっかけにリューリク朝を断絶させた噂もあるボリス=ゴドノフへの不満が募る中でイヴァン4世の末子ドミトリーを名乗る人物がポーランドに出現。農民たちの暴動だけでなく貴族達の反乱が起こるようになります。
ポーランド国王は、これを利用してロシア領を奪おうと画策。
偽ドミトリー率いるポーランド軍が侵入すると、貴族や農民たちはこの偽ドミトリーを信じ反乱を起こします。その最中に体調を崩したボリス・ゴドノフが亡くなり、彼の長男がツァーリにつくも反乱は止められず...
最終的にはこの偽ドミトリーがツァーリの地位につくこととなりました。
ところが、この偽ドミトリーもその後のポーランドへの反乱の最中に殺害され、とにかく短命政権が次から次へと続くことに。
こうしてロシアでは各地の有力者達が独立、ツァーリの権威は地に落ちてしまったのです。
ロマノフ王朝の誕生
以前から周辺諸国との戦いが続いていたモスクワ大公国。強力な指導者がいなくなったことで危機感を持つようになりました。社会を安定させて周辺諸国に対抗するため、有力者たちが集まって全国会議(ゼムスキー・ソボル)を開催します。
この会議で名前が挙がったのがリューリク朝の始まりから続くロマノフ家の当時16歳だったミハイルです。彼は一族や有力者に支えられながら統治。ロシア史上最後の王朝となるロマノフ朝が誕生しました。