明治政府が大日本憲法制定と同時期に行った国家体制の整備について詳しく解説
明治政府はこれまで起こってきた激しい自由民権運動(「藩閥政治するな」「国会開け」という主張の下で行われた政治運動)の取り締まりをしていた裏で、国会の設立や憲法制定は避けられないと考えて自分たち主導での立憲政治の実現を目指します。
そんな中、伊藤博文は1882~83(明治15~16)年にかけてヨーロッパへ視察に行きました。ドイツのグナイスト、オーストリアのシュタインといった一流の公法学者や政治学者からプロイセン憲法やドイツ諸法の憲法について学びます。
- この時期のドイツはどんな状況?
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中世から続いていた神聖ローマ帝国がナポレオン・ボナパルト率いるフランスに帝国の侵攻を受けて完全に瓦解。
国の瓦解後は神聖ローマの君主を歴任していたオーストリア中心のドイツ連邦が誕生しますが、神聖ローマと同様の各領邦の連合体のような国家でした。そんな領邦国家の一つでドイツ連邦を脱退したプロイセンは普墺戦争(1866年)で自国を盟主とする北ドイツ連邦を発足させます。さらにフランスを挑発して普仏戦争(1870-71年)を起こすとほかの領邦国家を圧倒。強い権限を有したドイツ帝国を作り上げたのでした。
なお、この普仏戦争でフランスを挑発したのがビスマルク。皇帝ヴィルヘルム1世のもと鉄血宰相としても知られた宰相です。
出来たばかりの国で遅れて産業革命が起こったにもかかわらず、ドイツの産業、技術、化学は世界トップクラスまで引き上げられています。
さらに他の立憲君主国家であるイギリスやベルギーといった国々の政治や法律の諸制度を学びます。その際、伊藤は
天皇中心の強い国家を作りたいからドイツを参考にしよう。
と方針を定めます。イギリスなどが議会中心の憲法なのと比較して、皇帝中心の憲法だったためです。
さらに明治政府は、大日本帝国憲法の制定準備とほぼ同時進行で
- 華族制度の整備
- 内閣制度の確立
- 皇室財産の設定
- 地方自治制度
- 諸法典の編纂
にも当たりました。
ここでは上記の5つの項目について詳しく解説していきます。
華族制度の整備
国会を開くにあたって最初に行ったのが華族制度の整備です。これにより国会が開かれた際の上院(貴族院)の選出母体が出来上がりました。
1884(明治17)年に公布された華族令により
- 公
- 侯
- 伯
- 子
- 男
の五爵に分けられることが決まります。
もともと旧体制でも上流階級にいた旧大名や公家といった人々に加え、明治維新以後の国家功労者や国内の対立を和らげる意図から民権派の指導者や旧幕臣の有力者も含まれていました。
同時に日本伝統の宮廷の制度や慣行を西洋式に改め宮中改革を行っています。
内閣制度の確立
続いて行った改革が1885(明治18)年の内閣制度の創設です。
太政官制が廃止となり、法制局や逓信省などが新たに整備されました(上の図の緑色の枠内が内閣制度で残ったり創設されたりした官庁です)。
以前の太政大臣や左大臣、右大臣、有力な藩閥政治家がついていた参議の職が廃され、各省の行政長官に国務大臣を置き、新しく置かれた内閣総理大臣の統括の下で政治運営を行う制度を開始。こうして各省の長官は自分たちの省の任務に関して天皇に直接責任を負うことになります。
この初代内閣総理大臣には伊藤博文が付きました。
自由民権運動は藩閥政治への反発も一因です。初代内閣総理大臣となった伊藤が長州閥の有力者であったように、主に薩長出身の藩閥政治家が政治の中枢部を占め、10名の閣僚中4名が旧薩摩藩、4名が旧長州藩出身者でした。
当然ながら「藩閥内閣」として批判の対象となっています。
一方で、宮内省を内閣の外に設置し府中(行政府)と宮中を別としています。
宮中には天皇の側近で相談相手にあたる常時輔弼の任にあたる内大臣に三条実美(さんじょうさねとみ)を置き、天皇御璽(天皇の印)・日本国璽(日本国の印)の保管など宮中の庶務も管轄させました。
皇室財産の設定
1885(明治18)年~1890(明治23)年までに約365万haの山林、原野、有価証券を皇室財産としています。
地方自治制度
ドイツ人顧問モッセの助言を得て山県有朋(彼も長州閥です)を中心に大きな改正が加えられました。
1888(明治21)年に市制・町村制を交付し、翌年実施。続く1890(明治23)年には府県制・郡制が交付されています。
市制・町村制とは
この法律により、市と町村は形式上、国とは別個の自治体として認められました。
人口2万5000人以上の都市が「市」となり、郡と対等の行政区分にされています。従来の町村は合併されて新しい町村になりました。それぞれの制度は下のイラストのような違いがあり、郡長・府県知事・内務大臣により監督されています。
府県制・郡制
続いて1890(明治23)年に出されたのが府県制・郡制です。
府県のトップ・府県知事は中央政府による任命で選出されます。
さらに、市制で選出された市会議員や市参事会員、さらに郡に所属する各町村から選出された郡会議員と郡参事会員による間接選挙で府県議員が選ばれる制度です。
強い官僚統制のもとで財産と教育のある名望家である地方有力者を組み込む制度となっていますが、郡制・郡会や市町村会議員の等級選挙制度は批判が高まり、1920年に廃止されました。
諸法典の編纂
近代化に不可欠と考えられた諸法典の編纂は明治初期から着手し始めています。フランスから招きいれたボアソナードらの助言のもとでフランス法をモデルとする法体系が取り入れられ、1880(明治13)年には憲法制定前に刑法と治罪法を公布しました。
その後、伊藤博文が内閣総理大臣となって組閣した第一次伊藤内閣(1885~1888年)の治世下にかつて結ばれた不平等条約※改正の必要を感じさせる出来事が起こってしまいます。1886(明治19)年のノルマントン号事件です。
※江戸時代に結ばれた日米修好通商条約含む不平等条約は、総称して安政五ヶ国条約(米英露仏蘭)と呼ばれています。
ノルマントン号事件で当時のイギリス人船長が日本人の乗客を誰一人救出せず、不平等条約にある領事裁判権への反発が一層強くなりました。
その事件だけが原因とは言いませんが(岩倉使節団(1871~73年)が訪れた場でも不平等条約の一つ、関税自主権の交渉は行われています)「とにかく条約を改正しよう」という雰囲気は確実に作り上げられていたのです。
そうした事情も後押しする中で1889(明治22)年には大日本帝国憲法が発布。
さらに1890(明治23)年には民法(の一部)、商法、民事・刑事訴訟法が公布され、法治国家としての体裁が整えられます。
民法がなぜ一部の公布に留まったのかというと…
制定以前から民法が法曹界や政界の保守派から「日本古来の伝統な家族制度を破壊する!!」として批判が巻き起こっていたためです。この議論は民法典論争と呼ばれ、かなり白熱しました。
結局、1896(明治29)年と1898(明治31)年に大幅に修正された民法・明治民法が交付されることになります。
この新たな民法は断行派の梅謙次郎や反対派の穂積陳重(のぶしげ)らが原案を修正し起草したもので、
- 西洋風の一夫一妻制度が確立
- 儒教的道徳観を反映
- 戸主と長男の権限が大きい
- 夫権・親権が強い
といった内容に落ち着きました。
さらに商法も民法典論争の影響を受けて実施延期となり、1899年に修正して公布されており、ここでようやく憲法(1889年発布)も併せて六法が整備されたのでした。